お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年11月29日金曜日

ブルサ Bursa ウルジャーミイ Ulu Cami と コザハン Koza Han


オスマン帝国第五代メフメット一世(在位1413-1421)が建立したイェシルジャーミイと④トゥルベを見学した後は、ブルサの中心にある⑤ウルジャーミイへ。

ブルサ市街地図 Google Earth より(見学した順)
①オルハンガジ廟 ②オスマンガジ廟 ③イェシルジャーミイ ④イェシル廟 ⑤ウルジャーミイ ⑥コザハン ⑦オルハンガジジャーミイ ⑧オスマンガジ像


再び⑧オスマンガジ像 Osmangazi Heykeli のあるロータリーを回って、


ブルサの中心部へ。 Google Earth より
⑤ウルジャーミイ ⑥コザハン ⑦オルハンガジジャーミイ ⑧エミルハン Emirhan ⑨古いハマム


オルハンガジ公園 Gazi Orhan Parkı へ。ウルジャーミイ(大きなモスク)の小ドーム群とミナレットが現れた。

その先でバスを降りて、コザハンの前に左手へ向かう。


先にウルジャーミイを見学。



『トルコ・イスラム建築』は、オスマン朝は、1363年エディルネ(旧アドリアノーブル)を獲得して、1368年に首都をブルサからエディルネに移した。1364年プロブディフ(旧フィリベ)、1385年ソフィアを獲得し、バルカン半島に領土を広げた。1389年のコソヴォの戦いで勝利した直後、セルビアの貴族に暗殺されたムラト一世(三代、在位1362-89)の後を継いだのがバヤズィット一世(四代、在位1389-1402)である。
1396年にドナウ河南岸のニコポリスの戦で、キリスト教諸国の連合軍に大勝したバヤズィット一世は、その戦利品の利益で、前首都のブルサにアナドル最大の金曜モスクを建設した。
1396年に建設を始め1400年に完成したブルサ・ウル・ジャーミである。約68m×56mのやや横長の長方形の建物で、中庭のない多柱式モスクである。礼拝室内部は約64m×52mの広さを誇るという。
大きなドームに覆われたモスクもいいが、多柱式のモスクも好みなので楽しみ。

ウルジャーミイ平面図(南北が逆) 『トルコ・イスラム建築紀行』より
①ミフラーブ ②多ドーム式礼拝室 ③明かり取りとシャドゥルヴァン ④東の脇入口 ⑤西の脇入口 ⑥正面入口 ⑦ミナーレ(西のミナレットは、建物内部から入るようになっている)
ブルサ ウルジャーミイ平面図 『トルコ・イスラム建築紀行』より

非常にシンプルな構成だが、斜め上方から見ると、同じ高さの小ドームが並んでいるのではなかった。
『トルコ・イスラム建築』は、ドラムの高さは、ミフラーブを通る中央のキブラ軸上の四つのドームが一番高く、その両側に離れるにつれて低くなるように差をつけている。中央のキブラ軸上のドームの頂までの高さは21.5mである。それぞれのドラムの側面には、明かり取りの小窓を8個開けているという。
ドーム自体は同じ大きさなのに、ドラム(八角形のドームへの移行部)の高さを変えている。
ブルサ ウルジャーミイ外観 『トルコ・イスラム建築紀行』より


公園から来たら④東の脇入口。五つの大きな尖頭アーチは浅く、その中に上は窓が二つずつ。中央が入口で窓の下に矩形の浅い刳り、その中にも小さな矩形の刳り、深い尖頭アーチが二つという、見た目にはシンプルながら見所のある入口だ。

⑥正面入口側に回る。



イェシルジャーミィよりも前に造られているからか、正面にはソンジェマアトイェリの柱廊がない。イスタンブールのものよりもずんぐりした⑦西側のミナレット

日陰の中にシャドゥルヴァン(清めの泉亭)と右奥は古いハマム



⑥正面入口には高く立派なタチカプ
『トルコ・イスラム建築』は、北側のファサードは、近くのバザールの1956年の大火災で被害を受け、再建された。
入口前の柱廊はない。逆T型のモスクと違って、デルヴィシュ用の部屋はなく、モスクの機能に徹しているという。
イェシルジャーミイ(1414-19)は一般民衆が礼拝する場というよりも、修行僧のためのものだったが、こちらの方が先に建てられているので、デルヴィッシュが優先されていたのでもなかった。


入って正面ふたつ目の天井にはドームがない。
『トルコ・イスラム建築』は、唯一、ミフラーブ軸上の入口側から2番目のベイは、ドームを架けず空けられていたが、後にガラス張りドームで覆われたという。

ガラスのドームを見上げる。ガラスで覆われるまでは、雨がかりだった。


その下には③大きなシャドゥルヴァン
同書は、19世紀になって白大理石製のシャドゥルヴァンが配置された。この場所は、中庭式モスクの中庭の名残である。「シャドゥルヴァン」は、礼拝前の清めのための水を供給する装置で、礼拝室の外に設置させるのが一般的で、礼拝室内にあるのは珍しいという。
実際に使っている人がいた。

噴水の装置をよけながらミフラーブ壁を眺める。上部には金色でしたためられた大きなカリグラフィーと、その両側にはステンドグラス。
その手前には木製のムアッズィン用マッフィルがあるみたいなので、

右隣の柱間からムアッズィン用マッフィルを眺めながらミフラーブの方へ向かった。


正面からはランプでミフラーブのムカルナスがよく見えないが、上部に華やかなステンドグラスがあるのは確認できた。

装飾はカリグラフィーの他は植物文様で、渋く落ち着いた彩色だった。


その傍にはミンバル
下の方は触れないように透明なカバーがあった。
説明パネルは、説教壇は 1571 年に遡り、クンデカリ技法で作られた珍しい作品という。
クンデカリ技法については後日忘れへんうちににて。

ミンバル(説教壇)は金曜日の集団礼拝でイマーム(指導者)がここに立って説教するのだと思っていたら、現地ガイドのギュンドアン氏は、「イマームはここに立つだけです。説教をするのは別の席です」と言った。その席は五つ上の写真に写っています。

上り口の上にも木製の蔓草の透彫。


説明パネルは、192個のカリグラフィは、19世紀後半から20世紀初頭にかけての作品に間違いないという。

左奥壁には人の顔のようなカリグラフィー
。角柱にも左右対称のカリグラフィーがが描かれているが、何かの絵のようにも見える。

すべてではないが、カリグラフィーには左右対称のものが多い。それが近世の能書家の腕の見せ所なのかも。

太い角柱と尖頭アーチが仕切りのように等間隔であるので、全体を見渡せない。
『トルコ・イスラム建築』も、礼拝室は、ピアが太いので全体への見通しが利かず、空間の一体感は薄い。ピアも天井も漆喰が塗られ、花紋様の輪郭と大柄の文字紋様が描かれているのが独特であるという。
この一体感は、金曜日の集団礼拝のことを言っているのだろうか。この一体感を造り出すために、ミマールスィナンは様々な試行錯誤を重ねた。その跡をイスタンブールで体感できる。

ここにも、そこにも、向こうにも、左右対称のものや人の顔に見えるカリグラフィーが。

バヤズィット一世の花押(トゥグラ)?



あるところに大きな幕が展示されていた。かつては入口に設置されていたのかも。

刺繍で植物文様やカリグラフィーが表されている。


使い古されたために布地には撚れが年輪のよう。



1855年の地震の後に再建された煉瓦造のミナレットも独特な形である。

石積みの基壇からレンガ造りの塔への移行部に直線的な凹凸がある。
下部の石は新しいが、その上は創建材のよう。

日陰だったのではっきりと分からない箇所もあるが、三角形を用いて正方形から十六角形へと移行させている。
ギュンドアンさん、これもトルコ三角形ですか?
う~ん、それでもいいでしょう。

その上で十六角形から円形へと、トルコ独特のドームの架構法を用いている。

そして頂部では、レンガを独特の形に持ち送ってバルコニーを設け、ムアッズィンがアザーン(トルコではエザーン、礼拝の呼びかけ)を朗誦するための塔。スピーカーが発明されてからはムアッズィン用マッフィルで行うようになったという。


ウルジャーミイを後にして、コザハンへ向かう。
ウルジャーミイの境内の東の端には身を清める沐浴所が横並びになっていた。

境内を出ると、両側に商店が並ぶクトゥジュラル通り Kutucular Sk. 。


ガジオルハン公園 Gazi Orhan Parkı まで戻ると、横長の噴水の先に透明な半球のものがあった。


コザハン Koza Han という、現在は商業施設だが、かつては繭の取引が行われていたところへ。南の入口から入る。
説明パネルは、コザハンは、イスタンブールのモスクに収入をもたらすために、バヤズィト二世によって 1490年に建てられたという。
ということは、イスタンブールのベヤズィット(昔はバヤズィットと発音されていたが、現在ではベヤズィットになった)ジャーミイのワクフになったのだろうか。

バザールは長方形の中庭(一部は正方形)を囲む 二階建てで、95の部屋がある。東側には納屋や倉庫として建てられたコザハンの奥には飲食店が並び、北側の正門である冠門は網目模様が印象的。かつて絹織物貿易の中心地であったこの地では、現在も絹織物や絹製品などの取引が行われているという。

中の通路からすぐに中庭があり、階段を上った訳でもないのに二階にいた。中庭は、一階が半円アーチ、二階が尖頭アーチになっていて、その上は小ドームが並ぶ二階建ての建物に囲まれている。

かつての繭取引の様子


店舗には入らなかったので広さは不明だが、通路は広かった。


角を回ると中庭にアーチの列柱の上に、ドームのある八角形の建物が見えてきた。
中庭の中央には噴水を付属した小さなモスクがあるという。
商取引をする人たちが礼拝するためのものだろう。

上部にはゴシック様式の尖頭アーチとは違うイスラームの尖頭アーチとペンデンティブが並ぶ。
繭の取引はしていないが、いろんな素材の衣料品店が並んでいた。


また繭の取引所時代の写真パネル


繭の生産地での取引かな


北側の階段を下りて中庭へ。


珍しく階段は木製
入口は閉まっていた。上の文字は、コザハンモスクはバヤジド二世が1491年に建設した。1948年に商人の協力を得て骨董品協会によって修復されたという。
この建物の下がシャドゥルヴァン(清めの泉亭)になっていたようだが、見なかった。



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参考にしたもの
現地の説明パネル

参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社