ブルサ市街地図 Google Earth より(見学した順)
①オルハンガジ廟 ②オスマンガジ廟 ③イェシルジャーミイ ④イェシル廟 ⑤ウルジャーミイ ⑥コザハン ⑦オルハンガジジャーミイ ⑧オスマンガジ像
『トルコ・イスラム建築』は、メフメット一世(在位1413-21)が建設したキュッリエ(複合施設)は、モスクすなわちザーヴィエ(デルヴィシュつまりイスラム神秘主義教団の修行者の宿泊所兼修道場)、メドレセ、テュルベ、イマーレット、ハマムからなり、特にモスクやテュルベの装飾で使われたトルコ石色のタイルが美しいので、イェシル(緑色の)キュッリエと呼ばれている。モスクは、建物が1414-19年に建設し終え、室内のタイルの装飾などは1424年に完成した。
メフメット一世が建設したイェシル・キュッリエシの中に、1421年に死亡したメフメット一世の墓廟として1424年に完成したという。
複合施設の平面図
①モスク ②シャドゥルヴァン ③イマーレット ④テュルベ(墓廟) ⑤ハマム ⑥メドレセ
モスクの南方の丘に墓廟が造られた。
墓廟の立面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より
①入口 ②ホール ③メフメット一世の棺 ④ミフラーブ ⑤ドーム ⑥トルコ襞 ⑦地下墓室
ブルサ イェシルトゥルベ立面図 トルコ・イスラム建築紀行より |
一辺が8.6mの正八角形の基壇の上、一辺が8.1mの正八角形の胴を建て、直径15.1mのドームを戴いた高さ 26.7mの堂々たる墓廟である。胴の北面にはタチカプ(建物の正面で、ひときわ目立つように、周囲より高く豪華に作られた入口)の入口が取られた。
タチカプを含め各面ともトルコ石色のタイルで覆われていたという。
このタチカプは豪華というほどでもないが、イシェルジャーミイの入口と比べると、出っ張りがある。
このタイル装飾については後日忘れへんうちににて。
内部も八角形で、ドームへの移行部は、モスクと同じトルコ襞が使われ、天井以外は華美な彩色はなく、八面に一つずつステンドグラスがある。
この浅い1/4ドームのリブが出っ張っていて、
木製の扉には幾何学文様が施されることが多いが、それをクンデカリ技法ということがわかった。これついても後日忘れへんうちににて。
ステンドグラスについては後日忘れへんうちににて。
『トルコ・イスラム建築』は、内部は一辺が 6.3mの正八角形の広い部屋で、正八角形の壁からの移行にトルコ襞を用いて、高いドーム天井が覆っているという。
メフメット一世はコンスタンティノープルを陥落したメフメト二世の祖父に当たる。
その下の長方形の区画は、枠は絵付けタイルをつないだもの、主パネルは大きな一枚もので、モザイクタイルにも見えるが、黒い組紐文の輪郭を彫り込んでいるだけのようにも見える。
また同書は、このテュルベには東側から入る地下の納棺室がある。南北側が少し狭くなっているが、上の階と同じ正八角形の広い空間を5部屋に分けていて、他に例のない構造であるという。
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入ると正面にミフラーブがあり、メフメット一世の棺はメッカの方向を向いて安置されていない。そういえば、イスタンブールのスレイマン大帝の墓廟でも、棺はメッカの方向には置かれていなかった。
棺の頭部側から見ると、オルハンやオスマンの墓廟ほどには多くないが、親族たちの棺も安置されている。
同書は、部屋の中央に八角形の壇があって、その中央にメフメット一世のタイルで覆われた棺が置かれている。ミフラーブも豪華なタイルの装飾で覆われている。
周囲の壁は床から3m程の高さまで濃い緑色の六角形のタイルで覆われていたが、剥げ落ちた後19世紀にトルコ石色のタイルが貼られた。地震の被害の後の修理で使用されたタイルはキュタフヤ製であるという。
タイルに覆われた棺は多くない。ティムール朝期のシャーヒズィンダ廟群の無名の墓廟の棺や、クサム・イブン・アバスの棺などが、このイェシルトゥルベよりも先行する。
ミフラーブにはやはり絵付けタイルが使われているが、こちらについては修復されたとは記されていない。
外壁
同書は、地震の被害を受け、タイルの多くは剥げ落ちて修理されたが2つの面はオリジナルのまま残っているという。
上部のタイルの色よりも濃いので、この面と右側の面がオリジナルだろう。
また同書は、このテュルベには東側から入る地下の納棺室がある。南北側が少し狭くなっているが、上の階と同じ正八角形の広い空間を5部屋に分けていて、他に例のない構造であるという。
残念ながら、その納棺室は見学していない。非公開なのかも。
参考文献