①オルハンガジ廟 ②オスマンガジ廟 ③イェシルジャーミイ ④イェシル廟 ⑤ウルジャーミイ ⑥コザハン ⑦オルハンガジジャーミイ ⑧オスマンガジ像
ブルサの中心部へ。 Google Earth より
⑤ウルジャーミイ ⑥コザハン ⑦オルハンガジジャーミイ ⑧オルハンガズィ公園 Gazi Orhan Parkı ⑨オルハンハマム ⑩エミルハン Emirhan ⑪シェンギュルハマム ⑫フィダンハン ⑬ゲイベハン ⑭ベデステン(商店街)
⑧オルハンガジ公園 Gazi Orhan Parkı へ。ウルジャーミイ(大きなモスク)の小ドーム群とミナレットが現れた。
『トルコ・イスラム建築』は、オスマン朝は、1363年エディルネ(旧アドリアノーブル)を獲得して、1368年に首都をブルサからエディルネに移した。1364年プロブディフ(旧フィリベ)、1385年ソフィアを獲得し、バルカン半島に領土を広げた。1389年のコソヴォの戦いで勝利した直後、セルビアの貴族に暗殺されたムラト一世(三代、在位1362-89)の後を継いだのがバヤズィット一世(四代、在位1389-1402)である。
1396年にドナウ河南岸のニコポリスの戦で、キリスト教諸国の連合軍に大勝したバヤズィット一世は、その戦利品の利益で、前首都のブルサにアナドル最大の金曜モスクを建設した。
1396年に建設を始め1400年に完成したブルサ・ウル・ジャーミである。約68m×56mのやや横長の長方形の建物で、中庭のない多柱式モスクである。礼拝室内部は約64m×52mの広さを誇るという。
大きなドームに覆われたモスクもいいが、多柱式のモスクも好みなので楽しみ。
ウルジャーミイ平面図(南北が逆) 『トルコ・イスラム建築紀行』より
①ミフラーブ ②多ドーム式礼拝室 ③明かり取りとシャドゥルヴァン ④東の脇入口 ⑤西の脇入口 ⑥正面入口 ⑦ミナーレ(西のミナレットは、建物内部から入るようになっている)
非常にシンプルな構成だが、斜め上方から見ると、同じ高さの小ドームが並んでいるのではなかった。
『トルコ・イスラム建築』は、ドラムの高さは、ミフラーブを通る中央のキブラ軸上の四つのドームが一番高く、その両側に離れるにつれて低くなるように差をつけている。中央のキブラ軸上のドームの頂までの高さは21.5mである。それぞれのドラムの側面には、明かり取りの小窓を8個開けているという。
ドーム自体は同じ大きさなのに、ドラム(八角形のドームへの移行部)の高さを変えている。
『トルコ・イスラム建築』は、北側のファサードは、近くのバザールの1956年の大火災で被害を受け、再建された。
入口前の柱廊はない。逆T型のモスクと違って、デルヴィシュ用の部屋はなく、モスクの機能に徹しているという。
イェシルジャーミイ(1414-19)は一般民衆が礼拝する場というよりも、修行僧のためのものだったが、こちらの方が先に建てられているので、デルヴィッシュが優先されていたのでもなかった。
入って正面ふたつ目の天井にはドームがない。
『トルコ・イスラム建築』は、唯一、ミフラーブ軸上の入口側から2番目のベイは、ドームを架けず空けられていたが、後にガラス張りドームで覆われたという。
その下には③大きなシャドゥルヴァン
同書は、19世紀になって白大理石製のシャドゥルヴァンが配置された。この場所は、中庭式モスクの中庭の名残である。「シャドゥルヴァン」は、礼拝前の清めのための水を供給する装置で、礼拝室の外に設置させるのが一般的で、礼拝室内にあるのは珍しいという。
実際に使っている人がいた。
噴水の装置をよけながらミフラーブ壁を眺める。上部には金色でしたためられた大きなカリグラフィーと、その両側にはステンドグラス。
その手前には木製のムアッズィン用マッフィルがあるみたいなので、
装飾はカリグラフィーの他は植物文様で、渋く落ち着いた彩色だった。
左奥壁には人の顔のようなカリグラフィー。角柱にも左右対称のカリグラフィーがが描かれているが、何かの絵のようにも見える。
境内を出ると、両側に商店が並ぶクトゥジュラル通り Kutucular Sk. 。
⑧ガジオルハン公園 Gazi Orhan Parkı まで戻ると、横長の噴水の先に透明な半球のものがあった。
⑥コザハン Koza Han という、現在は商業施設だが、かつては繭の取引が行われていたところへ。南の入口から入る。
かつての繭取引の様子
店舗には入らなかったので広さは不明だが、通路は広かった。
角を回ると中庭にアーチの列柱の上に、ドームのある八角形の建物が見えてきた。
その傍にはミンバル
下の方は触れないように透明なカバーがあった。
説明パネルは、説教壇は 1571 年に遡り、クンデカリ技法で作られた珍しい作品という。
ミンバル(説教壇)は金曜日の集団礼拝でイマーム(指導者)がここに立って説教するのだと思っていたら、現地ガイドのギュンドアン氏は、「イマームはここに立つだけです。説教をするのは別の席です」と言った。その席は五つ上の写真に写っています。
説明パネルは、192個のカリグラフィは、19世紀後半から20世紀初頭にかけての作品に間違いないという。
『イスタンブール 旅する21世紀ブック』は、イスラム芸術のカリグラフィーは、コーランの諸節の称揚やハディース(ムハンマトの言行)の称揚から生まれてきた。こうして10世紀にはイブン・ムクレ、11世紀にはイブン・ベルヴァフ、13世紀にはヤクットなどの書家が現れ、聖なる書体の手本とされていた。
トルコでは、バヤズット2世の治世になってようやくハムドゥラーフ(1429-1520)という革新的な大家が出現した。彼はナスフ体の大家として、やがてオスマン国のカリグラフィーの先駆者と見なされることになる。スルタンのバヤズット2世もハムドゥラーフの弟子であったという。
同書は、イスラム文化では人間をかたどる表現は伝統的に禁止されているが、19世紀、それに立ち向かって、文字を組み合わせて人間の顔や聖なる動物を描く独特の芸術が生まれた。それは何枚もの鏡の戯れのようであり、像が反復され増幅されるのである。その結果、人間と神と言葉が絡み合うのであるという。
『トルコ・イスラム建築』も、礼拝室は、ピアが太いので全体への見通しが利かず、空間の一体感は薄い。ピアも天井も漆喰が塗られ、花紋様の輪郭と大柄の文字紋様が描かれているのが独特であるという。
この一体感は、金曜日の集団礼拝のことを言っているのだろうか。この一体感を造り出すために、ミマールスィナンは様々な試行錯誤を重ねた。その跡をイスタンブールで体感できる。
あるところに大きな幕が展示されていた。かつては入口に設置されていたのかも。
1855年の地震の後に再建された煉瓦造のミナレットも独特な形である。
下部の石は新しいが、その上は創建材のよう。
日陰だったのではっきりと分からない箇所もあるが、三角形を用いて正方形から十六角形へと移行させている。
ギュンドアンさん、これもトルコ三角形ですか?
その上で十六角形から円形へと、トルコ独特のドームの架構法を用いている。
そして頂部では、レンガを独特の形に持ち送ってバルコニーを設け、ムアッズィンがアザーン(トルコではエザーン、礼拝の呼びかけ)を朗誦するための塔。スピーカーが発明されてからはムアッズィン用マッフィルで行うようになったという。
ウルジャーミイを後にして、コザハンへ向かう。
ウルジャーミイの境内の東の端には身を清める沐浴所が横並びになっていた。
説明パネルは、コザハンは、イスタンブールのモスクに収入をもたらすために、バヤズィト二世によって 1490年に建てられたという。
ということは、イスタンブールのベヤズィット(昔はバヤズィットと発音されていたが、現在ではベヤズィットになった)ジャーミイのワクフになったのだろうか。
バザールは長方形の中庭(一部は正方形)を囲む 二階建てで、95の部屋がある。東側には納屋や倉庫として建てられたコザハンの奥には飲食店が並び、北側の正門である冠門は網目模様が印象的。かつて絹織物貿易の中心地であったこの地では、現在も絹織物や絹製品などの取引が行われているという。
中庭の中央には噴水を付属した小さなモスクがあるという。
商取引をする人たちが礼拝するためのものだろう。
また繭の取引所時代の写真パネル
繭の生産地での取引かな
上部にはゴシック様式の尖頭アーチとは違うイスラームの尖頭アーチとペンデンティブが並ぶ。
繭の取引はしていないが、いろんな素材の衣料品店が並んでいた。北側の階段を下りて中庭へ。
珍しく階段は木製
入口は閉まっていた。上の文字は、コザハンモスクはバヤジド二世が1491年に建設した。1948年に商人の協力を得て骨董品協会によって修復されたという。
この建物の下がシャドゥルヴァン(清めの泉亭)になっていたようだが、見なかった。
次に⑦オルハンガジジャーミイへ向かうため、オルハンガジ公園側に出た。
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参考にしたもの
現地の説明パネル
参考文献