2015年10月15日木曜日

チャシュマ・アユーブ廟1 独特の外観


②サーマーン廟のある公園を抜けた場所に③チャシュマ・アユーブ廟がある。

『シルクロード建築考』(1983年)は、点々と続いたブハラの城壁跡と、まばらな灌木や雑草の荒地の果て、かつての墓地を整備されたところに、古い清泉信仰の対象となったトンガリ屋根のドームを架けた異様な姿の建築があるというが、現在では木々も成長したために、サーマーン廟のあるイスチロハット公園からは、廟の全てを眺められなくなっている。

同書は、、チャシュマとは「泉」を意味し、アュブは預言者「ヨブ」の伝説をもとに清泉の井戸が、この神廟の聖象になっている。乾燥したブハラ一帯の砂漠の中に、湧水のある清冽な泉があれば、生活の実用性以上に病気治癒の霊験に誘われて、神格化されたのも当然であろう。チムールの夫人が病気になったときも、この清泉によって快癒したので、あの円錐形の高いドームを造営し進献したという。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、構造物はここに既に12世紀に存在していたという意見もあるという。
『シルクロード建築考』は、現在の神廟は間口約19m、奥行約26mのくすんだ黄土色の煉瓦積の壁面に、平煉瓦の横積を組んだランダムな間口の窓が、ポインテッド・アーチによって形成されている。高さ約5mの屋上は、奇妙な形態のもとになった3つのドームが、堂の中心線にならって縦に並んでいる。
16世紀に成ったという中央部分の円蓋の下は、聖水の湧出する丸い井戸であるという。
どのドームのことかな。
入口から2番目のドームには明かり取りの窓が円筒部にあけてある。しかも格子は木製。

同書は、 奥の方に、直径約5mのドラムで支えた例の円錐ドームが見える。一見して二重殻ドームと思われる構造の姿が見える丁度サマルカンドにあるグル・エミル廟の溝条ドームのネックと共通したドラムとの接合テクニックが用いられているようである。この廟の最も古い建築の部分は、小さな墓室であるらしく、その壁に見られる1379年の銘文によって、チムールの発願であることがわかる。ドラムや円錐ドームの竣工にもチムールが大いに干渉したのだろう。優れた多くの工匠たちは、チムールの故郷に建てた宮殿造営り際に、カスピ海東南岸一帯のホラズムから、連行されて建築工事に従事させられたに違いはあるまいという。
こう見ると、形の異なったドームが3つに見える。見る方向によっていろいろに見えて、面白い建物だ。
ミナレットの痕跡発見。でもミナレットにしては細すぎるかも。
台の上の2つの丸いものは円柱の残骸?ということは元のファサードは、かなり違っていたことになる。

同書は、元来、モンゴル、イル・ハン朝のグンバッド(墓塔)に架けられた円錐形ドームの発祥は、モンゴル軍の移動する貴族たちの幕舎形態から発生したものと考えられている。
この神廟のドームの高さ約16m、円錐部分の高さ約5mの煉瓦積造ではあっても。一部は泥モルタルの補修を施されて、いたって素朴ながら建築の西方的な横顔を見せているという。
西壁はミフラーブのところだけが角を立てて出っ張っている。
パオ(ゲル、ウズベキスタンではユルタ)と呼ばれる丸いテントは、屋根の高さよりも幅の方が大きく、移動し易いよう、組み立て式になっているが、貴族たちのパオはやや小さめで屋根が高く、アユーブ廟の円錐ドームによく似ている。10頭もの牛で引いていったこのパオは、木の柱を巡らせてしっかり造ってあるので、解体ができなかったのかも。
このような形の墓廟は、東トルコの旅で幾つか見たのだが、チャシュマ・アユーブ廟のティムールが造らせたものよりも以前に建造されている。
それについては、下記の関連項目にて

入り口に書かれている碑文によると、この構造物がアミール・チムールによって造られた。チャシュマイ・アユブの特性は第13-14世紀のホレズム建築の典型的な円錐のドームである。

ではそろそろ中へ

ここにも浅浮彫のみごとな扉が。
そんなに古くはなさそうだが、これまで見てきたような幾何学文(ギリヒ)は組紐文というよりは、輪郭が力強い。
幾何学文の中に植物文が入り込んだ文様は、複雑に絡み合う組紐は、凝視すると直線なのだが、なんとなく曲線ぽい印象を受ける。

               →チャシュマ・アユーブ廟2 それぞれ別の天井

関連項目
エルズルム1 ウチュ・キュンベット
エルズルム4 チフテ・ミナーレ・メドレセ3 キュンベット
エルズルム5 タシュハンからヤクティエ・キュンベットへ
エルズルム6 ヤクティエ神学校

※参考文献
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT