2025年4月18日金曜日

ミマールスィナンの建築巡り ユスキュダル Üsküdar アティック・ヴァリデ・ジャーミイ Atik Valide Camii


ユシキュダル地図 Google Earth より
❶アティクヴァリデジャーミイ Atik Valide Çamii ❷カラダヴドパシャジャーミイ Karadavud Paşa Camii ❸ルミメフメトパシャジャーミイ Rumî Mehmet Paşa Camii ❹シェムシアフメッドパシャジャーミィ Şemsi Ahmet Paşa Camii ❺ミフリマースルタンジャーミイ Mihrimah Sultan Cami ❻フェリー乗り場
緑色の線はカドキョイからドルムシュ、徒歩、ミニバスでソコルルメフメトパシャ小学校停 Sokullu Mehmet Paşa İlkokulu 留所までの行程。

さて、ドルムシュを降りて乗客の皆さんに手を振って通りを右折、次の大きな交差点まで歩いて右に曲がった。バス停らしきものは分かったが、果たしてソコルルメフメトパシャ・イルコクル まで行くミニバスはやって来るのだろうか。

近くにスマホを持って何かを待っていた女性に「ソコルルメフメトパシャ・イルコクル(ソコルルメフメトパシャ小学校)」と言うと、すぐにやってきたミニバスに一緒に乗ってくれた。その上料金まで運転手に払ってくれる。私が払おうとすると、彼女は両手を右胸に当てて身振りで「私の気持ち」と言っているようだったので、素直に従った。彼女は次の停留所で降りていった。

そして私の降りる停留所はその次。彼女が運転手に料金を払う時に、私が小学校前で降りる旨を伝えてくれていたので、停まってくれた。ミマールスィナンのキュッリエを見るための移動だったが、地元の人たちの親切に触れた短い旅だった。
降りて撮った水色の小さなバスがミニバス。この辺りは下り坂が海側。


さて、バス停から道路を渡って狭い坂道を上っていくのは、ミマールスィナンが建てたアティクヴァリデジャーミイと複合施設。
アティクヴァリデとはスレイマン大帝の跡継ぎセリム二世の妃で、次のムラト三世の母(ヴァリデ Valide)となった。
NHKの「世界熱中ひとり旅 佐々木蔵之介×ベネチア ~“悪女”が握る平和の秘密~」を見て驚いた。トルコのドラマ「オスマン帝国外伝」では、ヴェネツィアの貴族の娘ヌルバヌが拉致されてきて、やがてセリム二世の妃となったのだが、「世界熱中ひとり旅」では実はギリシアの島の娘で、自分はヴェネツィアの貴族の娘と言っていたが、それがばれてもヴェネツィアにとっても有利なことなので、ヴェネツィア側から責められることなく、互いに良い関係でいられた、というような話だったと思う。
その後『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』を開いてみると、1525年にベネチアに属していたファロス島で生まれたヌルバヌは、当時セシリアと呼ばれていた。1539年、12歳の時にファロス島からベネチアへ船で行く途中、高名なオスマン帝国の船長バルバロスハイレッディンパシャに奴隷にされ宮殿に連れてこられた。宮殿で名前を「輝く光」を意味する「ヌルバヌ」に変更され、彼女はイスラム教の訓練だけでなく、非常に優れた教育を受け、それが完了すると、1542年にセリム皇子のハーレムに連れて行かれたという文があって、それはすでに知られている事実となっていたことを知った。


アティクヴァリデキュッリエ(複合施設)地図 Google Earth より
説明パネルは、この複合施設は、その大きさの点でイスタンブール最大のものと考えられている。その建設は、セリム二世の妻であり、ムラト三世の母でもあるヴェネツィアのヌルバヌ・ヴァリデ・スルタンの後援の下、1577年に始まり、スルタンの崩御と同じ年の1583年に完成したという。
アティクヴァリデジャーミイはその複合施設がよく保存されているということで見学しようと思った。
❶キャラバンサライ ❷イマレット ❸学校 ❹最初の門 ❺二つ目の門 ❻中庭 ❼モスク ❽メドレセ ❾ザーヴィエ ➓タブハネ ⓫病院 ⓬ハマム


中央分離帯のあるドクトルファフリアタベイ通り Dr. Fahri Atabey Cd.  を渡って、 Eski Toptaşı Cd. をのぼっていった。

左手に現れたのは❶キャラバンサライの門だが、庇がミマールスィナンぽくない。

次の角を曲がって更に Valide İmareti Sk.  を上って、次の交差点で振り返ると❷イマレット(メドレセの学生や貧しい人たちに食事を提供する慈善施設、『トルコ・イスラム建築紀行』より)の傍を通ってきたことがわかった。

❸小学校 
右のドームの下にレンガと切石を交互に積んだアルマシュクの技法で建てられたもの。
アルマシュクとは、異なる種類の建材を交互の層に積み上げて壁を築く技法。ビザンツ建築で多用され、初期オスマン建築でも使用された。水平の縞模様が装飾になるという(『トルコ・イスラム建築紀行』より)。


モスクと諸施設を隔てる通り Toptaşı Meydan Sk.  

❹門から入る。

修復中のため養生の幕で右側(墓地)は見えない。

門をくぐった右手には木造の建物の下に靴入れが並んでいるので、おそらく南側の女性用マッフィルにはここから入るのだろう。


中庭を巡る回廊

二重の柱廊の向こうにシャドルヴァン(清めの泉亭)が見えている。

斜めの通路の向こうにも門があり、敷石の部分はそこを頂点とした三角形に近い台形で、残りの部分は植え込みになっている。

この閉鎖された門は❸メドレセに通じている。

シャドルヴァンは円に近い多角形で、屋根は帽子のよう。ミマールスィナンがモスクの奉献者が女性なのでおしゃれに設計したのかも。


中庭は狭く、大きな木が邪魔していたが、何とか一対のミナレットとモスクのドームが見えた。

Architect Sinan His Life, Works and Patrons』(以下『Architect Sinan』)記載の上空からの写真
平面図のようにⓔミフラーブが突き出ていること、ⓓ大ドームの周囲にⓔ六つの半ドームがあること、付け足された側廊のⓙ小ドーム、ⓘ一対のミナレットは当初の礼拝室の角に造られていることが確認できた。
ユシキュダル アティクヴァリデジャーミイ Architect Sinan His Life, Works and Patronsより


平面図 『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』より
ⓐ柱廊 ⓑソンジェマアトイェリ ⓒ礼拝室入口 ⓓ主ドーム ⓔミフラーブ ⓕミンバル ⓖ説教台 ⓗ半ドーム ⓘミナレットへの階段 ⓙ付け足された側廊 ⓚ大ドームを支える6本の支柱
左:ミマールスィナンが建てたモスク部分(1570-83) 右:弟子のダヴードアーが増設した側廊(1588)
それにしても、ミマールスィナンは、セリミエジャーミィを建設中にすでにアティクヴァリデジャーミィの建設を始めていた。それどころか、各地にモスクや墓廟、アヤソフィアのミナレット、トプカプ宮殿の厨房その他を建設していたのだ。高齢なので、設計だけのところもあるだろうが。
ユシキュダル アティクヴァリデジャーミイ平面図 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNANより


礼拝室入口上はドームではなく中国の伏斗式天井のように頂部が平たい。

入口上部のムカルナス装飾はムハンマドが神の啓示を聴いたヒラー山の洞窟を表しているという。



ソンジェマアトイェリ
礼拝の時刻に遅れてきた人々のために礼拝するリワクを柱廊に造った。ソンジェマアトイェリには盛期のイズニクタイルが残っているという。
タイルについては後日忘れへんうちににて


礼拝室に入ってミフラーブ壁を眺めると、半ドームののったミフラーブ壁が外に突き出ていた。このタイプは、ミマールスィナンの最高傑作と言われているエディルネのセリミエジャーミイ(1568-74)、そしてトプハネのクルチアリパシャジャーミイ(1578-80)と同じである。ミマールスィナンが気に入った平面だったのだろうか。

大ドーム(直径不明)の
窓は20個

大ドームは入口側の2ヶ所、ミフラーブ側の2ヶ所、そして2本の円柱という6本の支柱で支えられている。


修復を重ねたからか、ステンドグラスは見るべきものはないが、その下のカリグラフィーなどのタイルは盛期イズニクタイル。

あまり古くなさそうなミンバルと奥の豪華な皇帝用マッフィル


ダヴードアーによって追加された右側廊
通常はミフラーブの左側にある皇帝用マッフィルが、ここでは右側に設えてある。
奥の二つの小ドームは暗くてよく見えない。

ダヴードアーによって追加された左側廊
大ドームは、入口側、ミフラーブ側の壁、そして左右の花崗岩の円柱というⓚ6本の支柱からペンデンティブが出ているが、この円柱は低くて細い。それを補うために元の壁側にアーチで繋げているようだ。

左側廊の小ドーム


左側廊の天井

このような幾何学文様の天井も。

窓の外にⓑソンジェマアトイェリが見えて、目を凝らすと階段が、

階段があって、立入禁止のロープや柵がなければ上がることにしている。

上がって最初に見えたのは柵の角。


二階から見るのと地上階から見るのとではだいぶ違う。
右側廊のマッフィルとその上のⓗ半ドーム、更に上のⓓ大ドーム。側廊のⓙ小ドームは見えず、窓がないので暗い。
ところで、ここから見ても花崗岩の支柱は上に柱状の壁を付け足していて中途半端。礼拝室の一体感を崩さないためにこうせざるを得なかったのだろうか。

ミフラーブ正面まで行ってミフラーブを見下ろす。

左側廊より


下階より入口側上部
上に皇族用マッフィル、先ほど行ったのは手すりに国旗が掲げられているマッフィル

 
見学後、同じ門から出て、オレンジ色の建物の続く トプタシュメイダン通りToptaşı Meydan Sk. を歩いて行く。 この門は閉まっていた。 

左はずーっと同じ横長の建物で、

右はモスクの塀に沿って歩いていく。


壁の色が変わったところに❽メドレセの入口が。

向かい側の建物の門は開いていたので入ろうとしたが、
現在はファティスルタンメフメトワクフ大学 Fatih Sultan Mehmet Vakif Üniversitesi になっていて、入口でIDカードを提示しないと入れない仕組みになっていた。


続いてメドレセを回り込んでヴァリデイカヤス通り Valide-i Kahyası Sk. に入るとドームが見えたが、


ドームは平たく、入口は閉じていた。



メドレセの端でテキケオヌ通り Tekkeönü Sk. に入った左側の建物は、
❾ザーヴィエ(修行僧の宿泊兼修道施設 『トルコ・イスラム建築紀行』より)だったが、今ではアティクヴァリデ女子コーラン学校 Atik Valide Kız Kuran Kursu になっていた。

キュッリエの西側の通りを直進してカルタルババ通り Kartal Baba Cd.  を通ってきたが、

その先は階段と右にそれる通りに分かれていた。もちろん階段を降りていく。

階段の終わり


そのまま真っ直ぐ行くと四つ角に四重円のモザイクがあって、


 左に折れてエスキトプタシュ通り Eski Toptaşı Cd. に入ると、すぐに⓬ハマムが見つかった。

ヴァリデアティクハマムとして現在も営業している。しかも女性専用らしい。


脇道からドームを撮影



ということで、アティクヴァリデキュッリエの見学終了。

ところで、ヌルバヌの墓廟はこの境内にはない。

運び出されるヌルバヌの棺 ロクマン画、「セヒンサナメ」細密画部分 『Architect Sinan 』より
同書は、1583年12月7日に亡くなったヌルバヌの遺体をイェニカプの宮殿から運び出す様子を描いた細密画という。
ヌルバヌは何故トプカプ宮殿に住まずに、イェニカプの宮殿に住んでいたのだろう。
細密画部分 運び出されるヌルバヌの棺 Architect Sinan His Life, Works and Patronsより

ヌルバヌはアヤソフィアの境内に建てられたセリム二世廟内に埋葬された。修復中で中に入れなかったが、いつか見学したいものだ。
イスタンブール アヤソフィアのセリム二世廟 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN より




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参考文献
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim著 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI.
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication