2011年1月30日日曜日

7-11 フォロ・ロマーノ、マクセンティウスのバシリカ(Basilica di Massenzio)

マクセンティウスのバシリカは、フォリ・インペリアーリ通(Via Fori Imperiali)から外側が見えた。
また、パラティーノの丘からは全体が見えた。というよりも、マクセンティウスのバシリカの全体を眺めようと思ったら、パラティーノの丘からしかないのだ。
『ROMA』は、このバシリカはローマでも屈指の壮大な建物のひとつで、306年にマクセンティウス帝が建て始め、312年にコンスタンティヌス帝が完成したという。
マクセンティウスとコンスタンティヌスのバシリカとも呼ばれているが、長いのでマクセンティウスのバシリカとした。
中央のヴォールトだけ半ドームとつながり、両側のヴォールトは窓のある平壁があるだけだ。
もともとの入り口は東側にあって、その前にはナルテックス(拝廊)があった。入り口は続いて南側に移され、建物の方向が変わった。次にアプシスにはコンスタンティヌス帝の巨像が置かれ、空間の容積も大きくなった。バシリカは8本の柱で3廊に分割されており、身廊にあたるところに、14m以上のシポリン(雲母大理石)の縦溝のはいった円柱が8本横に並んでいて、35mもあった3面にわかれた交差ヴォールトを支えていたという。
フォリ・インペリアーリ通から見ると後陣(アプシス)は通りの方に出っ張っていた、つまり、パラティーノの丘から見て中央の部分が後陣だと思っていたのに、この図では西側がアプシスになっている。
アプシスへと続く幅35mもある身廊の天井が交差ヴォールトで、しかもそれぞれの曲面は八角形の格天井だ。
シポリンの円柱、あるいは柱頭の残骸は3箇所に残っている(白矢印)。
また、マクセンティウスのバシリカの前の別の遺構と思っていたもの(黒矢印)は、コンスタンティヌス帝の巨像が置かれた身廊を挟んで、現存する建物と左右対称に造られた建物の一部だったのだろう。
北にある小廊は、中央の身廊とは直角に交わる位置にあり、9世紀のバシリカを破壊した地震にも耐えたもので、24mの高さにある半円ヴォールトの格天井も残っている。身廊に対してはヴォールトは扶け(たすけ)壁の役目も果たしていたという。
現在残っているこの巨大な建物が「小廊」とは。
右のヴォールト天井には八角形の格間が12個ずつ5列並び、4つの八角形が囲む隙間には小さな四角形の格間が造られている。これもローマン・コンクリートだろう。
壁面には3つのアーチ形の開口部がある。
採光は、バシリカの長辺部分とファサードの2層にわたってスパンごとにリフレンする、身廊の大きな窓や三連窓から光を取っていたという。
ここには格子状に仕切られたガラス窓があったようだ。下のアーチの両側は彫像でも置かれていたのか、縦の出っ張りがある。中央のアーチには奥まった壁龕がある。
そして前の方に置かれているものはヴォールト天井の巨大な破片だ。パンテオンのドームの整然と並ぶ軽やかな格天井と違い、このバシリカのヴォールト天井はレンガを重ねた重そうなものだった。
4世紀ともなると、質の良いローマン・コンクリートの原料が枯渇したのか、それともローマン・コンクリートによる軽い天井を造る技術が伝わらなくなっていたのか。
中央のヴォールト天井も同じ格天井だ。左右のヴォールトとの違いは、平たい奧壁にはなっておらず、曲面の壁龕となっていることだ。フォリ・インペリアーリ通から見たように教会の後陣状のものがこの中央の間の壁龕に当たる。
ここは、入り口が南にあった時代の後陣だったのだろう。
しかし、ヴォールト天井から半ドームへの収斂がうまくいかず、そのために半ドームの頂点付近が剥がれ落ちてしまったのではないだろうか。
さっき見かけた天井のかけらが、その一部だったのだろう。
築造後約1700年たった現代では、アーチによる重量の分散やローマン・コンクリートによる軽量化では足りず、機械的に補強を行っている。
西側の交差ヴォールトも他と同じ格天井。木製の棒のようなものが付けられているが、何のためかわからない。
パンテオンと比べると、ドーム内側の直径が31mなので、身廊幅の35mよりも小さいが、高さは55mもあるのでこのバシリカよりもずっと高い。

※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)