2013年12月19日木曜日
メテオラ6 カランバカの聖母の眠り聖堂
ルサヌウ修道院からカストラキの村を通ってカランバカへ。
小さなカルフールで水などを調達。カルフールはどこの国でも水が安い。
⑥アギオス・ステファノス修道院が見えた。
通りに人気はない。デルフィでもそうだったが、夕方まで閉まっている店舗も多い。
午後3時半で緑十字の気温が37℃。もっと暑かった様に記憶しているが。湿度はなくジリジリ照りつける暑さに、日陰を選んで重い水を提げて歩き続ける。
冷たいものを売っている。誘惑に負けて道路を横断して日向へ。
アイスクリームのバーが2€!ギリシアはどこでもアイスクリームが高かった。大きくて濃厚だったけれど。
先の公園の木陰でアイスを食べよう。でも、それまでに溶けてしまうかも、そんな心配をするほど暑かった。
公園の一角にこんな滝が。妙な色がメテオラの岩山に合わない。
空いているベンチを探して腰掛け、アイスを頬張る。見回すと、それぞれの木陰には人がいて、やっぱりアイスを食べていた。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、カランバカには中期ビザンティンのキミシス(聖母の眠り)聖堂もある。これは初期キリスト教のバシリカの上に、それを再現する形で造られた建築で、説教壇や内陣障柵(テンプロン)など、初期聖堂の雰囲気を濃厚に漂わせているという。
せっかくなので見学したい。現地ガイドのフェリーツィアさんに尋ねると、午後5時に開くという。
聖母の眠り教会は岩山から崩れた土砂の堆積した斜面で、街はずれの家並みの最も高い位置にある(黒矢印)。
この公園から直接行くと時間が早すぎるので、カストラキのホテルまで戻り、タクシーで往復(17€)することにした。
近くで見ると岩山にはりついているみたい。
聖母の眠り教会 11世紀
『The Church of Dormition in Kalabaka』は、鐘楼は1887年3月29日に建立されたという銘があるという。
メテオラの修道院に鐘楼はなく、木の板があった。
鐘楼横の小さな門から入る。
鐘楼の影が教会にまで届いている。思ったよりも大きな建物だった。
同書は、カランバカはビザンティン時代スタゴイと呼ばれていた。聖母の眠り教会は街の北東部に位置している。9世紀以来スタゴイの司教座付聖堂だった。
聖堂の建立年については諸説あるが、ソティリオウ教授によると、類似する教会建築様式や、セレスバシリカとカストリアの小さなバシリカ式教会から、11世紀に建てられたことが判明した。
古い教会の舗床モザイクが、現在の床下25㎝から発見されたという。
同書は、 アーチの上の外部ナルテクスの入口に、神の母のフレスコ画がある。1782年1月25日にディミトリオス・カロニトスによって描かれたという銘があるという。
うっすらと玉座の聖母子像の痕跡がある。これも聖堂の建立年代からすると、ずっと後のものだ。
両側の扉に「撮影禁止」という張り紙がべたべたと貼られている。中に入ると近所のおばちゃんたちがおしゃべりをしていた。入場料は1人2€。
同書は、教会はバシリカ式(30X13m)で、壁と円柱で3つに分けられている。ナルテクス(拝廊)が外側と内側に2つある。南身廊には開放列柱廊がある。外部ナルテクスは後世の増築であるという。
その外部拝廊を左に進むと、身廊が見えてきたが、中央に巨大な説教壇が置かれていて驚いた。
天井は木の梁を渡した平たいものなので、身廊の幅には制限がある。それでも、メテオラの修道院内という限られた空間に造られた小さな小さな教会の内部を見慣れたせいか、広大に見えた。
また、バシリカ式聖堂は一般に身廊と側廊を隔てるのは列柱だが、ここでは柱と壁面が交互に配置されているのでアーチの数はその分少ない。その壁面には床から天井まで、びっしりとフレスコ画で埋め尽くされている。アーチから垣間見える側廊の壁もフレスコで荘厳されている。
それにしても立派な説教壇。
同書は、形は初期キリスト教時代のものに似ている。円形または六角形の中央部は支柱に支えられ東と西両側に階段がある。作られたのは古い時期ではないが、古材を用いて作り直された。故に柱には丸い柱頭があり、桃色大理石、古い説教壇の部材の上部の円盤に十字がある。茶色の部材は後世のもの。組紐装飾のある3つの小さな凹所があり、その真ん中のものには十字がある。
その上にキリストの復活のフレスコがあるが、時代の下がる18世紀。
絵のある天蓋の西側には後世の銘文があり、説教壇の最後の修復について記されてる。それによれば1669年、ヨアンニシオスと息子のニコラスが描いたという。
イコノスタシス障壁 16世紀 説教壇を通り過ぎるとイコノスタシス(テンプロンかと思ったが、下図絵葉書の裏にはイコノスタシスとなっている)が後陣の眺めを妨げている。ここからは立入禁止。
聖卓 後陣内 6-9世紀(絵葉書より)
同書は、聖域内の聖卓は支柱に支えられた大きな石板でできている。11世紀以前とされ、キボリオンと呼ばれる初期キリスト教会の大理石製天蓋がある。三方のアーチは3つの十字が配された円盤に荘厳されている。キボリオンの柱頭の各面には4枚の葡萄の葉が描かれ、各角には角形の葡萄の実が配されていて、そのモティーフは7世紀以来、柱頭に表された多種多様なモティーフの一つであるという。
卓上には足の長いのと短いワイングラス、装飾、蝋燭が取り混ぜておかれている。
後陣の最奥部、半円形に外に出っ張った箇所には階段状の席がある。ギリシアで古代遺跡を見てきた者にとっては、劇場のミニチュア版みたいなものだが、これはシントロノンと呼ばれる、聖職者の席だ。
シントロノン 7世紀(絵葉書より)
同書は、聖職者席の中央には司教の坐る玉座つまり司教座がある。初期キリスト教会の集会の形態をここに見ることができる。
シントロノンの下には、多くの教会に備えられた大きく深いクリプトがあり、異邦人の襲撃の間、キリスト教徒が隠れ棲んだという。
クリプトは、修道士や信者が的から身を守る場所だった。
上の画像で、シントロノン南側の上部に少し見えている彩色のあるものはフレスコ画で、同様に北側にも壁画があったようだ。
3人の聖人像 後陣 12世紀(絵葉書より)
同書は、(後陣の聖卓の右の)デアコンの北壁にある貴重なフレスコは、教会の建立年代を特定する手がかりとなる。その様式は11世紀末または12世紀初のものであることは明らかだ。2人の聖人の半身像、その一方は聖グレゴリウス。メダイヨンの人物像はビザンティン装飾、写本、モザイク、フレスコによく用いられた胸像で11-14世紀のもの。
下方には聖人の列があるが、聖ブラシオス、スミルナのポリカルポス、フォーカスの3名しか残っていない。3人とも同じような服装で、長く襞の多い僧衣と首掛けそして聖書をそれぞれ異なったポーズで持っているという。
僧衣の襞の描き方は、様式化されたものだが、照り隈(ハイライト)など、丁寧に描かれている。
ブラシオスかフォカス
ラテン式に右手を挙げて、左手に聖書を持っている。
スミルナのポリカルポス
白い髭の下の青いものはギリシア式の首掛け小聖像という。この像のみ両手先まで長い僧衣を垂らし、衣文もほぼ左右対称に描かれている。聖書は両手で抱えている。
ブラシオスかフォカス
一番派手な僧衣を着け、右手は棒を持ち、左手に聖書を抱えている。
以上までが古いもので、それ以外のフレスコ画は16世紀に新たに描かれたことが壁画の銘文に記されているという。
玉座の聖母子 後陣上部 15-16世紀
以上までが後陣にあるため、目にすることはできない。
キリスト磔刑及び冥府下り 16世紀
登場人物の多い磔刑図で、キリストの十字架の下に頭蓋骨が地中に描かれているのが冥府下りを表しているらしい。
同じような図はメテオラのメガロ・メテオロン修道院主聖堂フレスコ壁画(16世紀)や、オシオス・ルカス修道院主聖堂モザイク壁画(11世紀)にもあったが、冥府下りをあわしたものとは思わなかった。
聖母の眠り(キミシス)16世紀
メテオラのルサヌウ修道院主聖堂の聖母の眠りと被昇天の異時同図の後者が玉座に座る聖母の足までで上方が切れているような絵だ。
教会の外に出てカランバカの街の北はずれを見渡す。
ホテルに戻って部屋からメテオラの奇岩群を見ていると、岩山にはまだこのようにアトス山から逃れてきた修道士たちが穿って住居や信仰の場としたところが残っていた。
聖母の眠り教会は、それ以前に建てられた教会、いや司教座付聖堂という立派なものだが、今見学できるものはメテオラの修道院聖堂のフレスコ画と同じような時期のものだった。
メテオラ5 ルサヌウ修道院← →テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟
関連項目
キミシスはギリシア正教とアルメニア教会では左右逆
メテオラ4 見下ろす景観
メテオラ3 メガロ・メテオロン2 主聖堂(カトリコン)の壁画
メテオラ2 メガロ・メテオロン修道院1
メテオラ1 奇岩を縫う道から修道院を眺める
※参考文献
「The Church of Dormition in Kalabaka」 Ioannis S.Pispas Priest 2012 ΓΡΑΦΙΚΕΣ ΤΕΧΝΕΣ ΜΕΛΙΣΣΑ
「METEORA Itinerary」 D.Z.SOFIANOS 1991年 Holy Monastery of Transfiguration
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社