2014年1月13日月曜日

テッサロニキ6 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 フレスコ画


パナギア・アヒロピイトス聖堂 450-470年 テッサロニキ
『世界歴史の旅ビザンティン』は、三廊式バシリカで、寄進銘から5世紀第3四半期の建立であることがほぼ明らかになっている。もともとは聖母に捧げられた聖堂であったが、「人の手で描かれたのではない(アヒロピイトス)」との伝説をもつ聖母のイコンにちなんで、14世紀以降こうよばれることになったという。
そのイコンについては、モザイク画に気を取られて失念していた。
初期の聖堂はと出入口は中央にはなかったらしく、右手から入った。当時の信者たちは、まず側廊へ向かっていたのかも。

入ればやはり身廊へ。
アギオス・ディミトリオス聖堂と同じように三連アーチ。すでにアーチの内側にモザイクが3つ。

後陣へ向かって行く。左前方は修復中。
左側階上廊にはあまりモザイクは残っておらず、右側階上廊のアーチ内側にはモザイクが残っている。でも、階上廊へはどうやって行くの?
左側は6つのアーチしか見られない。
三廊式であるのと、大きな窓がたくさんあるので、堂内は割合に明るい。
後陣にはモザイクではなくフレスコで青地に黒い十字架がのこっているだけ。
右側廊へ。アヒロピイトスと言えばモザイク画しか念頭になかったが、身廊と側廊を隔てる列柱上の壁面にフレスコも残っていた。
西半分の方がよく残っていた。

創建当初(5世紀後半)のままのフレスコだろうか。それを知る手がかりとなる本が、この教会には置いていなかった。今でも信仰の場なのだ。
身廊にもこのようにフレスコ画が描かれていたのだろうか。アーチの向こうに修復中の身廊左側が見えている。養生に覆われた布からはみ出して青っぽい部分が出ている。身廊側もフレスコ画があったようだが、やっぱり聖人たちが描かれていたのかな?それとも、キリスト伝だろうか?
側廊の終わりまでフレスコは続いている。
メダイヨンの中の聖人像
ギリシア文字が読めないので誰かわからないが、アギオス・ディミトリオス聖堂で見たモザイク画(6-7世紀)よりも立体感のある表現。創建時と考えて良いのかな。
メダイヨンの中の胸像と、このような立像との違いは何だろう。
何故か最後は聖人ではなく、バターを作る容器のようなものだった。
たくさんの穴は、おそらくオスマン帝国に占領されていた頃、漆喰で覆う時に漆喰の付きが良くなるように穿ったものだろう。

ナルテクス北側。こんなところにもアーチがあって、その内側にモザイクが残っている。
 ナルテクス南側にも大きなアーチ、そしてモザイク。
それにしても、ナルテクスの天井が、洗濯板のようにギザギザなのは何のためだろう。

この聖堂は今でも信仰の場。見学時間に制限があるのはわかるが、絵葉書も写真集もないのは残念だった。


テッサロニキ5 アヒロピイトス聖堂まで街歩き
                →テッサロニキ7 パナギア・アヒロピイトス聖堂2 モザイク1

関連項目
バシリカ式聖堂の起源はローマ時代のバシリカ
イコノクラスム以前のモザイク壁画8 アヒロピイトス聖堂2 蓮華もいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
テッサロニキ9 アギア・ソフィア聖堂
テッサロニキ8 パナギア・アヒロピイトス聖堂3 モザイク2
テッサロニキ4 アギオス・ディミトリオス聖堂2 クリプト
テッサロニキ3 アギオス・ディミトリオス聖堂1  モザイクとフレスコ
テッサロニキ2 ビザンティン時代の城壁
テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社