お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2025年3月21日金曜日

ミマールスィナンの建築巡り トプハネ クルチアリパシャジャーミイ Kılıç Ali Paşa Camii


再びバスに乗り、ガラタ橋を渡って新市街のトプハネ Tophane へ。

新市街地図 Google Earth より
❶クルチアリパシャジャーミイの複合施設 Kılıç Ali Paşa Camii külliye ❷トプハネ広場の泉水 Tophane Meydan Çeşmesi ❸T1号線トプハネ駅 Tophane ❹トプハネイアミレ文化芸術センター Tophane-i Âmire Kültür ve Sanat Merkezi ❺ガラタポート Galataport ❻ミマールスィナン芸術大学 Mimar Sinan Güzel Sanatlar Üniversitesi ❼T1号線フンドゥクル-ミマールスィナン大学駅 Fındıklı-Mımar Sınan Ünıversıtesı ❽モラチェレビジャーミイ Molla Çelebi Camii 

トラムヴァイT1号線のトプハネ駅を過ぎたところでケメラルト通り Kemeraltı Cd.  から右の車窓にモスクが見えてきたと思うとクルチアリパシャ通り Kılıç Ali Paşa Cd.  へ右折。
クルチアリパシャ付近 Google Earth より

間もなく左手に泉水が見えてきた。トプハネ広場の泉水 Tophane Meydan Çeşmesi という水道施設が目に入った。18世紀のトルコ・バロック様式の建造物。
断水になっても、泉水やモスクのシャドゥルヴァンは水が出るようになっているという。


まずは昼食。角にあるファスリ Fasuli という鋭角の先に入口があるおしゃれなお店だった。ガラタポート、そう、ここはもう前回散策した新市街の海沿いにできた新しい地区の一部なのだった。

前菜はブロッコリと小さなキュウリのピクルスと珍しく盛りの少ないサラダ

メインのクルファスリエ
『トルコでわたしも考えた②』は、トルコ人に一番好きなトルコ料理は?と聞いたら、ナンバーワンはファスリエだと思う。人々がクルファスリエと言う時の口もとがほころんでいるので、何か特別な料理であることを思わせる。
ファスリエとは白インゲンのことである。肉・玉ねぎ・トマトと煮込んだ料理でピラウを添える。私はクルファスリエがこんな大切な料理だとは知らない頃、豆の他にはピラウとサラダだけの手抜きではなく週に一度のごちそうだと知ったのは、トルコに住み始めて一年たつてのことであるという。
ピラウも別皿に盛ってあった。この料理を知って25年後にやっと食べることができた。

デザートのライスプディング(ストラチ sütlaç)は30年前に食べたときよりは甘さ控えめ。


少し界隈を散策した後、クルチアリパシャジャーミイへ。このモスクもミマールスィナンが造ったものだが、前回は時間がなかったので、今回見学できてラッキーだった。

キュッリエの平面図 『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』(以下『Architect Sinan』より)
①モスク ②墓廟 ③メドレセ ④ハマム
同書は、イスタンブールのトプハネ地区にあるキュッリエ(複合施設)は、1578-80年にかけて、海軍大将クルチアリパシャの命により、建築家シナンが海辺に建設したもので、モスク、メドレセ、墓廟、ハマムで構成されている。
クルチアリパシャがモスク建設を決め、スルタンに土地を求めたところ、スルタンは「彼は海の指揮官であり、それだけの権力があるのだから、海上にモスクを建てることもできるはずだ」と答え、海を埋め立ててキュッリエ建設用の土地を整備したと伝えられている。より現実的な見方をすれば、創設者の海軍での経歴の重要性を考慮すると、海辺にモスクを建設することは、その場所として適切な決定だったと言えるという。
埋め立ててすぐに重い石造のモスクを建てて、地盤沈下しなかったとはさすがにミマールスィナン。
クルチアリパシャのキュッリエ平面図 Architect Sinan His Life, Works and Patrons より 


モスクの東側
近すぎてドームが見えない。

A:門の中へ


そして右方向へ。柱廊の角にモスクの模型があった。

キュッリエ全体

①モスクと②墓廟
モスクはミフラーブ壁が少し出っ張っている。ミマールスィナンはドーム下の四隅には重量塔は造らずに、大きな飛び梁(フライングバットレス)にしている。ドームの規模が小さいからだろうか。ドーム下の窓の間には明かり取りの窓の間に小さな飛び梁がある。
墓廟は八角形。

①正門側からモスク、奥のアルマシュク壁のドームは④ハマム
正門は後に改築されたのか、モスクの正面にはない。

③こぢんまりしたメドレセ



現地ガイドのギュンドアン氏はC:シャドゥルヴァンでどのような順番で身を清めるかの説明をしてくれたが、全部忘れた。歳をとると覚えるということができなくなった。

そして礼拝室に入らずに、モスクから出て行くのだった。


出たところが、切石とレンガを層にして積み重ねたアルマシュクという壁面の④ハマムだった。正方形から八角形へと移行して円形のドームを載せているのが外観からもわかる。内部の四隅はスキンチになっているに違いない。
このドームだけだと小さいが、ハマム全体ではモスクと変わらないくらいの大きさがある。

回り込んで写す。
高いドームが冷浴室兼脱衣室、中ドームが高温浴室で、小ドーム群は個室かな?
詳しくはこちら


モスクとハマムの間から③メドレセが見えた。


そして向きを変えてケメラルト通りまで来ると、トプハネイアミレ文化芸術センターという風情のある建物があった。ところが元は大砲の鋳造所だったという。


塀越しに柱廊、半ドーム、主ドーム、そして1本のミナレット



モスク平面図 『Architect Sinan』より
このモスクは土地が限られていたからか、中庭がない。
A:東入口 B:モスクの模型 C:シャドゥルヴァン(清めの泉亭) D:礼拝室入口 E:ソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れてきた人が礼拝する場所) F:半ドーム G:主ドーム H:ミフラーブ I:ミンバル(説教壇) J:ムアッジン用マッフィル K:階上の柱廊(女性用マッフィル) 
クルチアリパシャジャーミイ平面図 Architect Sinan His Life, Works and Patrons より


C:シャドゥルヴァン(清めの泉亭)
モスクの屋根と、外壁に造られた柱廊とに挟まれて屋根が大きすぎる。創建時は中庭があったのが、何かの都合でこんなに狭くなったとか。
同書は、1950年、中庭の北壁が取り壊され、幹線道路の拡張と整備のために再建された。問題の壁の再建は、モスクの外観に影響を与えた。現在、モスクには五つの扉がある。
8本の柱に囲まれたモスクの元のドーム型の泉亭は、正面の中庭にある。モスクのミナレットはワクフ管理によって修復され、その際に円錐形の石の屋根が取り除かれ、代わりに尖った円錐形の鉛の屋根で覆われたという。やっぱり


柱廊には二重のアーケード

E:ソンジェマアトイェリ(礼拝の時刻に遅れてきた人が礼拝する場所)と外側のアーケード
外側の柱頭はダイヤモンド型、内側はムカルナス

ソンジェマアトイェリには鉄格子のない窓とミフラーブが交互に並ぶ。

赤い文字は礼拝(namazı)の時間
日の出、日の入りで礼拝の時刻が変わるので、その日の時刻が示されているのだが、スンニ派は一日五回だと思ったら、六回あるようだ。下の説明には「朝の礼拝は日の出の30分前に行われる」と書いてあるので、それができなかった人は夜が明けてからということかも。

その窓の上のリュネット

赤い釉薬の発色が良くないし、盛り上がらずに平板。



D:礼拝室入口上にはムカルナスはなく、板にカリグラフィーが書いてあるだけ。

天井の小ドームを支える八つのアーチ。四隅には傘状のスキンチ。黒ずんだ古い壁画が僅かに残って、それを元に描かれている。

扉のキュンデカリ技法
詳しくは後日


礼拝室に入るとすぐにムアッジン用マッフィルの上にあがる階段があった。


礼拝室は奥行きも少なく、両側の側廊も見えて全体に小ぶり。

二つの半ドームと左右の窓の多いティンパヌンと四つのペンデンティブに支えられた大ドームというと、アヤソフィアの大ドームの架構だが、規模は比較にならないほど小さい。
アーチは石ではなく補修時に石に似せて描いたもの。それについてはこちら

ティンパヌンの下がK:階上の柱廊なのも似ている。

J:ムアッジン用マッフィルにはブルサアーチ

三方に女性用マッフィルがあるが、その上の細い通路には行くことはできない。



小半ドーム下のH:ミフラーブ壁が建物から出っ張っているのは、ミマールスィナン自身が「熟達者の作」という、エディルネのセリミエジャーミイ(完成はセリム二世の没後の1575年)と同じで、クルチアリパシャジャーミイが建造されたのが1578-80年と近い。
Architect Sinan』は、クルチアリパシャはウ1500年にイタリアのカラブリア地方の村で貧しい漁師の息子として生まれた。司祭になるために船でナポリに向かっていたとき、オスマン帝国の海賊に奴隷として連れ去られ、ガレー船で何年もの間、囚人として使われた。後にイスラム教に改宗して自由を得、地中海で海賊としてオスマン帝国に仕え始めた。後に海軍大将となり数々の功績をあげた。
1587年6月21日に91歳で亡くなり、クルチアリパシャキュッリエ内の墓廟に埋葬されたという。
ミマールスィナンは長生きだったが、クルチアリパシャも当時とすれば相当な長生きだったのだ。
ところで、ムスリムは写真の人のように正座をしてメッカ(マッカ)の方に向かって礼拝する。

ミフラーブ壁は幅が狭いものの、大理石のミフラーブはステンドグラスとスルス体のカリグラフィーや文様帯のタイルで荘厳(しょうごん)されている。それを撮影したかったのにモスクランプにピントが合ってしまった。


I:ミンバル(説教壇)が支柱に取り付けられているのもセリミエジャーミイと同じだ。


このモスクは窓が多くて明るい。

エディルネのセリミエジャーミイの修復が終わっていたら、こんなミフラーブとミンバルを、もっと広々とした空間で見ることができたはず。
トプハネ クルチアリパシャジャーミイのミフラーブ壁とミンバル Architect Sinan His Life, Works and Patrons より

ミフラーブ壁からやや離れて説教台があった。しかもキュンデカリ技法で装飾されている。


左側廊
リュネットには色とりどりのステンドグラスが嵌め込まれていて、とても元海賊で海軍大将にまで上り詰めた老人の奉献したモスクとは思えない。

側廊の壁はリュネットと窓の間にタイルのスルス体のカリグラフィーが並んでいた。


入口側上部
半ドーム、その下両側にエクセドラドーム。その下は女性用マッフィル。上がって内部を見渡したかった。


小規模ながらエディルネのセリミエジャーミイと似たミフラーブとミンバルだが、「礼拝室の空間の一体化」を目指してきたミマールスィナンは、セリミエジャーミイの後のモスクでは求めなくなってしまったのだろうか。


その後ケメラルト通りのアルメニア正教会(19世紀前半建造 Surp Krikor Lusavoriç Ermeni Ortodoks Kilisesi)まで歩いてバスにのり、旧市街のグランドバザールへ。

装飾は簡素で、半円アーチにはイスラームぽくない葡萄唐草文が浮彫されている。



ステンドグラスについては後日




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参考文献
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim著 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI.
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication 
「トルコでわたしも考えた②」 高橋由佳利 1999年 集英社