2015年9月7日月曜日
シャフリサブス1 アク・サライ宮殿の門へ
タシケント、サマルカンドとソグド人の町を経てシャフリサブスへやって来た。
シャフリサブスは当時はキシュと呼ばれ、それぞれ昭武姓が石、康そして史だった。
『文明の道③海と陸のシルクロード』は、玄奘はスイアブから鉄門までを窣利(ソグド)だと呼んでいる。ザラフシャン川に沿って、中流のサマルカンドや下流のブハラ(ともに現在のウズベキスタン)など、小さな都市国家が点在し、その一つひとつが、ソグド人の独立した国だった。
「オアシス都市国家では人びとがひしめき合って暮らしていた。そのための知恵が、都市や建造物の構造から読み取れます。そして、この小さな世界から外に目を向けることで、ソグド人たちはユーラシアの全域を視野に入れた交易の民となっていったのです。
ソグドの人びとは、強い国家というものを持ちませんでした。だから、交易の民として広い世界を目指して出て行き、中央アジアから、中国にまで到達していたのです」(エルミタージュ美術館のボリス・マルシャーク博士)。
「商業を目的に中国にやってきた多くのソグド人たちが、交易に便利な場所を選んで集落を築き、定住していたことが明らかになってきたのです」(北京大学歴史系教授の栄新江教授)。
中国に暮らしたソグド人は、出身地別に、昭武姓と呼ばれる固有の姓を名乗る習慣があったという。
安史の乱の史思明もまたこの町の出身で中国に移り住んだ人の子孫だった。
シャフリサブスに到着。
ティムール朝期の城壁に沿って、バスは進んだ。日乾煉瓦で造られた城壁は、草の生えた土の丘になっていた。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、シャフリサブス、文字通り「緑があふれているまち」はおよそ2700年の歴史を持ち、中央アジアの古代都市の一つであるという。
角を曲がる。
同書は、中世時代には「ケシュという名で知られ、7-8世紀にソグド国の重要な町の一つであったという。
同書は、8世紀に起こったアンチラブの「ムカンナ蜂起」が弾圧された時に、ケシュは非常な損害を受けたという。
同書は、11-12世紀、カラハン族の支配時代に、ケシュはイスラム文化の大都市として修復された。モンゴル支配の時代にシャフリサブスオアシスはバルラス民の国土になったという。
ここからは復元された城壁になった。奥の2の突起は、ティムールが建立したアク・サライ宮殿の門。
同書は、アミール・チムール王朝の出自がバルラス民なので、シャフリサブス市はアミール・チムール帝国の二番目の首都になり、巨大な建造物のある都市になったという。
同書は、しかし、16世紀、アブドッラ・ハン2世の時代にその建造物がひどく破壊された。18-19世紀、シャフリサブスはブハラハン国との絶え間ない戦争で自国の独立を守り抜く国の中心になっていたという。
新しい城壁はここで切れていた。
どのように復元されているのだろう。
この城壁の切れ目からかつてのアク・サライ宮殿へ。
観光用に道路を整備中なので土埃がひどい。
右奥にコク・グンバズ・モスクの青いドーム。
そして、これがティムールが建てたアク・サライ(白い城)宮殿の門。
門て城壁と同じレベルにあるものでは?
サマルカンドからシャフリサブスへ←
→シャフリサブス2 アク・サライ宮殿
関連項目
シャフリサブス4 ジャハンギール廟
シャフリサブス3 ハズレディ・イマーム・モスク
参考文献
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 アレクセイ・アラポフ 2010年
「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送協会