お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年6月9日火曜日

ローマ サンタンジェロ城1


サンタンジェロ橋から眺めるサンタンジェロ城。 
『ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する』は、ハドリアヌス帝が霊廟とローマの都市を繋げるために造らせた橋ポンス・エリウス Pons Aeliusを再建したものであるという。
橋には5対の天使像が。その1体の頭に留まるカモメは、これがベルニーニ作ではないことを知っているかのよう。
橋をくぐるカヌー

最後の天使たちとサンタンジェロ城。スペイン階段から歩き続けてやっと辿りついた。
同書は、この霊廟はハドリアヌス帝が建造を開始し、139年アントニウス・ピウス帝が完成した。その後、カラカラ帝までの歴代皇帝とその家族の霊廟として使われた。
この巨大な建造物は見てわかるように、アウグストゥス帝の霊廟からアイデアを取っている。もともとは高さ21m、直径64mの円形のドラムで、セメントで造られており、その上をトゥーフォ(凝灰岩)やペペリーノ(胡椒石)トラヴァーチン石で上張りがされていた。そして屋根の外側は大理石で装飾され、おそらく上に彫像を載せた付け柱により分割されていた。内部は埋葬室の上に複数階を持つ四角い塔のような建物が載っていた。それよりはみ出る形で、上に円柱で囲まれた円形の神殿が載っていた。頂上には太陽神ヘリオスのように四頭立て二輪馬車に乗ったハドリアヌス帝のブロンズ像が立っていた。
高さ15m、約90m四方の大きな下の四角い部分は、中央のドラムとテラスを持つ放射状の壁でつながっており、アントニウス・ピウス帝が付け加えたものである。271年、アントニウス・ピウス帝は霊廟を都市の城壁と結びついた重要な要塞に変えたという。
セメントというのは、もちろんローマンコンクリートのことである。
南東の塔 
同書は、15世紀半ば以後は、外壁の四隅に頑強な塔が加えられたという。

とりあえず中に入るが、切符売場はどこに?
反対方向に人がたくさん行くので、我々もついていった。

凝灰岩やトラヴァーチン、そしてレンガの風化が無残な壁面を見上げる。これがハドリアヌスたちローマ皇帝の墓廟だったとは。前日の朝散歩で見た修復中のアウグストゥス帝の霊廟もかなり荒廃していたらしいけれど。

後2世紀の大理石巨像の胸像が並んでいる間に入口があり、係員が立っているが、我々の前にはベルトがあって行くことができない。

いびつな壁体に変わり果てているけれど、これがハドリアヌス帝の廟だったもの。
なんという残り方😤一番下は凝灰岩の上張り。
そんな壁面を眺めながら歩いていると入口があった。でも、廟本体ではなく、矩形の外壁の方では🤔
17年現在は入場料は5€。
説明パネルは、建物の名称は590年に大天使ミカエルがここで大教皇グレゴリーの前に現れ、ペストが終わることを告げたことから付けられたという。
墓廟側ではなく城壁側に入って行く。

入場口は南(下)中央で、そこから時計回りに墓廟の傍を1/4周歩いて、現在地はオレンジ色の

階段を上がると少し膨らんだ部屋があり、 
その奥にはまた階段があった。
そして屋根はあるが、271年にアウレニアウス帝が築いた城壁の上に出てきた。ここが北西の監視塔のある角だった。

次の監視塔に向かって城壁の上を歩いていく。

廟の方もあまり見上げずに済むようになってきた。

上部はずっと後の時代のもの。
ずっと向こうに見えている白い建物の上に青銅の像があるみたい。
そして北東の聖ルカ監視塔にやってきたが、ここには見るものがあまりなかった。


次に監視台の残っている塔へ。それにしても建物がたくさんあるのは、兵士たちの宿舎?
要塞の下に墓廟とは、いや、歴代皇帝の墓廟の上に要塞を造るとは😒

ここだけ残っている監視塔。

胸壁から何が見えているのだろう。
それは渡ってきたサンタンジェロ橋だった。この先でテヴェレ川は大きく向きを変える。

なにやら通路が複雑になってきたぞ、と。
南東の監視塔付近。
やっと墓廟の中に入ることができそう。壁体から張り出して後世に建物が付属されている。

金属の橋(ということは、当時はなかった)を渡っていると、入場口から入ってすぐに見えた階段と胸像が右手にあった。ということは、いつの間にか廟の周囲を一周していたのだった。
橋の正面にある開口部に入ると、
楯やら槍などがあったけれど、ここで行き止まり。奥には暖炉。
左の後世に造られた開口部から入る。
平らだったところはほんの少しで、またしても階段、階段、また階段やん😵

骨壺の間
説明パネルは、今我々がいるのは、古代のハドリアヌスの墓廟の中心である。ハドリアヌスからカラカラ帝の時代の皇帝たちと家族が眠っている。当初の天井はストゥッコ(浮彫漆喰)で装飾され、壁面は大理石で覆われていた。特に、大理石が使われたことの証拠は、穴に残っていた鉄の留金であるという。
中心部には空間があって傾斜のある橋を渡る。
橋の左側には「ローマ時代の骨壺の間」と書かれた凝灰岩のブロックで封じ込められたアーチ形の壁龕が2つ。
説明パネルは、骨壺は壁面に穿たれた2つの大きな壁龕の中の横木に安置されているという。
確かに大理石の板を固定するための釘の穴がたくさん、しかも規則的に並んでいる。
左上にある窓から見えるのは?

両側の壁面は、レンガ積みを部分的に剥がしてあったり、いろいろと色の違うところが。
途中にあったのは、ローマ時代の螺旋傾斜路
表面のレンガ積みの内側かな。
そして突き当たりで左の階段へ。
頑丈な鉄格子。縦の等間隔の鉄棒の等間隔の穴に横の鉄棒を通してある。ローマではよく見かける。
方向が変わる踊り場の壁龕にはアンフォラが飾ってある。


外に出たら、天使の中庭と呼ばれているところだった。
ここが3階。
さっき中から見えたのがこの像。1544年にラファエッロ・ダ・モンテルーポが制作した大天使ミカエル像。
側面から。
翼は青銅と鉄の芯に石膏か漆喰で仕上げていたのが剥落してしまったのだろうか。
進行方向はまた階段。
擬宝珠は球形で、蜂が3匹とまっている。バルベリーニ家の紋章という。
あの建物上にあるのも大天使ミカエル像?
いつの時代のものか分からないが、窓ガラスが面白い

八角形と小さな正方形のガラスの組み合わせ。色もさまざま、鉛で留めてあるのかな。
高いところにあるのはロンデル窓風。いつも不思議に思うのは、円形と円形の間の隙間はどうしていたかということ。ここでは凹菱形に切ったガラスを嵌め込んであるのだけれど。


階段を上がって右へ。4階まできた。あちこちに景色が見えるように切込がある。
説明パネルは、ジレット・スコペルト(Giretto Scoperto)またはアレクサンデル7世(AlexanderⅦ)の散歩道と呼ばれている。17世紀半ばにローマ教皇アレクサンデル7世によって造られた円弧状の通路であるという。
その先はカフェがあった。
またテヴェレ川、
そしてヴァチカン市国のサンピエトロ・バシリカ聖堂
500mほどしか離れていない。
ヴァチカンから続くパッセット・ディ・ボルゴ Passetto di Borgoという水道橋のような教皇の避難路も見え、北西の監視塔には投石機、そして石の玉などが置かれている。
いつ頃のものだろう。

右手の階段は通行止めだが、先ほどの中庭に戻れる。
現在地Aは、
下から見えていたアーケードだった。1543年に完成したグラン・ロッジア(大開廊)。
天井の装飾は、ローマ時代の細かい装飾的なフレスコ画と浮彫漆喰(ストゥッコ)が、ドムス・アウレア(ネロの黄金宮殿)に忍び込んだルネサンス時代の画家たちがスケッチして世に知られるところとなり、それを真似た壁面装飾が流行した、そんな流れを汲むものだということが、ハドリアヌスの墓廟が見たいと思って訪れた、サンタンジェロ城で見られるとは。

通り過ぎると更に階段。

建物に入って最初の部屋は古代ローマ風のフレスコ画が描かれていた。
その上は天井まで別のモザイク画が続いているが、大分傷んでいる。
ローマ時代のヴォールト天井と違って、浅く造られているみたい。

次は図書室、16世紀
天井は両側と前後から持送って頂点は細長い長方形となっている。フレスコ画だけでなく、浮彫漆喰も。
ドムス・アウレアの壁面装飾についてはこちら


狭い階段の両壁には、やはりローマ時代風の壁画が描かれていた。ドムス・アウレア(ネロの黄金宮殿)の120廊のフレスコ画の色調に似ているかな。


5階
カリオストラの間、16世紀中葉
この部屋は木造の平天井になっていた。
この窓は中庭から見えていたものかな。
ロンデルが壊れているものも。ロンデルの間だけでなく、平板ガラスが窓全体を覆っている。

宝物室
これがどういうものか、説明パネルを写すのを忘れた。
また狭い階段、しかもカーブしている。
古い窓ガラスの外側には穴のあいた縦の棒に横棒を通した鉄格子



ここから頂上に出て、やっと半分。
下りは下りで見どころがありました。特に最後の方では、思わぬところを歩くことになりました。


関連項目

参考文献
「ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」 2001年 Electa