お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2018年11月8日木曜日

フィジャック 町は建物博物館


サンソヴール聖堂を拝観後、

南のモナステール通り(R.du Monastère 僧院通り)から複雑な交差点をロクフォール通り(R.Roquefort、地図ではフェレ通り)へ左折。
やはり木組み(コロンバージュ)の建物が目立つが、風通しのためか、建物の最上階は、屋根と壁の間が柱だけになっているものが多い。
道幅は狭くなり、蔦の絡まる壁と門が見えてきた。
この形のアーチは、カオール旧市街の門は17世紀だったので、ここもその頃の門だろう。
小さな中庭に入って建物を見上げると、赤く塗り直された鎧戸が開いたり閉じたりして、現在でも住居として使われているのだった。
その扉口には各戸の呼び鈴と、今風に監視カメラがあった。
こんなところに入ることができたのも、ガイドのロベルトさんのおかげである。個人ではとても扉を開くことができない。
右の壁面はお隣だと思うが、モルタルに嵌め込まれた(そんな造り方ではないかも知れないが、そんな印象を受ける)石や焼成レンガが階ごとに違っていて興味深い。それにしても、扉口くらいの開口部は、人が出入りしていたものだろうか?
外側に出てその建物を見ると、
角に監視塔があり、最上階はフィジャックらしく通風に開かれている。フィジャックでは建物の最上階を倉庫に使っていたのだとか。

その先を右に、トンフォール通り(R.Tomfort)へ。
クレルモン通りとの角にはルネサンス様式の十字形の窓。地上階は尖頭アーチを修復した窓。
その建物を左に続いており、尖頭アーチ形の開口部や楣石で開いた小さな窓には鉄格子が嵌まっていた。
その後右手には木製の鎧戸が並ぶ建物が続き、
 袋小路トンフォール(Impasse)も過ぎて、
先につっかい棒で支えられた張り出し窓と、その先に細い円塔が現れた。

決して広くはないエミール・ゾラ通り(R.Emile Zola)。ここにも地上階はゴシック様式の尖頭アーチが並び、二階は教会建築のようなトリフォリウム(三つ窓)、その上階はルネサンス期の四角い窓という構成の建物。

通りはデルザン(R.Delzhens)と名前が変わり上り坂に。
左前方の細い塔はやはり監視用だ。
奥の建物にも中央に柱のある四角い窓。サンシル・ラポピーの建物と同じ頃なら16世紀くらいかな。
塔が見えてきた。
坂を上り続けると教会の建物が姿をみせてきたが、塔は木に隠れてしまった。
振り返ると先ほどの細い円塔と高い角塔のようなものが。それはヴィギエドュロワ(Le château Viguier du Roy)という城館の監視塔と主塔で、現在はホテルになっているという。狭い通りからは見えなかったものだ。

前方に現れたのはノートル・ダム・デュピュイ教会(Église Notre-Dame-du Puy)。
サンソヴール聖堂と同じように、ファサードの上に小さな鐘楼が一つのっている。
またしても正面からは全貌を写すことができなかった。
フィジャック市のホームページNOTRE DAME-du-PUYは、創建は1270-80年、交差部が張り出した1身廊2側廊で1鐘楼の平面だった。14世紀に葬儀用の礼拝室を側廊に造った。宗教戦争で破壊され、17世紀に何度も改築された。19世紀にも改築が行われたという。
バラ窓や扉口の何重にも刳って軽快感を出したところやその間の彫像柱を安置する装置などはゴシック的だが、その両脇と小さなバラ窓の外側には補強のための扶壁があってロマネスク色が濃い。
ファサードの扉口。尖頭の飾りアーチを受ける柱頭は小さな植物文様だが、一番外のアーチボルトには動物の高浮彫が並んでいる。
彫像柱を安置した装置
内部はこれまで拝観した教会堂とは違い非常に明るい。それは天井や壁面が白く塗られているからだが、ロマネスクやゴシックの教会堂も、建立当初はこんな風に白く塗られて明るかったのだろうか。
こってりとした彫刻のある祭壇の左右にはアーチ形の開口部があり、後陣に入ることができる。
しかし小祭室の半ドームの装飾は描かれたものだった。

丘の上にある教会の南側は旧市街の眺望がよい。この辺りは緩やかな丘が続く地帯だった。右の角塔は現在は市庁舎の一部。
先ほど見えた監視塔と主塔、そしてその背後にはサンソヴール聖堂。やっぱりフィジャックも小さな町なのだ。
丘の上にあるノートル・ダム・ドュピュイ教会の近くには通ってみたい小径があった。
北からサンジャック通り(R.Saint Jacques)、
そして 1877年5月16日通り(R.du 16 Mai 1877)。
どちらも車は通行禁止の散歩道。石畳というだけでなく、壁も石で蔦や木々の緑に覆われている。右下の石などはすっぽりと抜けそう。
ピュイ広場に面した小さな扉口の脇に鉄製のプレートが。月-木の9時から17時半までは開放されているらしい。
中をのぞくとご婦人が通ってきた。
通路の先には階段があるらしい。時間さえあればその階段を下りてみたい。

続いて我々が下っていったブタリク通り(R.Boutaric)。
階段がなくなると、左の先にまたもや古い建物が。
地上階は尖頭アーチ、その上は三連窓のゴシック様式。最上階はやはり屋根付きテラス風。
三連窓には幾何学文様のステンドグラス。
ロマネスクのような人物の登場する柱頭や尖頭アーチ下には人の顔も。ロマネスクの名残は教会から出て世俗の建物を飾ったのだ。
一方向かいの建物は木組み。ルネサンス期のものだろうか、窓は十字に仕切られているが、石材ではなく木材。
左建物の続きの外階段。

シャンポリオン広場(Place Champollion)に出ると、向かい側のゴシック様式の建物はカフェのよう。
時計回りに4階建ての木組みの建物
続いてシャンポリオンの生家で現在は博物館の建物。
この2つの建物の間の狭い路地を入っていくと、建物の壁だけが残ったようなアーチが。
その向こうは小さな中庭のようになっていた。作家達の広場(Place des Éctirures、プラス・デゼクリテュール)という。
この広場も階で異なる時代の建物で囲まれている。
広場の中央には三段の黒い石板が敷かれていて、
ロゼッタストーンの3種類の文字(ヒエログリフ、デモテック、ギリシア語)を写したものだった。シャンポリオンがロゼッタストーンを解読したしたことを讃えてつくられたのだという。
ゴシック様式の二連窓には植物文様の柱頭

西側からモネ通り(R.de la Monnaie)という路地へ。
傍の建物も木組みで、
何故か人頭が飾られている。
その隣の建物の扉口にはタンパンに太陽と月、そして主の紋章が浮彫されている。

狭いセギエ通り(R.Séguier)を渡り、
建物の下のトンネルへ。その上には上階を支える木材が石壁から突き出ている。


カルノ広場(Place Carnot)の中央には長方形の屋根付きテラス。昔は市が開かれていたという。
広場を横切って

ガンベッタ通り(R.Gambetta)へ。ここもまた古い建物が続いている。
ロベルトさんの前にいる添乗員氏が指しているのは木組みの壁

その先にはテンプル騎士団分団長の館(Commandrie des Templiers)。
ゴシック様式の窓は修復されないままだがホテルになっているらしい。
中庭へ。壁に12-15世紀というプレートがかかっている。
狭い中庭を囲む建物の一面は木組みで、ルネサンス様式の十字形の窓(木製)。
右に続く壁にはゴシック様式の窓も。右上の出っ張った木造の通路は、
隣の建物へと続いている。通路を支えている木柱は壁面から出た石材にのっている。
テンプル騎士団の服を見せるロベルトさん。
土産物屋をのぞいたら騎士団らしく武器や武具が並んでいた。
子供用の鎖帷子を買う人がいるのだろうか。
中庭には馬と騎士用の鎧が置かれている。

その後11月11日通り(R.du 11 Nobembre)へ。ここにも左にはルネサンス様式の十字形の窓に尖頭アーチの門、右にはゴシック様式の尖頭アーチの大窓。
建物の開口部の形だけでなく、積んだ石の形や大きさが階によって、また建物によっても違う。フィジャックは建物の歴史博物館とでもいうような町だった。

そして、通りを左折すると、最初に見た観光案内所のあるヴィヴァル広場。
広場の西のバルタル広場(Place Barthal)という名称の通りの角にあるカフェでひと休み。
エクスプレスは1.5€


そしてコンク(Conques)に向けて出発。町を出る時に初めてみたセレ川(Le Célé)は思ったよりも大きくなかった。

  フィジャック サンソヴール聖堂←     →フィジャックからコンクへ

参考サイト
フィジャック市のホームページNOTRE DAME-du-PUY

参考にしたもの
フィジャックの観光案内所の地図