お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年5月20日火曜日

2日目-2 一塔三金堂式の皇龍寺(ファンリョンサ 황룡사)址へ


7号線を横断し、線路をくぐって狭い歩道のない道路の右端をMTBで走り抜けた、とはいかなかった。日本同様車はあちこちに駐車しているし、地図にない交差点がたくさんあった。やっと芬皇寺前の交差点に着いても、写真を撮っている余裕はなかった。交通量の多い道路を自転車で横断するのは大変だった。
やっと渡って芬皇寺の門の前まで来ると、菜の花畑の間に細い道があって、見学者が通っていた。
自転車は無理やろう
特に自転車はだめとも書いてないで
狭いところや人のいるところは押していき、安定してくるとMTBに乗って走った。小回りがきくのが自転車のええところやん。


菜の花畑が途切れたところに皇龍寺の説明と伽藍配置のパネルがあった(図中の印)、9:26。

真興王14年(553)に月城の東に新しい宮闕(キュウケツ)を作ろうとした際、そこから黄龍が現れたということを聞いて寺院に作り替え、皇(黄)龍寺と名づけたといわれる。574年に主尊仏の金銅三尊仏を造り、善徳女王14年(645)に慈蔵の勧めで百済の匠人である阿非知を招請して、九重の木塔を完成したが、4代93年間の完工であった。それから、高麗時代の高宗25年(1238)にモンゴルの侵入をうけ焼失し、跡地だけが残っていたが、1976年に発掘調査が行われ、元来、皇(黄)龍寺は2500坪で、沼地を埋め立てて台地にしたことが明らかになった。
寺院の建物は南北に配置された一塔式伽藍配置を基本にし、金堂の左右に同じような規模の建物を並べ立て、この建物も金堂の性格を有していたことが明らかになった。出土された遺物は4万点余りに至り、すべて優秀なものである
という。
皇龍寺は金堂が3つ横に並び、中金堂の前には木造の九重塔がそびえるお寺だったのだ。
『慶州で2000年を歩く』で武井氏は、東西、南北とも280mほどの大寺院であった。ここで王が中心となって法要がとりおこなわれた。
モンゴル軍が朝鮮半島に侵入したときに焼かれてしまった。このとき皇龍寺にあった鐘は鋳つぶされて、大鐘川を経てモンゴルに持ち運ばれる途中、海に出たところで嵐にあって沈んでしまった。その後、海が荒れるたびにその海中から鐘の音が聞こえた
という。
井戸の向こうに通路を隔てて東金堂と中金堂が見える。向こうの山が、寺の南面に新羅人が聖なる山とした南山がそびえていて、あたかも寺を守っているように見えるという南山です。
中金堂で説明を聞いている人たちが気になるなあ。東には山城のある明括山、その前に街路樹のある道路、そして広大な平地。この礎石の列はなんの建物? 自転車で一気に金堂のところまで来てしまったが、中金堂址から芬皇寺を振り返ると、ちらちら礎石が並んだ箇所があった。講堂址だった。歩いて来れば気がついたに違いない。
赤いパネルに幅49.2m奥行き15.9m、面積782㎡と書いてある。そして建物址と思ったのは、東回廊だったことに気がついた。中金堂址で礎石やら仏像の台座やらを混乱しながら写真やらビデオやらで撮っていると、向こうから一家がやってきた。
金堂が3つあるお寺といえば、日本では飛鳥寺がある。慶州の皇龍寺が一塔三金堂式と知って、慶州に来たら最初に見学するところと、思い入れのあったこの伽藍だったが、子供の遊び場である。特にいたむわけでもないので、変に囲ったりするよりもましかも。それに大きさの比較にもなるし。なんせ中金堂址でさえ広すぎて、全体を捉えるのは難しい。中央の盛り土のようなものが三尊像の台座である。幅51.75m、奥行き26.76m、面積1,384㎡という。
詳しくは皇龍寺の中金堂址には仏像の台座がごろごろに。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)