2013年12月2日月曜日

メテオラ1 奇岩を縫う道から修道院を眺める


朝目が覚めると外はまだ暗かった。ベランダに出てみると、山際が少し明かるくなってきた。カストラキの村人たちはもう目覚めているのだろうか、街灯にしては数が多い。


カランバカの裏側、カストラキに泊まったので、裏側からメテオラに近づいていった。

雲一つない青空に朝日が眩しい。
村から見上げたメテオラの岩山は小さな岩の集まりに過ぎない。
やがて大きな岩山が現れ、メテオラらしくなってきた。
岩肌には所々穴があいている。
穴の中には人工物があったりする。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、気象学を英語でメテオロジーという。その語源になったのがギリシア語のメテオラ、「高い所」「宙に浮く場所」ほどの意味である。
屹立する奇岩に穴をうがち、隠修士が暮らし始めたのがいつのことかはわからない。記録に残るのは14世紀以後で、オスマン帝国の海賊に辟易したアトス山の修道士が、この地に集団移住してからのことであるという。
これらの穴はアトス山の修道士が移住する前に隠修士が居住した場所だったのかも。
そのような岩の隙間に人が集っているように見えるものがあった。
ガイドのフェリーツィアさんは、聖ジョージの洞窟で、人ではなく、お参りした人たちが掛けた布だという。
どこから登っていくのだろう。
メテオラというのは歩く観光地だと思っていたのだが、車で結構回れるらしい。
カストラキ村を過ぎてから、バスは徐々に坂道を登っていった。それにつれて、岩山も姿を変えていくのだった。

そのうちに、左側のあまり高くない岩の上に修道院が見えてきた。①アギオス・ニコラオス修道院。
曲がりくねった道路からは、刻々と違った角度から、そして高さから、山や修道院が見る。
これは道路右側の②ルサヌウ修道院。
さっきから左手に見える巨岩を回り込む。

小さな奇岩の集合体も。

①アギオス・ニコラオス修道院のまた違った姿が見えてきた。
右側には②ルサヌウ修道院。右の岩山から橋が架かり、まだ早い時間なのに橋を渡る人がいる。観光客か、僧院の修道士かな。

右手の岩山は、あの巨岩と思っていた岩山だが、向きが変わると痩せてきた。下の方に長い穴がある。
その穴には木で何かを取り付けて暮らしていたらしい痕跡が残っていた。

そして左手、高い岩山の上には③バルラアム修道院。左の岩山の奥には④メガロ・メテオロン修道院がわずかに見える。
2つの岩山の間には小さな家のような建物が、バルラアム修道院のある岩山とその右の岩山の間には橋があって、人が渡っている。

③バルラアム修道院
同書は、アタナシオスの仲間であった隠修士バルラアムによって14世紀中葉に創建されたとされるが、バルラアムについては伝記不明である。「すべての聖人」に捧げられた主聖堂は1542年の建築。かわいらしいドームを2ついただく小聖堂であるという。
これがその家のようなもの。フェリーツィアさんは、道路脇にある供養碑と同じようなものだという。
その先に橋があって、④メガロ・メテオロン修道院に行くことができる。
右の岩山と橋でバルラアム修道院の岩山に繋がっている。
もう見学が終わって出て行っているのかな。

アギオス・ニコラオス修道院が下に見えるようになってきた。今風のリフトが動いている。観光客は岩山を登らなければならないとか。

①アギオス・ニコラオス・アナパヴサス修道院 伝14世紀
アギオス・ニコラオス修道院の正式名称だが、長いので皆アギオス・ニコラオス修道院と呼んでいる。
同書は、アナパヴサスなる寄進者によって14世紀につくられたと考えられるが、具体的な資料は残っていない。主聖堂のフレスコには「画家テオファニス・ストリザリスによって1527年に描かれた」との銘文が残っているという。
カーブにさしかかったところで④メガロ・メテオロンが見え出し、
すぐに2つの修道院が重なって見えたりと、刻一刻と変化があって目が釘付け。
振り返ると②ルサヌウ修道院が、あの空洞のある大岩のそばに見えた。
昔修道院の出入りに使っていた梯子が残っている。
①アギオス・ニコラオス修道院がずっと下に見える。先ほど動いていたリフトは、建物に収まっている。昇っていたのだ。

④メガロ・メテオロン修道院が全て見えるようになり、

③バルラアム修道院の前に来たかと思うと通り過ぎてしまった。

オシオス・ルカス修道院からカランバカへ←   →メテオラ2 メガロ・メテオロン修道院1

関連項目
メテオラ6 カランバカの聖母の眠り聖堂
メテオラ5 ルサヌウ修道院
メテオラ4 見下ろす景観
メテオラ3 メガロ・メテオロン2 主聖堂(カトリコン)の壁画


※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社