2013年9月19日木曜日

ペロポネソス半島4 ミケーネ9 アトレウスの宝庫はトロス墓


ミケーネでは、城壁で囲まれたアクロポリスにある円形墓域Aと、外にある円形墓域Bが前17-16世紀と最も古い墓地で、トゥムルスと呼ばれてる墓地に数個の竪穴墓を作った。その後墓はトロス墓と呼ばれる、内部空間が円錐形をしたものになっていった。

『古代ギリシア遺跡事典』は、前16世紀から前15世紀にかけて、ギリシア各地の有力集落では、ローカルな支配層のためにトロス墓と呼ばれる石積みの墓が築かれるようになった。ペロポネソス半島南西部のメッセニアに起源をもつトロス墓は、各地に波及する過程で大型化し、地方の最有力層によって独占的に用いられる墓の型式となったのである。ミケーネでも、まだ円形墓域Aが用いられている時期に、「キュクロプス」と通称されるミケーネ最古のトロス墓が造営されている。これに続いてミケーネでは前14世紀の末までに総計9基ものトロス墓が築かれているが、これは単一の集落としては異例の数であり(通常は1集落のトロス墓は1基)、この時期のミケーネの卓越した権勢を伝えているという。

『CORINTHIA-ARGOLIDA』は、最初期のグループ(前1510-1460年)はキュクロプス墓、エパノ・フルノス墓そしてアイギストスの墓。2番目のグループ(前1460-1400年)はパナギア墓、カト・フルノス墓、ライオンの墓。3番目のグループはゲニイ墓、クリュタイムネストラの墓そしてアトレウスの宝庫である。アトレウスの宝庫はミケーネ建築の最も素晴らしいもので、ライオン門(前1250年)が造られたのと同時期のものだという。
切石を持ち送りながら積んでいき円錐ドームを架構している。下図から、最も下の石が大きく、段々小さな石を積み上げているのがわかる。
見学する時間はなかったが、博物館にあった模型で、アイギストスの墓とクリュタイムネストラの墓と呼ばれる2基のトロス墓は、斜面を利用して築かれていたことがわかった。
斜面にドローモスと呼ばれる羨道を掘っているので、2基のドローモスの長さや角度はそれぞれ異なっている。
円錐に近い墓室の形に地面を切り開き、その内部を切石積みで補強したらしい。
その上に盛土をしたのだ。

博物館の近くにライオンの墓と呼ばれるトロス墓があった。やっぱり斜面を利用して築かれている。
先ほどの説明によると、第2期(前1460-1400年)に築造された墓である。
天井が抜けてしまっていて、その周りに遊歩道がついている。遠方に低い山々やオリーブは長けが見え、坐って眺めたり、のんびりと歩いている人もいて、アクロポリスとはまた異なった雰囲気のある場所だ。
もっとも、そんな風に眺めているのは柵の外からなのだが。
近づいて見下ろすと、内部はほぼ円筒形で、持ち送りにして円錐形を導いているようでもない。このまま切石を積んで行くと、直径に対してかなりの高さのあるドームになってしまったのではないだろうか。
墓室の石材は小さいが、入口付近は大きな石で組み立てている。特に楣石が大きい。3つの石でできているように見えるが、これは後世落ちて割れたものを、復元時にそのまま載せたのだろう。
前部で4つの巨石がストミオンに架かっている。
向こうから登ってくる人もいた。遺跡の見学は、このようにのんびりと歩いて巡れるだけの時間的余裕を持ちたいものだ。
ドローモスを上から眺める。見学できるように両側に遊歩道が付けられている。
柵は斜面だけでドローモスの入口にはなかったが、かといってトロスの中に入っている人はいなかった。
ミケーネのアクロポリスから最も離れた場所にあるアトレウスの宝庫だが、一番立派なためか、道路脇にあるせいかわからないが、グループで来た時間に追われる旅行者にさえも、見学コースに組み込まれている。

アトレウスの宝庫 直径14.6m床-天井高13.4m通路(ドローモス)長36m 入口:高5.4m床面幅2.7m 前13世紀後半
ドローモスの端まで入れて写すと、のっぺりした円墳のようになってしまった。
人が写っている方が大きさが分かり易いかも。
果敢にドローモスの壁の石を登っている人がいたが、危ないから登らないでと釘を刺された。残念。
しかし、ライオンの墓のような遊歩道はないので、本来は登ってはいけないのだろう。
ドローモスの両側の壁の墓室に向かって高くなる切石積みは立派だが、意外に不揃いだった。
中国の墓地中深く造られたので、羨道という地下へ続く斜めの道が付けられているが、ミケーネではドローモスと墓室のレベルは同じになっている。
『CORINTHIA-ARGOLIDA』は、ファサードの高さは10.5m、かつて2本の付け柱があたという。
そして、ファサードの入口側は浮彫による過剰な装飾があったという。
博物館にはファサードの図があった。両側の付け柱も浮彫があったらしい。
開口部の両側の壁面は二重の刳りが施され、隅には柱礎が残っている。
上の方に穴が2つあるのは、付け柱を支えるためのものだったとガイドのジョージさんは言っていた。
楣石とはいうが、巨大な石板は入口から見える所で分かれている。何枚で構成されていたのだろう。
ファサード浮彫図の拡大。
三角形の開口部は、楣石の重量軽減のために上の石材を持ち送って造られた空間だ。そこに三角形の石を嵌め込んで、複雑な文様を掘り込んだということらしい。
左上の図は牡牛を飼い慣らしている場面、右上は牡牛の角を掴んでねじ伏せようとしているのだろうか。それともこの体勢から牛飛びでもするのかな。
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、玄室は、礫岩の切石を33段のリング状に迫持式に積み上げたもので、内壁上方の至るところにおそらく青銅の円花飾り付きの鋲が留めてあった。
建造の年代は前1250年頃とする説もあるが、前1350年頃と考えられ、「クリュタイムネストラの墓」はこれより若干後とされる。ミュケナイの支配者の絶大な権力をもって初めてこのような大規模の墳墓が相次いで鋳造されえたといえるが、以後その財力は宮殿の新築や城壁の延長に向けられたものと思われるという。
ちょっと強引な合成の、その33段とドーム天井(ドームはピンボケ気味)。
上にいくほど穴のような隙間があるのがその跡だろうか。
ドームを見上げて。暗いのでなかなかピントを合わせられなかった(できるだけ明るく補正しています)。
実際は暗上に、ジョージさんによると、羊飼い達が火を焚いたために煤で真っ黒だった。
墓室の片隅に石材が並んでいた。
ジョージさんは、ドームの頂上から盗掘者が入って落とした石だと言っていた。
北側に先ほど見たファサードと同じような造りの開口部がある。やはり、大きな石板を楣石に使っている。
『世界美術大全集3』は、遺体は側室内に埋葬され、ドームの下では葬儀その他の儀式が行われたのであろうという。
ここからは立入禁止。
さきほどのライオンの墓と比べると石材の大きさがまるで違っている。ミケーネの城壁を造り直してライオン門を建造させた、その権力と富の最高の時代に築かれた王墓だったことがよくわかる。
入口上の幾分か湾曲した楣石と、重量軽減の空間を見上げる。
持ち送りにして、上の石を迫り出して空間をつくっている。アーチという技法をミケーネでは知られていなかったのだろう。
内側から見ると、楣石は入口側の小さな石材と、内側の大きな石材の2枚で構成されていたようだ。
墓室を出ると、円錐形のザラ山(660m)が正面に迫っていた。
アトレウスの宝庫はアクロポリスからもよく見える。しかし、そのつもりでこの場所に王墓を築いたのなら、ファサードの浮彫がよく見えるように、ドローモスをこちら側に向けていただろう。

後日アテネ国立考古博物館で見たアトレウスの宝庫からの出土物。盗掘されていたため、あまり残っていない

カップや衣服に取り付けていた装飾品などの金製品や、青銅製の人物像。
他にも武器や宝飾品、そして壺類。壺にはファサードにもあったジグザグ文が描かれている。

ミケーネ8 博物館3 渦巻文は様々なものに←      
                            →オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場


関連項目
ミケーネ4 アクロポリス
ミケーネ3 円形墓域A
ミケーネ2 ライオン門
ミケーネ1 円形墓域B
円錐ドームならミケーネにも


※参考文献
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「CORINTHIA-ARGOLIDA」 ELSI SPATHARI 2010年 HERPEROS EDITIONS
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館