お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2025年1月10日金曜日

ミマールスィナンの建築巡り エディルネ Edirne セリミエジャーミイ Selimiye Camii


本日の見学はエディルネ中心部のモスクなど。
エディルネ地図 Google Earth より
A:ホテル B:中心部 C:ムラディエジャーミイ D:ベヤズィットジャーミイの複合施設 E:夕食レストラン


ホテルからは一本道(D100)で中心部へ。
エディルネ中心部 Google Earth より
①セミリエジャーミイ Selimiye Camii ②ユチシェレフェリジャーミイ Üç Şerefeli Camii ③ソコルルメフメトパシャハマム Sokullu Mehmet Paşa Hamamı ④アリパシャチャルシュ Alipaşa Çarşıs ⑤ベデステンチャルシュ Bedesten Çarşısı ⑥タリヒリュステムパシャケルヴッンサラユ Tarihi Rüstempaşa Kervansarayı ⑦エスキジャーミイ Eski Camii 


①セミリエジャーミイ Selimie Camii
複合施設の北側でバスを降りると、2本のミナレットがまだ修復中のよう。

①境内への正門から入ると、中庭までのところが養生壁で覆われている。あれ?


③モスクの正門も④中庭も、中庭のシャドゥルヴァン(清めの泉亭)も⑤礼拝室前の柱廊も見えない。それをうかがい知ることができるのは、『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』の表紙だけとは。


キュッリエ(複合施設平面図) 『トルコ・イスラム建築紀行』より
①境内への正門 ②境内への入口 ③モスクの正門 ④中庭 ⑤礼拝室 ⑥メドレセ ⑦アラスタ入口 ⑧アラスタ ⑨コーラン学校
エディルネ セミリエジャーミイ複合施設平面図 トルコ・イスラム建築紀行より

『トルコ・イスラム建築』は、セリム二世(1566-74)は自身の名のキュッリエをエディルネに建設させた。1568年に工事が始まり、一応完成したのはセリム二世の死後の1575年のようである。建設地としてイスタンブルでなくエディルネを選んだのは、セリム自身がイスタンブルよりエディルネを好んでいたためであろうか。場所はエディルネの中心の高台で、バヤズィット一世が建てた宮殿の跡地であったという。
現地ガイドのギュンドアン氏は、セリム二世は建築を急がせたが、ミマールスィナンは地盤沈下がないように、時間をかけて慎重に確認したという。

当初の敷地は約140m×190mの長方形で、四方を壁で囲み、中央よりやや奥にモスク、奥の両隅にメドレセとダールウハーディスを配置した。スレイマニエ・キュッリエシに比べればずっと小規模であるが、モスクのミフラーブを通るキブラ軸に対して完全に対称なプランのキュッリエであった。後に、ムラト三世の時代になって敷地を約150m×190mに広げ、アラスタを付設した。アラスタの賃貸料をセリミエのワクフの収入とするためであったという。


養生壁には修復予想図が描かれていて、それが④中庭の外側を囲っているのだった。

角を曲がると通路の右手は⑧アラスタ(1本の通りを挟んだ両側に店が並ぶ商店街)があるのだが、傾斜地なので、モスクより一段低く造られているので見えない。


モスク平面図 『Architect Sinan His life, Works and Patrons』より
①中央ドーム ②中央ドームのムカルナス ③リブ付きアーチ ④半ドーム ⑤ミフラーブの半ドーム ⑥支柱 ⑦斑岩のアーチ ⑧斑岩のアーチ間のヴォールト ⑨公衆扉のヴォールト ⑩スルタンのマッフィル ⑪図書館 ⑫女性用マッフィル ⑬ミフラーブ(祈りの壁龕) ⑭ミンバル(説教壇) ⑮ムアッジンのマッフィル ⑯シャドゥルヴァン(清めの泉亭)の中庭 ⑰シャドゥルヴァン ⑱ソンジェマアトイェリ(遅れてきた人が礼拝する場所)のドーム ⑲樽型ヴォールト ⑳ドームギャラリー ㉑外部の場所 ㉒ミナレット
『トルコ・イスラム建築』は、ミマール・スィナンが自ら「熟達者の作」と自慢しているように、オスマン建築の最高傑作である。
直径31m余、高さ42m余の主ドームと、それを囲んで聳えている高さ71mの4本のミナレットが遠くからも良く見えるという。
エディルネ セミリエジャーミイ平面図 『Architect Sinan His life, Works and Patrons』より


やってきたのはモスクの西側。ミナレット(トルコ語ではミナーレ)
ここも足場だらけ。


北西側のミナレット


尖り屋根の下にはトルコブルーのタイル。

父のスレイマニエジャーミイのミナレットにもトルコブルーのタイルがあったが、ここでは四つの金属の留め具で固定してある。


ミナレットの根元?には、おそらく蔓草のモティーフ。



⑪南西の入口から見学開始。


⑧斑岩のアーチ間のヴォールトを通って礼拝室に入ると、足場の金具の向こうに⑭ミンバル(説教壇)が現れた。

『望遠郷』は、六角形の星や円を組み合わせた幾何学模様はセルジュク・トルコ建築の特徴であるというが、中央の三角形の大理石板を囲む透彫は、不等辺五角形やら六点星の半分を互い違いに並べているようで面白い。


ミンバルを回り込む。


ミフラーブ壁
Architect Sinan』は、創建時の文書によると、建築家のシナンがスルタン・セリムに、モスクの内装を装飾的なもの(ムゼイエン)にするか、シンプルなもの(サデ)にするか、どのようなスタイルにするかを尋ねた。スルタンは装飾的な装飾を好み、その回答として主任建築家に勅令を送り、張り出したミフラーブ壁を窓の上までイズニックタイルで覆い、主任建築家が適切だと思う形で窓の上部のタイルにファティハ・スーラを書き込むようにしたいと伝えたという。
実現されてものは、リュステムパシャジャーミイと比べると、タイルの壁面が多すぎず、ずっと簡素に見える。それは、ミフラーブが高いことと、両脇の大きなムカルナスにタイルを貼ったり、描いたりしなかったからだろう。

⑤半ドーム
キリスト教会の後陣のように、矩形の建物から半円形に出ている。ミマールスィナンは8本の円柱から大ドームを架構しているので、イスタンブールのアヤソフィアとは平面で異なるが、このミフラーブの半ドームは、ミマールスィナンがアヤソフィアの半ドームの後陣を意識しているように思える。

ムカルナスでドームを架構しているというより、ペンデンティブがムカルナスで構成されている。


セリム二世の父スレイマン大帝が建てたスレイマニエジャーミイでは、礼拝室には柵があって、礼拝に来た人たち以外はミフラーブには近寄れなかったので、大きさの比較はできないが、このミフラーブはかなり高い。大理石の縞も美しい。

せっかくなので直前まで近づいた。今回は修復中なのでここまで近づけたが、修復が終わるとスレイマニエジャーミイなどと同じように、遠くからしか見られないかも。


ミフラーブ左側のタイルの壁面は盛期イズニクタイルのもの。
上部のタイルのカリグラフィーはファティハ・スーラ(イスラム教の聖典コーランの最初の章)。同書は、有名なカリグラフィー家の弟子ハサン・チェレビがエディルネからイズニクにやって来てモスクのカリグラフィーを書いたという。
タイルの詳細は後日忘れへんうちににて

窓の扉は矩形を組み合わせたキュンデカリ技法


ステンドグラスは白地が多い。


ミフラーブ壁の東側も修復中。


東の端まで行ってみた。右手の3本の円柱と二つのアーチが支えているのは⑩スルタンのマッフィルのはず。

窓の上のリュネットは赤い色が鮮やかではないので補修タイルかも。



ドーム側は修復中で、大きな写真パネルが天井や養生壁に並んでいた。以下はそれを写したものです。

巨大なドーム
『トルコ・イスラム建築』は、直径31m余、高さ42m余の主ドームという。
アヤソフィアのドームは東西と南北の直径が1mくらい違っているというが、一応直径は31mということになっていて、ミマールスィナンはそれを越えるドームを造ることができたとされている。それを実際に見て比べてみたかったのに。

入口側からミフラーブ方向
『トルコ・イスラム建築』は、この建物の最も優れているところは、礼拝室の空間の一体化が完璧に近く実現されていることである。主ドームは8本のピアの上に据えられている。ピアは切石積みで、断面が12角形で、縦に12本の溝を付けて装飾としている。ピアの上に架けた8個のアーチから、ムカルナスによるペンデンティブ風の措置を介して、ドームの裾に移行しているという。

⑮ムアッジンのマッフィル
礼拝室の中央という他では見られない位置にあるのも見てみたかった。

礼拝室の入口側
『トルコ・イスラム建築』は、正面入口側と左右の壁は、ピアから離して後方に下げて礼拝室を拡げ、その部分の天井は、ピアを区切りとした区画ごとに奥行きの浅いヴォールト天井としているという。

金曜日の集団礼拝
上が入口側、下がミフラーブ側。礼拝者たちはなんと、礼拝室だけでなく、⑮ムアッジンのマッフィルの上にもぎっしり並んで、メッカ(またはカーバ神殿の黒い石)に向かっている。『トルコ・イスラム建築』で「一体感」というのはこのことだったのか。大きな角柱で分断されたブルサのウルジャーミイではこのような一体感は得られないだろう。
でも⑫女性用マッフィルは、入口側はほぼ満員だけれど左右両側の二階はすいている。
真上から見ると、⑭ミンバルがミフラーブ脇ではなく、1本の円柱に取り付けられている。ということは⑮ムアッジンのマッフィルの近くにはいたのだった。


外に出て、南にあるメドレセへ。

メドレセは中庭を囲んだ回廊は南側と西側に教室が並んでいる。小ドームと煙突が一つ一つの部屋。


教室には美術品が展示されていたり、メドレセでの生活のジオラマがあったりした。

竿頭飾
エディルネのエスキジャーミイ旧蔵 18-19世紀 真鍮製
カリグラフィーで「ヤ アッラー」と書かれている。


銅製品

ここにも細密画のコピーがあった。
説明パネルは、ムラト三世がアトメイダヌ広場で大々的に催したメフメト皇子の割礼の祝祭を描いた細密画(1582年)、アトメイダヌ広場を通る鉱山長という。


部屋は小さいが、ステンドグラスがある。

預言者ムハンマドのひげ箱 トルコ書道博物館財団 19世紀、オスマン帝国期
説明パネルは、 彩色された真珠母貝で作られ、銅の紐で囲まれた植物文様の装飾が施されているという。
繊細な象嵌装飾


六角形のタイル エディルネ、サメレクパシャジャーミイ 15世紀
トルコブルーのタイルで、表面にムラがある。壁面の腰壁に並べて貼られていた。

青と白の浮彫タイル エディルネ、ムラディエジャーミイ 15世紀、オスマン帝国時代
表面はなめらかだが、温度が上がりすぎたのか、コバルトの釉薬がにじんでいる。
ムラディエジャーミイはこの日の午後に見学した。そのタイルの詳細は後日。

詳細不明



生徒一人に一部屋があてがわれた。

生徒は想像していたよりもずっと若い、というよりも、小さな子供だった。


広い部屋では集団で授業を受けた。


天井も高い。



その後境内の北に出て、⑦アラスタ入口へ。 
お菓子や衣料品の店があって、

⑧アラスタの中
数珠や本を売っている店にまじって、

土産物屋も多かった。

こういう商店街の売り上げの一部を、ワクフという名目でモスクや複合施設の運営や修復に当てられた。

そして、アラスタの中程にある⑦西側の出口から外に出た。


階段を下りると白っぽい❼エスキジャーミイの建物が、右に目を向けるとピンクの建物の後方に❷ユチシェレフェリジャーミイの三つのバルコニーが見えていて、それらとセリミエジャーミイの間は公園というよりも発掘調査をしているような感じだった。

発掘調査地を過ぎて振り返るとセリミエジャーミイとアラスタの全体が見えた。

更に下っていくと、ミマールスィナンの像が。


ミマールスィナン(1490-1588)
98歳という長命で、はイスタンブールのスレイマニエジャーミイの敷地の傍に造っていた。


     チャナッカレ海峡

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参考文献
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication 
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim著 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI.
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版