2018年11月1日木曜日
フィジャック サンソヴール聖堂
ロカマドゥールから50分ほどでフィジャック(Figeac)の中心部へ。
不覚にも旅の途中の風景を写していなかったが、カオールからロカマドゥールに移動した時と同じような丘陵地帯だった。
セレ側を渡った記憶がないのに、いつの間にか町に入っていたのは、ぼんやりしていたからではなく、ロカマドゥールからは川を渡らずに来られるのだと、地図を見て納得。
段々と旧市街へと近づいて、木組み(コロンバージュ)の高い建物が現れた。
フィジャック中心部の地図(ピンクの線が散策した通り)
駐車場となっているヴィヴァル広場(Place Vival)でバスを下車。
古い建物の観光案内所。緑の枠は補強?
観光案内所の南側の小さな広場。タンデムで旅する人たちを見かけた。
オルタバディアル通り(Rue Ortabadial)から
狭いL字形のバレヌ通り(R.Balène)を通って
ゴシック様式の三葉形窓の並ぶ建物に。
その建物の先はゴシック様式の飾りアーチのような扉口や、階段の明かり取りの窓のある出っ張りがあり、その脇にはセレ川(Le Célé)沿いのマレシャル・フォシュ通り(Avenue Marechal Foch)へ出る階段が。
続く建物も古そうな扉口。これも貴族の館。
監視塔がついている。
ガンベッタ通り(R.Gambetta)を北へ。
続いてエルブ広場(Place aux Herbes)へ。
前方には教会堂が見えてきた。
三叉路左手にはケース・デパルニュ(Caisse d’Épargne)の建物。
正面にはサンソヴール教会(Église St-Sauveur、救世主)の高いファサードが聳えていた。独特の外観である。
フィジャック市のサンソヴール聖堂は、コンク修道院の監督の下、838年にアキテーヌ王ピピン1世が修道院を設立した。この状況は数々の争議を引き起こしたが、ウルバヌス2世がニームの公会議でフィジャックをクリュニー修道院に帰属させることを布告した1096年に終わった。修道院の建物は今日には残っておらず、聖堂と参事会室だけである。長い間革命のせいだとされてきたが、宗教戦争が破壊のきっかけのようだ。
教会堂に南接していた回廊は、革命後に整備され、現在レゾン広場(Place de la Raison)となっている。現在の建物の建造は11世紀末とされていて、14世紀まで断続的に行われた。
平面図は、それぞれの聖人の聖遺物を正面に見て祈りを捧げる、また全ての建物に繋がる周歩廊のあるロマネスク様式の巡礼路教会のものである。左右対称になっているという。
ウィキペディアのÉglise Saint Serninに記載された平面図(フォルミジェ、Formigé、1875年)によると、再建は12世紀で、ファサードの扉口が19世紀のもののよう。
LADEPECHE.frのサンソヴール聖堂の洞窟と呼ばれた扉口によると、1130-50年建造のロマネスク様式の教会は、鐘楼まで40mの高さがあり、3のつ半円アーチの上に立っており、複合柱や円柱で支えられていた。
1938年プロスペル・メリメはオーヴェルニュの旅行記でサンソヴール聖堂について、19世紀まで増築と改築を続け、醜悪なものにして、素晴らしい柱廊を取り壊したという。
ロマネスク期のものとしては、アーチの上の層に一対の扶壁が、時計の上に3つの半円アーチの開口部が、そしてファサードの左に半円アーチの窓が残っている。
フォルミジェの平面図によると3廊式十字形のバシリカ式で、身廊は7柱間。
サンソヴール聖堂は、身廊は幅7m左右の側廊は幅4mで、その長さは62mあり、周歩廊の要石までの高さは21mある。
7つの柱間の1身廊2側廊、交差部は両翼に2柱間の礼拝室、ロマネスク期(11-12世紀)
この交差天井も12世紀のものらしいが、横断アーチもロマネスクではなくゴシックの尖頭形で、窓も複雑な飾りアーチとなっている。
しかし、交差天井がリブがなくても落ちない、つまり、交差リブには補強する役割はなく装飾であることがよくわかる。
尖頭ヴォールトの交差するところをどんな工夫をしているのかと拡大してみると、なんと、石積みではなく、モルタル造にあたかも切石を積んでいるように刻みを入れてあるだけだった。後世の修復?
身廊南側が12世紀で、上から高窓、階上廊(トリビューン)、大アーケードという三層構造。
大アーケード。窓際は14-15世紀に改築され、小礼拝室が並ぶ。
小礼拝室の一つ。開口部の半円アーチを支える女性胸部はロマネスクっぽい。
それについては後日
下部には聖人像や聖遺物などが祀られている。
側廊は交差天井を太いリブが八分割する。
左側は17世紀の修復で階上廊がない。
交差部は3柱間
サンソヴール聖堂は、交差部(交差りぶのある3つの柱間)と内陣はゴシック期(13世紀)という。
十字交差部より内陣。
正面のステンドグラスは十字架降下を表しているが、古いものではなさそう。
内陣左の周歩廊から入る。
サンソヴール聖堂は、周歩廊は3つの祭室が放射状についているという。
その入口脇に龍を退治する大天使ミカエルの像
周歩廊へ
中央の小後陣は柱間が一つあるので最も奥行があるという。
半ドームのひび割れが目立つ。
3つめの小後陣。
南の周歩廊出入口
南翼廊の3柱間のうち中央の柱間
その右(西)の幅広の翼廊
建物の内側にもモディヨン(軒下飾り)が並んでいる。
それについては後日
この翼廊の南に通路があり、
続きに天井の低い嘆きの聖母礼拝堂(ノートル・ダム・ド・ピティエ、La Chapelle Notre-Dame-de-Pitié)が付設されている。
サンソヴール聖堂は、1250年頃建立された参事会室。17-18世紀という長きにわたる工事が行われ、17世紀にノートル・ダム・ド・ピティエ礼拝堂となったという。
三廊式で2列の円柱、各廊は交差天井の3柱間。
南側の木彫祭室の壁面装飾は17世紀後半、フィジャックの彫刻師の家系、デルクロー(Delclaux)によるが、嘆きの聖母はおそらくジャン・ロネ(Jean Launet)が彫った。嘆きの聖母の下、祭壇の前には最後の晩餐が表させているという。
南翼廊に戻り、続く側廊で巡礼路教会のマークを発見。
小さな扉口から外に出たところがレゾン広場(Place de la Raison)。嘆きの聖母礼拝堂のそばのモナステール通り(R.du Monastère)を
後陣方向に。
周歩廊の中央の深い礼拝室の構造を外から確認。
嘆きの聖母礼拝堂
ロマネスク様式の窓とゴシック様式の窓が入り混じる聖堂。
外壁のモディヨンは全てを写すことはできなかったが、修復材なのか、動物や人の顔は見当たらない。
柱頭やモディヨンなど、たくさんは撮影できませんでしたが、まとめて後日
ロカマドゥール 中世の町← →フィジャック 町は建物博物館
関連項目
フィジャック、サンソヴール聖堂の柱頭・モディヨン
参考サイト
フィジャック市のホームページよりサンソヴール聖堂
LADEPECHE.frのサンソヴール聖堂の洞窟と名付けられた扉口
ウィキペディアのÉglise Saint Serninに記載された平面図(フォルミジェ、Formigé、1875年)
参考にしたもの
フィジャックの観光案内所の地図