お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2008年4月18日金曜日
北村美術館で庭園見学
北村美術館は京都の河原町今出川下がる、1筋目東に入り、ちょっと下がった東側にある。裏は鴨川に面している。
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庭園が期間限定で見学できるということを聞いて、久しぶりに行ってみた。煉瓦造りの美術館の南側に四君子苑という名の庭園がある。 美術館の2階にあるホールから見えるこの建物の奥に庭園はある。美術館自体が北村氏所蔵の茶道具を展観するために造られたので、こちらには茶室と庭園があっても不思議ではないのだが、間の抜けたことに、今まで私は別の家だと思っていた。 玄関を入って順路に従うと、洋間の向こうに庭があった。ここに至るまでにも石塔や石灯籠など目を見張る物がたくさんあったが、この庭にも、幾つもが木々に見え隠れしていた。受付でもらった四君子苑の冊子には39個の数字があって、それぞれの石造美術品の時代や伝来が記されていた。
美術館の方に左の桜は平安神宮の桜とおなじもの、右の枝垂れ桜は円山公園のそれと同じものだと教えてもらった。そのずっと向こうに大文字山も見えた。枝垂れ桜の奥には茶室がある。左前に三尊坐像の浮彫があった。小さいながら高浮彫で力強いが、顔ははっきりわからない。この石仏は番号がなかったので、時代も由来もわからない。
奈良の頭塔にある浮彫三尊像群は浅浮彫で、はっきりと仏菩薩の着衣が表されているが、こんなに高浮彫なのに着衣がよくわからない。洋間の隣にある和室の廊下から、茶室へつづく片流れ屋根の軽快な土間の渡り廊下の壁が見える。そしてその前に大きな石仏を見つけた。 こちらも番外だが、どうも上半身だけのようだ。しっかりした顔立ちで、臼杵石仏を思わせるが、上半身は臼杵石仏に比べてずっと彫りが浅いが、着衣は表されている。
国東半島の熊野磨崖仏の大日如来は顔立ちはもっとしっかりと残っているが、上半身は風化が激しくよくよからない。うーん、いつ頃のものなのだろう。 そして順路は廊下を玄関側へと向かう。こちらには広間の茶室がある。つくばいに青竹から水が落ちる音がして目を下に移すと、伽藍石のようだった。 自然の石の上面を四角に削り、その上を円形にして蓮弁が表されている。山田寺のような装飾的な蓮弁やなあと思って冊子を見ると、山田寺の四天柱礎石水鉢、明治41年発掘、飛鳥時代、花崗岩製ということで、そのものだった。 渡り廊下から広間の茶室の向こうの六畳の間へ。これが一番奥の部屋になる。垣根の向こうは鴨川で、大文字山の先が見えている。
ここまで来ると石造物もなく、静かな庭やなあと思った。 しかし、右(南)に視線を移すと、奥に燈籠があった。39番の八角形石燈籠、重文だった。鎌倉中期、花崗岩製、西陣報恩寺伝来という。 そして、うっかり見落としてしまいそうなのが、この一見ただの石だ。石仏に番号がないのに、この石は38番だった。
冊子を見て驚いた。元中宮寺の礎石なんだそうだ。
中宮寺の如意輪観音や天寿国曼荼羅で有名な古刹で、昔の位置は、法隆寺の5、6町ばかり東にあったとのことです。俗称「御旧殿」と呼ばれる土地であり、金堂址にあたる地点から3箇の礎石が発掘され、その中の1つで、明治15年発掘という。
さっきの山田寺の礎石が円柱を載せる丸い部分だけだったが、これは丸い部分に地覆石へと繋がる凸線が表されている形の礎石です。石造美術好きの私には垂涎のところだが、庭の遠くに見え隠れしているものを見るというのは困難なことだった。庭ではなく、展示として石造美術だけを見られるようにしてあったらなあ!
※参考サイト
臼杵市観光情報協会の国宝 臼杵磨崖仏
豊後高田市観光協会の熊野磨崖仏