2011年2月8日火曜日

9-5 サンタニェーゼ教会地下のカタコンベに金箔テッセラ

コスタンツァ廟を出るともう日は落ち始めていた。扉の左の壁龕の照明が灯っていた。このように金色でなくても、照明の仕方や見る角度で金色に見えたりすることがある。
ここでやっと気がついた。このファサードの内側にナルテックスがあるのではなく、ナルテックスの外側がなくなっているのだ。平面図で3つの四角い空間が並んでいるのはここだったのだ。
また生け垣の坂道を戻っていく。今度はやや下り坂。
突き当たって右に曲がると、濡れた中庭を犬を連れて歩いている人を見かけた。右側には何か祭壇のようなものがあった。
サンタニェーゼ教会の後陣は南東を向いている。

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従って正面(ファサード)は北西方向にある。ファサードが東にあったサン・クレメンテ教会といい、初期の教会はいろんな方角を向いていたようだ。
扉の少し上までが石造りで、その上はレンガ積みになっている。どう見ても入口の白い石の枠と上のアーチが合っていない。
入口から左の小部屋へ入った。カタコンベの見学はガイド付きで、好き勝手に見て回ることはできない。
Catacombe?
私用の電話をかけている人が待てという合図をする。それで壁に薄っぺらい冊子などがあるのを見ていると、コスタンツァ廟のヴォールト天井のモザイクの写真がたくさん載っている薄い本を見つけた。英語版もある、10ユーロ。買いたかったがその人しかいないので電話が終わるのを待つ。
なかなか終わらないので、いったん本を戻して、身廊の見学に行った。おっちゃんは何故かまた教会内部を撮影しようとしなかった。
小部屋に戻ると、やっと電話が終わって、先に来た人たちがお金を払っていた。

さて、いよいよカタコンベの見学となった。小部屋の奥の扉を開き、その奥の部屋から階段を降りていく。撮影は禁止だったので、残念ながらカタコンベの写真はない。
イタリア語の説明を聞きながら、全くわからないまま、戸棚のように並んだ墓室の間の通路を付いていく。
下の写真はアッピア街道にあるサン・カリストのカタコンベ(Catacombe di S.Callisto)のものだ。
『ローマ古代散歩』は、街道沿いの細長い丘は、掘り易く頑丈な凝灰岩の土壌で、土葬を旨とするキリスト教徒の地下墓地として好都合であり、2世紀末から後の教皇カリストゥスを管理者とするローマ教会の敷地となったという。
そう言えば、カエサルもフォロ・ロマーノの神君ユリウス神殿(Tempio del Divo Giulio)の西面で火葬にされ、その跡には今でも花が供えられていた。古代ローマ人は火葬だったのだ。キリスト教徒だけがカタコンベに埋葬されたのだ。

サンタニェーゼ教会地下も凝灰岩だったかどうかわからないが、掘り易い岩石だったのだろう。
カタコンベと言えば、キリスト教の迫害の時代、カタコンベで集会が行われてきたなどといわれていた。
しかし、『キリスト教の誕生』は、キリスト教徒は確かにカタコンベに死者を埋葬し、場合によっては墓に装飾を施し、祈りを捧げた。しかし通路や墓室は狭く、大がかりな集会は無理だったのである。集会のためには市内に住宅兼教会があった。ただし地下墓地の上にも、礼拝や死者の記念式を行なうための建物が地元の人々によって建てられた。258年、ローマ司教シクストゥス2世が助祭たちとともに逮捕されたのは、そうした地上の建物においてであったという。

確かに地下は、両側に何段かの遺体を収容する空間のある狭く天井の低い通路のようなもので、集会をするほどの空間はなかった。
ところどころにキリスト教徒であったことを示すPとXを組み合わせたモノグラムがあったりした。実はカタコンベで見つけたいものがあった。それは、金箔ガラスのメダイヨンだった。

金箔ガラスのメダイヨン 最大径6.4㎝ ローマ時代のカタコンベ出土(推定) 4世紀 大英博蔵
同展図録は、このメダイヨンには、若い夫婦の半身像が描かれている。ふたりの間の上方にはそれぞれチュニカとパリウム(外衣)を着たあごひげのない男性の小さな姿があり、男女それぞれの頭に花冠を掲げている。4世紀の多数の図像からキリストであることが容易にわかる。
メダイヨンは結婚の記念や祝いのためのボウルや皿の底面にするために作られた。1枚のガラス板の上に金箔をつけ、これを切って模様をつけ、その上を容器の底で押さえて金箔を2枚のガラスで挟むようにした。この種のメダイヨンは、ローマのカタコンベ内で漆喰で固めた状態で多く発見されている。このことから、配偶者が死亡したときには、容器のうちメダイヨンだけ残し、埋葬場所の目印としたものと考えられるという。
同展で見た時には、金箔がよくゆがみもせずに2枚のガラスに挟まったものだと思った。接着剤でもつけなければ髪のこまかな線やカール、首飾りや衣装の模様などをつけるのは無理ではないかと素人の私は思う。それよりも文字を切り抜いて、弧を描いて貼り付ける方が難しいだろうか。
残念ながら、見学コースには見当たらなかった。しかし、もっとすごいものを見つけた。
あるコーナーには鉄格子がはめてあって、ガラス越しに人骨が見えたりしていた。その横にあったものは、大きめのXPのモノグラムだったが、それがなんと金箔ガラスのテッセラで作られていたのだった。10㎝四方ほどのものに思った。
サカタ・コスタンツァ廟(Mausoleo di Santa Costanza)のヴォールト天井よりも以前に金箔テッセラが使われていた、すごい証拠を発見した。
この金箔テッセラのモノグラムは、「”ちゃおちゃお”のローマ美術案内 ローマの休日」というサイトの、サンタニェーゼ・フォリ・レ・ムーラ教会2に載っています。

尚、金箔テッセラはこのようなものです。
モザイクのテッセラ 東地中海岸域 9-12世紀頃? 1辺0.9㎝厚さ0.6㎝ 薄緑色の透明ガラス、金 岡山市立オリエント美術館蔵
『ガラス工芸-歴史から未来へ展図録』は、ビザンティン時代に壁画や天井の装飾に用いられた金地モザイクのテッセラ(モザイクの素材の石片やガラス片)のひとつ。これを作るには、吹きガラスで膨らんだガラスを割いて開くと板ガラスができるが、これへ薄くのばした金とガラス膜を熔着させて、冷却後にガラス切りで1㎝角ほどの大きさに切断する。裏面に壁面へ取り付けたモルタルが付着しているという。

進んでいくと、サンタニェーゼの棺の置かれた場所に来た。ガイドがここは写真に撮っても良いと言ってくれたのだが、あまりにも棺にピントを合わせることに集中して、この区画全体の写真がなかった。
横の壁には三カ国語で聖アグネスへの賛美の言葉が書かれていた。
写真を写している間にも見学は進んでいたが、金箔テッセラを見つけたことで満足していたので、当時のローマ人はこんなに小さかったのかと思うような安置の棚の穴を両側に見ながら、足早に追いかけていった。
ところが、『光は東方より』の「キリスト教美術の誕生-3~4世紀のカタコンベ壁画」を見ていると、4世紀中頃でもカタコンベは墓地として機能していたことがわかった。金箔テッセラの使用はコスタンツァ廟の壁面モザイクよりもカタコンベの方が先であると言えなくなってしまったのだ。

※参考サイト
”ちゃおちゃお”のローマ美術案内 ローマの休日はこちら


※参考文献
「建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂」(香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社)
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」(1997年 小学館)
「キリスト教の誕生」(知の発見双書70 ピエール=マリー・ボード 1997年 創元社)

「大英博物館の至宝展図録」(2003年 朝日新聞社)
「NHK名画の旅2 光は東方より」(1994年 講談社)
「ガラス工芸-歴史から未来へ-展図録」(2001年 岡山市立オリエント美術館)