2008年12月21日日曜日

グーグルアースでクチャを巡る1


クチャの町を抜け、キジル石窟へ車で向かっていると、いきなりヤルダン地形が両側に現れた。ヤルダンとは風食地形のことで、おそらくウイグル語だろう。敦煌の近郊にもヤルダンがあり、絵葉書だけ買っていたが、その絵葉書で見る風食地形とはかなり違っていた。クチャのヤルダンは丸い。


直進の道を飛ばすのでヤルダン地形はすぐに終わったが、その後はチャールタグ(ウイグル語で不毛の山)となる。それはヤルダンよりもっと凄みのある地形だった。勢いを持って引っ張られた土地が急激に冷やされてコチコチに固まったとでも表現したくなるような地形だった。
このあたりは白い霞で覆われたようにはっきりと見えないが、解像度は結構ある。どうも難く薄い層と、柔らかく厚い層が交互に重なってできた地層が横倒しになって、その後風化を受けたものがチャールタグのようだ。左カーブの先で河を渡る。ここからはカーブの連続する山間の道となり、間もなく霞がとれてくっきりと見えてきた。赤い河床に白い物が見える。そうだ、これは塩水渓谷だ。橋のところで車を停めてもらい、降りていった河床が昔のシルクロードだったらしい。塩水渓谷そのものがシルクロードだった。
三蔵法師はこの道を通りました、とガイドの丁さんは教えてくれた。

日干しレンガを積み上げた漢時代の烽火台が幾つか目に入った。しかしグーグルアースではそこまでは見つけられなかった。川沿いの道を辿っているとまた大きなカーブをショートパスする2つの橋とトンネルがあり、すぐ先で道は二手に分かれている。右に向かう道は天山神秘大峡谷からの帰りの道だということがわかった。
しかし、平原やら荒れた山の間やらを通ってキジル石窟へと向かった道はグ-グルアースでは確認できなかった。丁さんが「ポタラ宮と呼んでいます」と指さした奇岩はどこにあったのだろう。


キジル石窟の南面を流れるムザルト河に架かる橋を渡ったというのに、その橋もグーグルアースにはない。2003年当時には、ムザルト河の橋もまだできていなかったのだろう。

もちろん、塩水渓谷のどこかからこの橋に至る道も、どうしても見つけることができないのではなく、まだ道が通っていないころの衛星画像だと思えば不思議ではない。

では、ここからグーグルアースを離れて、塩水渓谷からキジル石窟に至る行程を我々の撮った写真で追っていくことにする。  
いつの間にか河と離れて赤い山間を抜けて下るとまたヤルダン地形が現れた。その奥のやがてヤルダン地形になりそうな低い峰を越えると、向こうに見える山々越しに雪の天山山脈がうっすらと見えたが、撮った写真はみなピンボケだった。クチャで天山山脈が見えたのはここだけだった。そして平らな何もない景色が続いて、緑の帯が見えてきた。それを左に見ながら進んでいくと左にまた赤い異様な山が、というより衝立が広がってきた。朝出発して以来、どれもこれもが異様だったが。
ずっと山と並行して走るのだろうかと思い出した頃、左折して山に向かっていった。 また山の中の道になり、ここはここで異様な景色だったが、やがて前方に緑が見えてきた。そして、ムザルト河の橋を渡った。対岸に先程の赤い山々が見え、ムザルト河にはバンガローがあったりする。
この河の水は澄んでいるので、川辺に緑があるのだが、グーグルアースで見るとすぐ西にダム湖とオアシスがある。オアシスにはHei-tzu-erhという町の名が見えるが、漢字でないとわからない。橋を渡ると間もなくキジル石窟の駐車場がある。グーグルアースでは、鳩摩羅什の像がある丸い植え込みや、谷西区の石窟に至る道、そして、我々が谷東地区や谷中地区の石窟を見学するために通った、木々に囲まれた道もわかる。木々は1本1本わかるくらい解像度がよい。

木陰を歩いていると幾分涼しかった。「コウヨウがあります」石窟専門ガイドの馬さんが言った。すると丁さんと夫も加わり3人で口々に「生きて千年 死して千年」と言い出した。私は秋になると紅葉する木があるのかと間の抜けた解釈をしたが、「胡楊」のことだったのだ。
谷内地区からは水の流れがあり、2本に分かれた水源もグーグルアースで見ることができる。上の写真で遠くの植物が赤っぽいのはタマリスク、その手前の黄色いのはヒマワリです。

※参考文献

「シルクロード絲綢之路 第5卷天山南路の旅」 1981年 NHK出版