2011年1月6日木曜日

3-4 コロッセオの隣にはルードゥス・マグヌス(Ludus Magnus)

コロッセオの南出口から東側へ。こちらも北側は通路1つ分残っているらしく、その修復された外壁が見える。
未練がましく舞台に出る通路を探すと、そこに行くまでにアーチのスパンが他より広いところがを見つけた。東の剣闘士入場口だった。
そこから舞台で見学しているグループも見えた。柵の内側には別のグループがいる。やっぱり特別なグループでないと舞台には入れないようだ。
アーチの上にも十字架と銘文の石板が埋め込まれている。銘文の下の方にBenedictusXIVとある。
『ROMA』は、中世には要塞に変えられ、教皇ベネディクトゥス14世が十字架の道行きに指定した18世紀中頃まで、コロッセオは建築資材を取る場所となっていたという。
きっとそのようなことが銘文に記されているのだろう。18世紀半ばには当時すでに南側の通廊部は失われていたのか。そう言えば柵の外側に円柱の痕跡が2つあった。 
いじましく舞台で見学する人たちを写す。考えてみると、あまりにもこの舞台に行くことに固執して、コロッセオの高いところからローマの街を眺めるなどということをしなかったなあ。パラティーノの丘やフォロ・ロマーノくらいは見ておきたかった。
②コロッセオの次は⑩サン・クレメンテ教会に行く予定だ。⑦ネロのドムス・アウレア(黄金宮殿、Domus Aurea)の一部らしきものは来る時に3番のトラムから見えたと思ったが、道路から近すぎる気もする。

現在11時5分、サン・クレメンテは12時から15時まで閉まるので急ごう。3番のトラム(実際にはバス)はラビカーナ通を通るが、サン・クレメンテの入口はもう一つ南の通にあるので、待ち時間などを考えるとサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ通を歩いた方が早そうだ。それに⑥剣闘士養成場も見てみたいし。
コロッセオは低い所にあるので、階段を登ってチェリオ・ヴィベンナ通(Via Celio Vibenna)を渡ることになる。

『ローマ古代散歩』は、68年のネロ失脚後に政局を安定させた質実剛健型のウェスパシアヌス帝が、ネロの宮殿の池を干拓してこの巨大な円形闘技場を着工し、息子ティトゥスの代に落成した。従って彼らの氏族名を冠して、当時はフラウィウスの円形闘技場と呼ばれていた。
西側の一角コンスタンティヌス帝の凱旋門の北には、太陽神を模したネロのコロッスス(巨像)の台座跡が見つかったが、コロッセウム(ラテン語)の名はこれに因んでいるという。

かなりの窪地だったようだ。そんな地盤の弱いところに、こんな大きな建造物を造って、それが1900年以上も過ぎた今でもしっかりと建っているのだから、当時の土木技術はよほど優れていたのだろう。
ドミティアヌス帝は、外壁のアーチを彫像で飾ったほか、東隣にルードゥス・マグヌス(Ludus Magnus)という剣闘士の養成場を建設し、地下道で闘技場と直結させた。今日ではその遺構の半分が発掘されたという。
その地下道はかなりの坂道だったはず。それとも階段があったのだろうか。
⑥は上空から見ると、確かに楕円形の半分が出土した状態のままなのがわかる。

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発掘現場の西から見るとルードゥス・マグヌスが弧を描いているのがわかる。北側の遺構は何だったのだろう。
南西角から眺める。小さく部屋に仕切られている。剣闘士が1人につき1部屋あてがわれたのだろうか。
バスやトラムの通るラビカーナ通の向こうは様々な遺跡のあるオッピオ公園(Parco Oppio)の緑。ローマにはカサマツではない木があるのだなあ。
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ通(Via San Giovanni in Laterano)は思ったよりも狭かった。その割に路上駐車が多い。
ガイドの説明によると、自動車が出来る前から街があったので、駐車場というものがないし、造る余地がないという。そう言えばパリの街も路上駐車の車で一杯だったなあ。行った当初は、広い通りには道のど真ん中にも駐車の列があったので驚いたが、それはタクシー乗り場だったりしたものだ。
そう言えばローマのタクシー乗り場はどういう風になっていたのだろう。バスや地下鉄を利用するつもりだったので、タクシーは気をつけて見ていなかった。
フォロ・ロマーノ近辺は食事のできるような店はないと思っていたが、この通りにはレストランがポツポツとあった。しばらく歩くと街路樹が見えてきた。たぶん街路樹のある辺りがサン・クレメンテだろう。いつの間にか路上駐車の列は左側から右側に変わっている。
一つ通りを越えたところにサンクレメンテ教会はあった。


※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)