2011年5月24日火曜日

14 庭園画は第3、第4様式

古代ローマでは、壁面装飾として第2様式以降は建物を描いくことが多いが、中には美しい庭園を描いたものもある。
それを実際に見たのはMIHO MUSEUMのギリシア・ローマ美術の展示室だったが、ポンペイの出土品だと思い込んでいた。
同館図録は、ローマ共和制期後半からローマ帝政期前半の壁画のなかで、われわれの目を楽しませてくれる最高のものは、いわゆる庭園画である。これはいわゆる第3、第4様式の壁画で前1世紀末から後1世紀末にかけて最盛期を迎えたという。

庭園図(フレスコ) ローマ 1世紀 縦162.9㎝横114.9㎝(の部分) MIHO MUSEUM蔵
この壁画はヴェスヴィオ山の周辺のカンパニア地方の代表的な工房で制作されたと思われる。赤褐色、白色、黄金色の装飾帯で縁どりされ、風景は遠近法を用いて描かれているので、これらは「窓から見た花が咲き乱れる庭」を表しているといえよう。この種の壁画は、野外庭園の列柱式建物の背面の壁に描かれることが多かったが、本物そっくりに描かれているので、その田園風景が家の向こうにまで延々と続いているような錯覚を与えるのである。
壁画の図像や装飾細部をみると、ポンペイの壁画と共通点が多いことがわかるという。
上の窓枠は中央から両方向へやや下がり気味で、中央から紐で小さな額縁のようなものを提げ、その両端からリボンで結ばれた葉綱が出ている。その紐と水盤の脚を中心線として、一見左右対称風に描かれている。
しかし、左右の3対の小鳥はどれも異なった姿勢をとり、水盤の上には右側に1羽だけ留まっているし、水盤を支える有翼の動物も正面を向いていないなど、左右対称に見せてはいるが、それを少しずつ破っている。
狭い庭を広くみせるために、背面の壁に庭園画を描かれたというが、最初の庭園画は地下室に描かれた。

リウィアの別荘の庭園画南壁 ローマ、プリマ・ポルタ出土 前1世紀末頃-1世紀前半 全体358X590㎝(の部分)
『光は東方より』は、大理石製柵の中央の四角い窪みの遠近法的表現や、林苑の彼方の青空と溶けこむあたりの彩色による空気遠近法など、イリュージョニスティックな空間表現が見られるのに、全体の印象は奇妙にも遠近感を欠いていて二次元的である。写実的でいて何かしら非現実的な不思議な庭園。アウグストゥス時代の「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を象徴するような常春の楽園の雰囲気が溢れている。
庭園画がローマ壁画において一つの独立したジャンルを確立するのは紀元前1世紀末頃、時あたかもリウィアの夫オクタウィアヌスが共和政末期の内乱を平定し、アウグストゥスと改名して帝政を布こうという時期に当たっている。このリウィアの別荘の壁画はこの時期に制作されたと推定されており、庭園画はその後ポンペイ第4様式の終わりまで流行するという。
庭園画はリウィアの別荘から始まったのか。
趣向を凝らした建物のイリュージョンよりも、自然の風景の方が気分が落ち着いたのではないだろうか。
同北壁 全体358X590㎝(の部分)
同書は、よく眼を凝らすと壁面上方に蔓とも岩屋根の稜線ともとれる不規則な縁取りが青空を限っているのに気づくから、室内は洞窟(グロッタ)もしくは草葺き屋根の四阿として想定されているらしい。ここは冷んやりとした洞窟の中で、そこから見とおした庭園風景が広がっているという設定らしい。
共和政末期から帝政初期にかけてローマには真の私的庭園文化が築かれていたといえる。つまるところ、平和と富を得た人々が「閑暇(オティウム)」を娯しむ習慣を持ち始めたのである。庭園画とはそうした庭園の代わり、もしくは補足、室内の閉ざされた空間に現出された虚構の自然であるという。
上端のギザギザした部分は、壁画が剥落しているのかと思って気にも留めなかったが、洞窟の上部が描かれていたとは。
別荘の西側部分に位置する地下の矩形の部屋(11.7X5.9m)に、精妙な変奏曲を奏でながらほぼ同一の主題が四周の壁をぐるりと取り囲むように描かれているという。
当時地下室というものがあったのだろうか。少なくともポンペイの邸宅にはなかったように思う。また、パラティーノの丘のリウィアの家にもなさそうだ。リウィアの別荘には地下室が洞窟内部という設定で造られたわけで、趣向を凝らしたものだったにしても、やや不気味だ。
最初期の庭園画が描かれたのが地下室だったとは。
庭園画は寝室にも描かれた。

エジプト趣味の庭園 ポンペイ、果樹園の家 クビクルム(寝室)8 東壁の壁画 40-50年頃 幅225㎝高さ342㎝(コーニスまで) 第3様式
同書は、壁面を白のパゴラ(蔓棚)によって3分割し、腰羽目の上に葦で編んだ垣を表している。リウィアの別荘の庭園画に比べると第3様式の装飾法(壁面三分割法)にいっそう忠実であり、図式化が進み、現実からの乖離が顕著である。灌木の間に見えるファラオの彫像や壁面上部に配されたエジプト主題の額画など、エジプト趣味が目立っている。アクティウムの開戦(前31年)でアウグストゥスがアントニウス、クレオパトラ連合軍を破って以来エジプトの文物がローマに流入してエジプト趣味が流行したその反映であるという。
ファラオの彫像は、台座の上に左足を出した状態で、左壁面の樹木の幹あたりの位置に白っぽく描かれている。そして、右の白い柱の後方と、右壁面の赤い実のなる樹木の幹の前にもエジプトの神々の彫像が置かれている。
また、棚の上の2つの壁画には、ファラオが神に供物を捧げる場面が表されていて、古代エジプトの壁画や浮彫を額に入れて庭に飾っているようだ。エジプト趣味とはそういうものだったのか。
クビクルム12 果樹園の家
この邸宅には数多くの寝室があったらしく、12番目の寝室には今では黒い背景に樹木が描かれている。

蛇のからまる無花果の木の下には、上部とは無関係の編み垣(葦)で囲まれた庭園が広がり、非現実的効果を高めているという。
クビクルム8の垣は下部全面に平面的に描かれているが、12の方にはその上に水盤が置かれたり、垣より高い樹木が見えたりしている。
意外に庭の壁面の庭園画の例がない。悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)のペリスティリウム奥に小さな庭があってその背後の壁に庭園画が描かれていりる。赤い柱が何本かわかる程度だが、そこに庭園画が描かれていたのかも。

泉水のある庭園 オプロンティス、ポッパエア荘 内庭87 東壁と北壁の壁画 1世紀後半 第4様式
第4様式になると、モティーフが増し、いっそう複雑で凝った設定のものになっていく。実際の庭園の中に一連の部屋が設けられ、これらの部屋の間にさらに一連の露天の小さな庭園が挿入されているのだが、これらの小庭園を取り巻く壁に庭園画が描かれていた。窓から見とおした庭園風景という設定だが、現実にもこれらの部屋には広い窓が開けられ、現実の庭園はいうまでもなく、描かれた庭園がどこからでも眺められるように周到に設計されていた。現実と虚構との間の妙なる交感、あるいは巧妙な目騙し(トロンプ・ルイユ)という。
ここまで来ると、小さな庭を大きく見せるなどというものではなくなっている。よほど広い庭園がだったのだろう。
樹木が上下に描かれているのは、黄色い地面に間隔をあけて木が植えられて、その前には必ず水盤が配置されている。実際の庭園もこのようになっていたのだろう。果樹園の家のクビクルム12の庭園画のように、第3様式の垣の部分が発展したような印象を受ける。
地下室を洞窟に見立て、洞窟から眺めた景色を表すことで始まった庭園画は、庭園の中にこのような庭園が描かれた部屋があり、その中も庭園になっているという、凝りに凝ったものも現れた。
しかしながら、樹木と水盤というまとまりがもっと小さくなって今の時代の壁面装飾にされたなら、「壁紙」の一種になるのでは。

※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)

「NHK名画への旅2 光は東方より 古代Ⅱ・中世Ⅰ」(監修木村重信他 1994年 講談社)
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)