お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年1月19日火曜日

大和西大寺


西大寺は現存最古の十二天図を所蔵する寺として知ってはいたが、東博・京博・奈博に分散して収蔵されているため、博物館でたまに見かけた事がある程度だ。それはそれは消え入りそうに朧気な仏画だったが、なんとも言えない雰囲気が漂っていた。
東寺旧蔵十二天図(平安時代後期、12世紀前半)の彩色や截金がみごとな十二天図とはまた違った味わいがある😊

十二天像うち 毘沙門天図 平安時代前期、9世紀
正面を向き、鎧を着けて座している。
西大寺十二天像うち 毘沙門天図 太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良より

十二天像うち 日天図 平安時代前期、9世紀
三頭の馬に乗り、正面ではなく斜め前方を向いている。
西大寺蔵十二天像うち 日天図 太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良より

古い建物はあまり残っていないが、一度は行こうと思ってなかなか実現しなかった大和西大寺。きのわさんでの田上惠美子蜻蛉玉展に引っかけて、やっと叶いました😄

『西大寺の創建』というリーフレットは、西大寺は天平神護元年(765)に称徳(孝謙)女帝の勅願により創建された。女帝の父は聖武天皇、母は光明皇后で、父が平城京の東郊に大仏を核とする東大寺を創建したのに対し、娘は宮西の地に西の大寺を開創した。当寺に伝わる宝亀11年(780)の「西大寺資財流記帳」(創建当初の財産目録。室町時代ごろの写本)冒頭に次の記述がある。
夫れ西大寺は、平城京に御宇したまう宝字称徳孝謙皇帝、去る天平宝子8年9月11日、7尺金銅四王像を敬造し、兼ねて彼の寺を建てんことを請願す。乃ち、天平神護元年を以て件の像を鋳し創め、以て伽藍を開くなり。
『続日本紀』によれば、宝字8年(764)9月11日は奈良朝後期の政界を揺るがした藤原仲麻呂の反乱が発覚した日であり、孝謙上皇はまさしくその日に反乱鎮圧を祈願して西大寺の礎となる四天王像鋳造の誓願を立てた。その翌年に称德天皇として重祚して以後、鎮護国家の功徳を持つ仏として、当寺盛んに信仰されていた四天王像を核とする伽藍を本格的に開創した。西大寺はそうした時代の信仰を背景とする護国祈願の寺として出発したのであるという。

『古代寺院』は、『西大寺資財流記帳』によって伽藍の概要がわかる。これによると、金堂院・四王院・東西塔・食堂院・十一面院・正倉院などが建ち並ぶ壮麗な伽藍で、それ以前の寺院とは異なる煌びやかなものであった。
特に金堂院には弥勒金堂と薬師金堂という2つの金堂があり、その屋根上には龍舌、大棟中央には火炎を象った宝珠などの装飾が施され、既存の寺院建築の意匠とは異なる荘厳に満ちたものであったという。
創建の頃は、広大な敷地に建物もたくさん建てられた様子が伽藍図で窺えるが、現在の本堂は、中門よりも南に建っている程度である。
西大寺復元伽藍配置図 『シリーズ古代史をひらく 古代寺院』より

そして四天王像の邪鬼。
西大寺のリーフレットは、創建当初の華麗な姿は、現在ほとんど残っていない。わずかに四天王の足下の邪鬼が天平の片鱗を今に伝えるのみであるという。

増長天像の邪鬼 奈良時代、天平宝字8年-天平神護元年(764-765) 金銅 西大寺四天堂蔵
『日本の美術15天平彫刻』は、西大寺は不幸な寺である。この四天王像すら満足に残ってはいない。現在四天堂安置の四天王像は、貞観2年(860)、文亀2年(1502)の二度の火災で銅肌のひどく荒れた邪鬼に、天平末年の造形表現を手さぐりするしかない。踏みしかれた邪鬼の苦悶がみせる苦渋面(グリマス)が、思わずユーモラスな表情となり見る者の微笑をさそうが、筋肉の起伏構成に天平後期仏師の造形感覚を追感しうるにすぎないという。
西大寺 増長天像の邪鬼 奈良時代 『太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良』より 

多聞天像の邪鬼 西大寺四王堂蔵 重文
『日本の美術456天平の彫刻』は、鋳造にはかなり苦心したとも伝えられる。この四天王像の造立は、物部守屋追討を願って発願された聖徳太子による四天王寺金堂本尊の故事にならうものであり、天皇の太子信仰を知る上で貴重な遺品といえる。またその邪鬼の諧謔的な風貌に『別尊雑記』所載の図像で知られる四天王像の投影をみることも可能であるという。
西大寺 多聞天像の邪鬼 奈良時代 『日本の美術456 天平の彫刻』より

『西大寺の創建』は、平安遷都後、朝廷の庇護から遠のき、天災による堂舎倒壊も相次ぎ、寺勢は急速に衰退した。復興は鎌倉時代を待たねばならなかったという。

伽藍の東にある駐車場(有料)に車を置いて近づいていくと、天平期の東塔基壇の石垣が見えてきた。見たかったものの一つである。
東塔基壇の南の参道の先にあるのが南門。
南西には鐘楼

基壇は柵に囲まれており、柱礎が見えないなあと、基壇の周囲を回っていたが、次第に、こんなに高い基壇を持つ塔などあったかなと思うようになった。しかも、不揃いな石を積み上げて、まるで中世の城の石垣のよう😊
思い起こすと、奈良の地には古墳が点在している。古墳にもよるが、葺石で表面を覆われたものもあるので、石垣を積み上げる技術者がまだ残っていたのかも。

『古代寺院』は、その特異さは塔の形状にも及んでおり、『日本霊異記』によると、当初は八角七重塔が計画されていた。日本の塔婆、特に奈良時代の塔婆は三重、五重、七重、九重、いずれであれ、通常、平面は正方形であるが、八角形の平面の塔を建立しようとしたのである。実際には左大臣藤原永手によって四角五重塔に縮小されてしまったが、永手はこの罪により地獄に落ちたという。まさに古今未曽有の伽藍が造り上げられようとしていたのであるという。

石垣が気になったので、周囲を写して回った。

南西角
崩れやすい角には大きな石を使っていたり、

西面北側
最下段には大きな石を並べていたり、
北東角
日陰で見えにくい🤔
北面東側 場所によっては大きな石が多かったりする
東面北側
思ったよりも表面が平らな石が多い。

東面北側

斜めに積まれた板状の石も

東面南側
大きさの違う箇所もあるが、この辺は整然とつまれている
しかし、その続きはばらばらで、野面積みみたい

その基壇の上面
説明板は、天平神護元年(765)東西に八角七重の大塔の建立を企図し八角の基壇が造られたがこれを四角の基壇に改められ、高さ15丈(約46m)の五重塔が東西に建立された。
然し西塔は平安時代に雷火に焼失し、東塔も室町時代・文亀2年(1502)惜しくも兵火により焼失した。
現在の東塔跡の基壇は創建当初のものであり、その周囲の八角の敷石は最初に造られた八角基壇跡であるという。
絵葉書では、中央の大きな心礎、その周囲の四天柱の柱礎、更に外側の柱列の礎石などが見えるのだが、八角の敷石は写っていない😆
本堂の縁側より
その八角の基壇跡を見たくても、桜の木が遮っていた😥

現本堂
『太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良』は、一時は荒れていたが、鎌倉時代後半になり、南都律宗復興の推進者として名高い叡尊忍性により再興され寺観も整備された。現存する彫刻、工芸品はほとんどがこの頃に作られた遺品であるという。
それらの仏像の中で見たかったのが、渡海文殊群像だった。それは2019年初夏だが真夏並みに暑い日、安倍文殊院で文殊菩薩及び侍者像(最勝老人以外は13世紀初頭の快慶作)をガラスを通さないで参拝した。それを記事にした時に、西大寺の渡海文殊群像の図版が細かい点がほぼ分からないようなものだったからだ。

渡海文殊群像 鎌倉時代、正安4年(1302)
『仏像図典』は、文殊菩薩が戒律の師範たることは文殊師利問経などに説く所であるが、鎌倉時代に西大寺中興の叡尊、弟子忍性らは盛んに文殊菩薩の信仰を鼓吹し、律学を再興すると共に、貧者の為に宿を設け、ここに文殊菩薩の画像や彫像を安置する等のことがあったという。
実際に目にすると、思ったよりも小さく感じた。
安倍文殊院蔵渡海文殊群像(建仁3年 1203)より100年ほど後の制作となる。
しかし、善財童子は安倍文殊院本よりもあどけない童子に仕上がっている。
東塔基壇の石垣と渡海文殊群像のうちの善財童子像だけでも行った甲斐がありました🤗

           暗峠は信貴生駒スカイラインから

関連項目
文殊菩薩と善財童子

参考文献
西大寺発行の絵葉書・リーフレット
「太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良」 1978年 平凡社
「日本の美術456 天平の彫刻 日本彫刻の古典」 浅井和春 2004年 至文堂
「シリーズ古代史をひらく 古代寺院 新たに見えてきた生活と文化」 吉村武彦・吉川真司・川尻秋生 2019年 岩波書店