2024年11月8日金曜日

ブルサ Bursa オスマンとオルハンの墓廟 Orhangazi türbe


今回の旅はオスマン帝国の都巡り。
最初の都がマルマラ海南東のブル(プルサ)、西進してチャナッカレ(ダーダネルス)海峡を渡り、北進して二番目の都エディルネ(アドリアノープル)、そして東進して最後の都イスタンブール(コンスタンティノープル)と、オスマン帝国の都の順番に旅してきた。
 Google Earth より


最近の直行便は時間がかかる。

まだ明るいうちにイスタンブール空港に到着したものの、

第3ボスボラス大橋を渡る頃にはすっかり夜の帳がおりていた。その上
GPSを起動していたのに記録されておらず、どの道を通ったか分からなくで残念。

翌朝目いっぱい食べてブルサ Bursa の観光開始。


その前に街の歴史を少し。
『望遠郷』は、ブルサは前183年にビティニア王プルシアス一世によって開かれた。古代ローマ時代のブルサの歩みはイズニックのそれに似ている。古代ローマの政治学者プリニウスが記しているように、プルサは豊かな町で壮麗な建築物が並んでいた。町を見下ろす丘に城壁が建ち、その遺跡は今も残っている。
1326年、オスマン帝国の第2代君主オルハンによって征服され、ブルサと改名された。1326年から62年までブルサはオスマン帝国の首都であった。やがて首都はエディルネに移ったが、その後もブルサは昔の首都として大切に扱われた。
トルコ人はこの町をイェシルブルサ(緑のブルサ)と呼んでいるという。
そう、トルコの人たちは地名に形容詞を付けて呼ぶ習わしがあったようで、2023年に地震があったガジアンテプはアンテプという街に、第一次大戦後にフランス軍に対して勇敢に戦ったことから「ガジ(またはガージ、戦士)」という形容詞が付けられたのだった。そのガジはオスマン帝国の建国者と次の皇帝にも付けられた。

『トルコ・イスラム建築紀行』は、ブルサはビザンツ時代から温泉地として有名で、ユスティニアヌス一世(在位527 -65)の皇后テオドラが保養にきたとの記録もある。オルハンが攻略したときのブルサは、ビザンツ帝国のテクフル(知事に当たる管理者)が拠る城塞があり、文化、商業、手工業の中心地として町の人口は2万人ほどだったという。現在のブルサは、商業の中心地であるだけでなく、北側の平野部に自動車工場群等があるなど、様々な産業の中心地になっている。都市部の人口が200万人を越え、トルコで第4位の大都市に発展している。
オスマン朝時代の街は、ウル・ダー(ウル山)の北側山麓の斜面に、ほぼ東西に広がっている。そこに、14世紀と15世紀に建てられた、初期オスマン建築の傑作が数多く現存するという。
現在では230万人くらいに増えているという。

地図 Google Earth より(見学した順)
①オルハンガジ廟 ②オスマンガジ廟 ③イェシルジャーミイ ④イェシル廟 ⑤ウルジャーミイ ⑥コザハン ⑦オルハンガジジャーミイ ⑧オスマンガジ像


まずはビザンティン帝国時代の城壁の残る丘トプハネ Tophane へ。地図は Google Earth より
①オルハンガジ廟  ②オスマンガジ廟  ③時計塔 Tophane Saat Kulesi 


旧市街に入ったかと思うと、小高い丘が迫ってきた。バスは大通りから外れてぐるりと回り込んで坂道を上っていった。この丘には今でも城壁が残っている。

修復を重ねたようだが、これがビザンティン帝国時代の城壁という。ビザンティン帝国期の城壁や建物の特徴となっているアルマシュク技法の赤いレンガの層はないけれど。


バスを降りると割合新しく整備された建物が並んでいた。
「ECZANE エズザーネ」は薬局で、イスタンブールでもあちこちにあった。その隣の「kestane şekeri ケスターネシェケリ」は、昔からの煎じ薬などを扱う薬局かと思いきや焼き栗のお店だった。


来し方には城壁が続いている。


右手の坂の上のトプハネ公園 Tophane Park  へ。


見学は①オルハン・ガジの墓廟(Orhangazi türbe)から。このガジはガジアンテブと同じく戦士という意味。
説明パネルは、オスマン帝国の創始者オスマン・ベイの息子オルハン・ベイ(在位1324-60)の墓は、聖エリヤ教会の跡地に建てられた。教会のモザイクの床の一部は、現在も残っている。正方形に設計された墓はドーム屋根で覆われている。
1855年の地震で完全に破壊された後、1863年に皇帝アブデュルアズィーズによって再建された。
墓の中央には、真鍮の棒で囲まれたオルハン・ガーズィの石棺のほか、妻のニルフェル・ハトゥン、息子のカスム、娘のファトマ、ジェム・スルタンの息子でバヤジト二世の息子のアブドゥッラー、コルクト王子、ユルドゥルム・バヤジトの息子ムサ・チェレビ、および名前のわからない14人の墓があるという。
19世紀後半に再建されたので、ドームはあっても西洋風な建物になってしまった。入口は南にある。

大理石で作った入口ってどこ風?

内部には4本の円柱で支えれた小さなドームが。

ドームを支える円柱は何様式とも言えないようなもの。

ドーム下にはオルハンの棺が、

真鍮の棒の柵に囲まれている。ターバンがのっているのは男性。

たくさんの棺の並んだ外側をまわっていく。床は地震のせいで傷んでいる。

オルハンガジの石棺の反対側。大きな棺から小さなものまでぎっしりと並んでいる。

床は瓦礫から大理石の欠片を集めたようなところもある。

サイコロが並んだような列、元はガラスのテッセラだっただろう。


おかげで、コスマーティ様式の補床モザイクはビザンティンの聖堂にも用いられていたことが分かった。
柵の内側の補床モザイク。両側を白い大理石で囲まれたガラスのテッセラの帯は伸びて次ぎの円で交差しているが、ここではその帯で三角形ができている。

その外側

円の手前にもゴールドサンドイッチと色ガラス、或いは色石の補床モザイクの帯。

この柵の内外にはかなり残っていた。
ローマのサンクレメンテ聖堂の補床モザイク(12世紀)にも似ているなどと思って見ていておかしなことに今頃気が付いた。それについては後日、忘れへんうちににて。忘れていなければ😅 

大きなテッセラは石のよう。


まるで大きな龍の目



②オスマンガジの墓廟 Osmanlgazi türbe
説明パネルは、1326年にブルサを征服した後、オスマン帝国の創始者オスマンガージは、包囲中に遺言により聖エリアス修道院の礼拝堂に埋葬された。ガージは、この礼拝堂を「G クッベ (銀のドーム)」と名付けた。礼拝堂を改造したこの墓は、1855年の地震で完全に破壊された後、1863年に皇帝アブデュルアズィーズによって再建された。
墓廟は八角形で、霊廟の中央には、オスマンガージ(在位1299-1326)と17個の石棺があるという。
外観が八角形でも、ドームは円形ではなさそう。

入口は北側。

古い時代のターバンは小さい。

内部も八角形で、その角は柱のように描かれているだけ。とても元の墓廟を再現したものとは思えない。

コーランがずっと聞こえるのは録音かと思っていたら、この人が朗誦していた。オスマン・バロックの室内はいまいちだけれど、この声のおかげで心静かに見学できた。

オスマン帝国の建国者オスマンの棺
説明パネルは、真珠母貝の螺鈿が施された木製の柵が巡っているという。

真珠母貝の螺鈿細工は見事だが、廟が作られた時代のものが地震でも壊れなかったのだろうか。右上にこの飾りの背面が写っていた。木製の柵といってもごく薄い板。

背後より。親族あるいは子孫たちの棺がところ狭しと置かれている。

だいぶ傷んだ掛け布には銀糸の刺繍

廟内の床は大理石だが、オルハンガジ廟のようなコスマーティの補床モザイクはなかった。


その後③時計塔の傍まで行って、

街を見下ろしたが、この時計塔辺りからは比較的近くにあるウルジャーミイやコザハンなどは方角的に見えなかった。

ブルサの街の南方に横たわるウルダー(ウル山)


時計塔の西側にある建物はビザンティン帝国時代からあるアルマシュク技法だが、オスマン帝国に入ってから建てられたものという。

その後坂を下って城壁跡へ。

これは明らかに造り直した門。

こちらの方が何度も補修を重ねた歴史が感じられる。




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参考文献
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「望遠郷 旅する21世紀ブック2 イスタンブール・トルコ」 編集ガリマール社・同胞舎出版 1994年 同胞舎出版