2011年1月23日日曜日

7-4 フォロ・ロマーノ(Foro Romano)、中央広場周辺2

フォロ・ロマーノとは一体どういうところなのか。
『ROMA』は、後にフォロができるこの地帯は、紀元前10世紀から11世紀にかけては沼地で健康にも悪く、カンピドーリオの丘やパラティーノの丘の住民は墓を作る土地として利用していた。紀元前8世紀頃、この地区は土を固めたもので舗装されているが、このことは、この地帯が都市を形成していたことを物語っている。
ガリア人の略奪(紀元前390)の後は、建物の修築と新築、宗教施設の建設がおこなわれた。カルタゴに対して勝利をおさめて(紀元前202)、ローマが地中海世界の首都となった時、フォロにも時代の要求に応じた首都にふさわしさを備える必要が生じた。こうして、4つのバシリカ(長方形の会堂)が建設され、主要な神殿の改装がおこなわれた。
後には、シッラが始め、カエサルが受け継いだ都市整備事業は、アウグストゥス帝が完成させる。「Fori Imperiali(帝政期のフォロ)」の建設によって、共和政期のフォロは背景的位置に追いやられ、帝政の豪華さや威信を示すモニュメントになるという。
㉖ユリウスの演壇のある道から左折していて、当時の轍を発見。中央広場の南側の道は黒石を敷きつめてある。
ついでにコロッセオ方面を眺める。さすがにここからはコロッセオは見えない。
東側は黒い舗道から白い石の舗道に変わっている。この辺りに㉗アウグストゥスの凱旋門(Arco Aziaco)があったらしい。
この台座の高い円柱はなんだろう。列柱にしては妙だ。左側の5段ほどの長い石段が見えているのはバシリカ・ユリア(Basilica Iulia)。
中央広場に転がっている円柱発見。ゴマ殻えぐり(fluting、柱身に彫った縦の溝)の末端がどのようになっているかがよくわかる。
背後のレンガ壁はこの円柱の台座かな。
縦溝のない円柱が倒れて割れたままになっていたり、その向こうには縦溝のある円柱の短いドラムが積み上げてあったりする。その右手に低く屋根がかかったところがある。
これが㉑クルティウス沼(Lacus Curtius)、沼?井戸か湧き水の出る泉のように見える。
『ローマ古代散歩』は、中央広場には、屋根の下に㉑クルティウス沼の史跡がある。同名のサビニ兵が呑まれた底無し沼、祖国を救うために信託に従って同名の騎士が身を投じた地の裂け目、落雷による地割れを同名の財務官(ケンソル)が聖別したもの等、様々な伝承があるが、フォロが湿地だったことの証しであるという。
中央広場で一番立派な円柱は㉓フォカス帝の記念柱(Colonna di Foca)がある。
『ROMA』は、フォロの役割は、608年にいたるまでの間、変更を加えながらも保持された。608年には、フォカ帝を記念した円柱が建てられたが、ローマ時代最後のモニュメントとなるという。
フォーカス帝がパンテオンをローマ教会に寄贈(『ローマ古代散歩』より)したためらしい。
『ROMA』は、この時点から、この地帯にはしだいに土がかぶさり、モニュメントはキリスト教に合わせて利用された建物を除いて、消えていった。中世にはフォロは、「牛の原」となり、以来18世紀に至るまで、主要な建物は要塞、砂利の採掘場あるいは工場として使われたという。

通路の途中に細長くレンガで輪郭が施されたところがある。何だったのだろう。
凱旋門付近にはいろんな遺構が残っている。⑪帝政期の演壇(Rostra)だ。
『ローマ古代散歩』は、凱旋門の南にはアウグストゥスの時代以降のロストラ(演壇)が残っている。カエサルん゛フォロの大改造を行った際に、⑦のコミッティウムからここへ移したものという。

フォロ・ロマーノをカンピドーリオの丘から眺めると、このような立派な建物が所狭しと並ぶ、「帝政の豪華さや威信を示すモニュメント」だったようだが、それぞれの遺構から想像するのは難しい。
やっとセプティミウス・セウェルスの凱旋門に近づけそうだ。

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※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)