2011年8月20日土曜日

1-21 アヤソフィア7 北階上廊へ

聖母子像をもっと近くで見るには階上廊へ行かなければ。
階上廊へは左側廊から内ナルテックスへ出て北の端に傾斜路があるという。薄暗い空間に入り込むと結構広いが階段を上がったところに扉がある。
平面図では詳しくわからないが、人の立っている右手に小さな開口部とその下に2段の石段があった。きっとあれが傾斜路への入口だろう。
中は暗く、床の石が1500年という長い間人に踏まれ続けて摩耗してつるつる滑る。下りが怖いなあ。
アギア・ソフィア大聖堂が537年に完成した後にドームが崩壊し、ユスティニアヌス帝の時代にもう一度ドームを造り直している。
『建築巡礼17イスタンブール』は、現在のドームは、562年竣工の形態をほぼ正確に残している。
第2のドームが竣工した翌年563年には、イシドロス(創建時のイシドロスの甥)によって、4基のバットレスが建設された。これらのバットレスは、側壁の外側で会堂の主構造に接するように地上からドーム基部までたちあがり、その位置が堂内の4本のピアに対応していることから、明らかに中央の大ドームの推力を支持する補強構造として建設されたと考えられる。現在4基のうち3基が現存するが、その内部にはいずれも折れ曲り階段による通路が設けられているという。 
我々はバットレスの一つの中を登っていたのだった。
聖堂側の通路には窓がなく暗いが、外側には2つずつ小窓がある。
そんな通路を反時計回りに何度か曲がって上っていく。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、狭いスロープを折り返して登る階上廊(ギャラリー)は、かつて女性が典礼に参加する場であったという。
スルタンアフメット・ジャーミイ(ブルーモスク)も女性用の礼拝する場が2階にあったのは、アヤソフィアを手本にしたため?
この窓もロンデルではなかった。枠は木ではない、石を刳り抜いたのか、それとも1つ1つの窓ガラスを固定するために漆喰で固めたのか。
プランの傾斜路は方向が逆ではないのかな。
傾斜路から北階上廊に出た。地上階の天井よりも階上廊の方が傷みが激しかったのか、モザイクではなく、フレスコ画で修復してあった。
①北西のエクセドラには唐草文様の金地モザイクがあるが、それぞれ少しずつ異なっていた。
②2階のピアは下部が2つに分かれていて、その間の天井部にも当初は金地モザイクがあったようだ。ただし、これは、それを再現したフレスコ。
③大ドーム・半ドーム・小半ドームの組み合わせの大胆さに比べ、どうも納得のいかない小さな空間がここ。
④南北は、大ドームを受けるアーチの下側を半ドーム上にせずに、大タンパンを置いている。大タンパンは階上廊の2本のピアと4本の列柱とで支えている。やはりピアから出たアーチを受ける円柱が2本、列柱廊の内側にあって、その間にアーチ状の狭いヴォールト天井が設けられている。
しかも装置だけでなく、モザイクが失われた箇所、補修された箇所、壁面の妙な出っ張りなど、美しさを損なうようなものがあふれている。
この狭いヴォールト天井の間に一人の皇帝の肖像があった。わざわざこんな人目につかない場所を選んで造るとは。これはアレクサンドロス帝(912-913年頃)のモザイクらしい。
『天使が描いた』は、皇帝アレクサンドロス(886年より兄のレオン六世の共同統治皇帝、単独統治者としてはレオンの死後912年より913年まで在位)の肖像画モザイク、これは42歳もしくは43歳で亡くなった皇帝のおそらく晩年の肖像画で、在位中に制作されたものと考えられる。これを見ると人物表現は技法上安定し、モザイク細工も整い、洗練されているという。
マケドニア朝ルネサンスと呼ばれる時代のモザイク画なのに、暗くてよく写せなかったのが残念。
⑤内側の2本の円柱の間のアーチには、こんなモザイクがあった。両側から出たアスパラガスに、葉綱のような翼が1対ずつ出て、双方の3つ目の翼が共有のものとして画かれている。
⑥反対側には肖像はない。6本の柱の間のアーチには蔓草文様の金地モザイクが、少しずつ図柄は異なるものの、オリジナルが残っているのかと思うような筆致だが、内側のアーチ下のモザイクは、オリジナルにしては文様が稚拙ではないだろうか。
※参考文献
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」(1993年 講談社)
「ビザンティン美術への旅」(赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社)