2011年7月23日土曜日

1-4 ビザンティン時代のヒポドローム(戦車競技場)

スルタンアフメット駅から近道をして、舞台のようなところと小さなモスクの間を通った。

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通り過ぎながら撮ったそのモスクは、後で通った時に1491年建立というプレートがあった。オスマンがビザンティンを征服した1453年から40年ほどたったバヤジット(ベアジット)Ⅱの時代に建てられたもので、フイルズアー・ジャーミイ(Firuz Aga Camii)という。
正方形の平面から八角形となり、そして小さなドームになっている。この正方形から八角形への移行がどうなっているのか、中に入って見ればよかったと、今にして思う。尖頭アーチの連なる前廊の天井にも小さなドームが3つ載っているのが、グーグルアースで見ることが出来る。中も見られたらなあ。
ミナレットは1本だけ。古いとわかると良く見えてしまうのが私の常である。
ヒッポドロームがすぐそこというところにキオスクのような小さな店があって、ちょうどシャッターを上げているところだった。エルソイ・ブフェ(Ersoy Bufe)という名前らしい。
表側に親父がいるらしいので、表に回って「ス(su)」と言ってみた。500mlのペットボトル2本で1ドル渡すとトルコリラの小銭が返ってきた。
この古風なオスマン風の建物はひょっとして、トルコ・イスラーム博物館?
スルタンアフメット・ジャーミイは見えていても、その前にいろいろ残っている。
『イスタンブール歴史散歩』は、スルタン・アフメット・モスクの前はビザンティン時代の競馬場跡である。トルコ語ではアト・メイダヌ(At Meydanu)と呼ばれている。ヒポドロームは戦車競争場であり、市民生活の中心でもあった。203年、セプティミウス・セヴェルス帝が建設に着手、コンスタンティヌス大帝が拡大改装した。長さ480m、幅117mの細長い建造物だが、十万人もの観客を収容できたという。
ローマのチルコ・マッシモみたいなもんやね。

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競技場の中心にはいま3つの記念碑(2つのオベリスクと蛇の円柱)が立っている。コンスタンティヌス帝が新しい首都コンスタンティノープルを完成させ、330年5月、盛大な式典を挙げたのもこの競馬場であるという。
うわ~、スルタンアフメット・ジャーミイから大群衆がが出てきて、オベリスクの向こうへと走るように向かっている。やっぱり見学時間は随時だったのだ。
一番初めにあるのは、テオドシウスのオベリスク。テオドシウス帝は在位379-395年、トラムヴァイの窓から見えた城壁を造った人でもある。
4世紀頃、エジプトからコンスタンティノープルへ運ばれてきた。現在の高さはおよそ20mだが、もとはその3倍もあったという。390年、このオベリスクを現在の場所に建てたのはテオドシウス帝であるという。
エジプトで最も高いというオベリスクが、ルクソールのカルナック神殿にあるハトシェプスト女王が立てたオベリスクで30m、完成すればそれよりも高かっただろうと言われている、アスワンの切りかけのオベリスクが40mだ。60mもの高さのオベリスクは、いったいどこにあって、どの王が造らせたのだろう。
『イスタンブールが面白い』は、カルナックのアモン神殿から運ばれたトトメスⅢの顕彰碑という。
台座の四面に、競馬場で観戦する皇帝や、勝利の冠を戴く皇帝などが描かれているという。
人の動きも少なく平板な浮彫だ。
下をのぞき込んだらビザンティン時代の地面があった。
奥の切石を積み上げたオベリスクは誰がつくったものだったのか、向こうがテオドシウスのオベリスクで、こちらの方は別の皇帝の名の付いたオベリスクだったかな、などと自分の記憶のええ加減さには呆れる。
南端に立つ石柱については諸説あるが、明確なことはわかっていないという。
なんや、わかってなかったのか。それでも大勢の人たちが石柱の周りでガイドの説明を聞いている。
大蛇の円柱の方は、確かデルフィから略奪してきたものだったはず。
頂部が欠けているので蛇に見えにくいが、3匹の蛇がからみあった像で、もとはデルフィのアポロン神殿に立っていたトロフィの基礎だったのを、コンスタンティヌス帝がここに運んだという。伝承によると、プラタイアイの戦い(前479年)でギリシア軍に敗れたペルシア軍兵士の楯から鋳造されたといわれている。失われた蛇の頭のひとつは1847年に発見され、いまは考古学博物館に収められているという。
ヒポドロームを挟んで、スルタンアフメット・ジャーミイの向かいにあるのがトルコ・イスラーム博物館(Turk-Islam Muzesi、写っているのは南端)。
1524年に建てられたもので、大宰相イブラヒム・パシャの屋敷だった。当時の細密画や銅版画に従って修復されているが、もとの屋敷ははるかに広大で、この建物はその一部に過ぎない。イブラヒム・パシャはイスラムに改宗したギリシア人だが、シュレイマン大帝の腹心として重用され、大帝の姉ハディジェを妻にしている。
石造りのために残った16世紀の貴重な邸宅建築であるという。
ここは16年前に見学した。オスマン時代の様々な美術品が屋敷じゅうに展観されていて、建物共に見応えがあった。当時はトルコでは珍しく撮影禁止だったが現在はどうだろうか。
※参考文献
「イスタンブール歴史散歩」(渋沢幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社)
「イスタンブールが面白い 東西文明の交流点を歩く」(小野陽一・増島実 1996年 講談社カルチャーブックス)