E神殿の東には広大な中央アゴラがある。
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そこに行き着くまでに、古代の石材がゴロゴロと転がっていたり、ある程度まとめて置いてあったりした。
そして右の方は「西の店舗群」と書かれたプレートが嵌め込まれていたが、説明板やガイドブックの地図で見る限りは、E神殿東柱廊の店舗群に相当するようだ。
説明板の図では列柱廊に囲まれた広場には、一列に建物群が並んでいる。
西の店舗群と中央アゴラとの間にも様々な建物があったようで(説明板図の⑥⑦⑩⑪⑫㊳)、そのどれかの基壇に部材が幾つか置かれていた。
これが中央アゴラ西端の想像復元図。規模の小さな神殿が多い。
1:F神殿(ティケ女神) 2:G神殿(アポロ・クラリウスまたはパルテノン) 3:H神殿(コモンドゥス帝) 4:J神殿(ポセイドンまたはヘラクレス) 5:バビウスのモニュメント 6:D神殿(ヘルメスまたはティケ) 7:K神殿(神名不明) 8:ポセイドンの泉
中央アゴラの南西隅からの眺め。
左端に上記の神殿群が並んでいて、目の前に修復作業中の人が一人。
ずっと向こうの高台にはアポロン神殿、その手前には中央アゴラの北西店舗群がある。
別の角度から見た北西店舗群。
しかし、何と言っても北西店舗群で一番目立つのはこのアーチ。
説明板の復元想像図では、中央に一段高くなった屋根がある。おそらくこのアーチに相当するのだろう。
さて、中央アゴラの南側を見ていくと、このような列柱らしきものがある。図に描かれているよう、南のストアに繋がる柱廊だろうか。
そして、手前には下水道または、泉の水を引いたような設備があった。
南のストアは石壁と店の出入口が交互に並んでいる。
歩いているうちに、奥が半円形になっている広い空間があった。
しかし、南面の最大の見ものは、ギリシア世界最大の世俗建築である柱廊である。それは、二重の柱列より構成され、前面には71本のドーリス式柱、そして背後に34本のイオニア式柱が立ち並ぶ壮大な柱廊であった。ギリシア時代にあった、その背後の33の店舗は、ひとつを除いて12mの深さの井戸を持ち、「ペイレネの泉水場」から水を地下から引いていたようである。それゆえに、これらの店舗は、数多くのコップとともに発見されたところから、いずれも飲料水を提供するための店あるいは冷凍庫であったかもしれない。しかし、カエサルの時代には店舗の半分は改修され、監督官庁に衣替えした。監督官庁のなかには「総督室」「クリア(都市参事会)」、そして「南バシリカ(裁判所)」がある。特に、「総督室」にはトラヤヌス帝の総督の名を刻んだ彫刻の台座もあるという。
先ほどの地下設備は、やはり泉の水を引いた上水道だった。
上の写真は5:プーレウテリオン(評議会場)。プランは半円よりも円に近い。
他には、1:agonotheteion(不明)、2:南バシリカの入口、3:泉の家、4:ケンクライへの道、6:後のローマ時代の浴場、7:公衆トイレ、8:南バシリカなどの遺構がわかっている。
背後を振り返ると、白い柱だったような残骸が2、3本立っている。行ってみたいがロープが邪魔している。
北側から見るとこのようになっている。一番上の図では④ベーマ(演壇)だった。
『ギリシア都市の歩き方』は、そこはローマの総督をはじめとするお歴々が、市民の前に登場する場所であった。キリスト教国教化以後、そこに聖堂が建てられたが、それは恐らく総督ガリオがユダヤ人の訴えを拒絶し聖パウロを守った事実にちなみ、ガリオが登壇していたベーマが聖視されていたことを示しているという。
演壇というよりは、教会堂の遺構かも知れない。
現状の立面図と平面図
やはりここからも中には入れなかったが、地面になにやらありそうだ。
それはペブル(丸石)でもなく、切石(テッセラ)でもない、不揃いな色石のモザイクだった。単純な幾何学文様だから、この程度でよかったのだろう。
その北東側に奇妙な遺構が発掘されていた。
説明板には、交差点にあるヘローン(英雄廟)、古代コリントスの初期の聖域、2012-2013年に修復されたとある。
複数の墓坑があり、人物が埋葬されていたらしい。
さて、南のストアは東へと続いている。
前4世紀の南のストアの東端の想像復元図。
その東端にはイオニア式の大理石柱による柱廊が置かれ、文書館であったかもしれないという。
現在はこんな風。イオニア式柱頭は見当たらない。
その北側にはユリアのバシリカがあった。
ユリアのバシリカあたりから、アゴラを振り返る。といっても、アゴラの北側だけでこれだけの広さ。④ベーマと㊵その列柱廊らしきものがアゴラを横断しているので、全体を見渡すことはできない。
『ギリシア都市の歩き方』はフォールムについて、その全体を見渡すと、「南柱廊(ストア)」によって遮られるまでのその広大な規模(255mX127m)には驚かされる。ギリシア時代には、この場所は、戦車競技場と徒歩競技場であったが、ローマ人は、そこを現在のフォールムとし、それよりも13フィート高いテラス部分を南柱廊とした。そして、その境界には店舗を配したという。
アゴラはギリシア語なので、ローマ時代の遺跡ではフォールムと呼ぶ方が正しいのだろうが、遺跡の説明板にもアゴラと載っている。
ギリシア時代のコリントスの町について同書は、前146年のローマ軍による破壊ほど徹底したものは、空前絶後のものであった。これによって、古代ギリシア都市であるコリントスは、完全に歴史から姿を消した。ローマの元老院は、これに応えて、コリントスを100年の間廃墟に留め置くことを宣言するという。
アポロン神殿はよく残ったものだ。
それからほぼ1世紀を経た前44年に、カエサルは、コリントスの地をローマ軍の年老いた兵を収容する廃兵都市として再生させることを決する。
地中海世界がひとつの海となったローマ時代には、首都ローマと東地中海地を容易に結ぶコリントス経由航路は、はるかに重要な意味を担うようになり、エフェソス等属州アジアの拠点都市とローマを結ぶ大動脈路のひとつとなった。
すでにアウグストゥスの時代には、ローマの廃兵ばかりではなく、ギリシア人や外国人が住み着き、再度商業都市としての繁栄を取り戻しつつあり、属州アカイアの首都が置かれるようになった。
このような経済的な繁栄は、ギリシア時代と同じように、コリントスの市民に特異な性格を形成させた。それは、贅沢、奢侈そして放蕩である。それを象徴するかのようにコリントスでは、アフロディテ女神が崇拝されてきた。
古代異教世界の悪習の権化のようなコリントスに、聖パウロが後51年から後52年の18ヶ月間逗留し、イタリアのアクイッラやプリシッラの商人とともに天幕の販売に励みながらキリスト教を広め、キリスト教者の一群を形成することに成功する。地元のユダヤ人は聖パウロに対する不満を訴えたが、時の総督ガーリオは、その審理を拒否する寛大さを示した。その後、彼らのために聖パウロは、「コリントス人への手紙」を2通書き送っている。これによって、コリントスは、来たるべきキリスト教世界にもその名を記すことになったという。
やっと分かった、コリントスはあのコリントの街だったことが。カトリック系の学校に通っていた頃、宗教の授業で「コリント人への手紙」というのを習った。その修道会が特別なのかよくわからないが、コリントスではなく、コリントだった。2通の内、コリント前書の方が馴染みがあった。そのせいか、コリントスではなく、コリントとついつい口に出てしまうのだった。
しかし、パウロが手紙を書いたコリント人が、このコリントスの街の人々だったとは、この本に出会うまでは知らなかった。
パウロが天幕を売っていた店は、どのあたりにあったのだろう。
2世紀にはハドリアヌス帝とアテネの富豪ヘロデス・アッティコスが建物を建てたおかげで、コリントスはますます潤沢な社会資本に恵まれた都市として名高くなった。
従って前44年以降に建設されたコリントスは、ギリシアにおける単なるローマ人の都市であるといえるという。
コリントス遺跡5 E神殿(オクタビアヌスの神殿)← →コリントス遺跡7 レカイオン界隈
関連項目
コリントス遺跡8 アポロン神殿
コリントス遺跡4 博物館3
コリントス遺跡3 博物館2
コリントス遺跡2 博物館1
コリントス遺跡1 グラウケの泉と神殿址
ペロポネソス半島1 コリントス運河
「ギリシア都市の歩き方」 勝又俊雄 2000年 角川書店