説明パネルは、大宰相シヤヴシュパシャ(カンジザ出身)はエンデルン宮殿学校で教育を受け、ムラト三世の時代に5年4か月の間に3回大宰相としての公務を務めた。彼はセリム二世とヌルバヌの娘ファトマと結婚していた。彼はファトマと共にモスク、マドラサ、ハマム、二人の名にちなんだ噴水、イスタンブール(エディルネカプとエユップ)や地方で慈善活動を行った。パシャは 1602 年に亡くなりここに埋葬された。
墓廟は建築家シナンが設計し、1582-84年の間に建設されたと考えられている。
通りに面した窓のタンパンにシヤヴュシュパシャの死に関する碑文があるという。
説明パネルの平面図 1582-84年
外側は貼り石で覆われた十六角形、内側は八角形でドームが架かっている。入口はドームのある柱廊玄関となっているという。
扉にはイスラームの幾何学文様が彫られている。下の方にあるのは十点星。
ペンデンティブには青地に白でカリグラフィー、タイルメダイヨンの背景にネイビーブルーを配し、手描きのルーミ文様で囲まれているという。
内側は8本の付け柱と八つのペンデンティブがドームを支えている。その1本では修復をしている女性がいる。
中央の大きな柩はシアヴュシュパシャの者だが、他に沢山の柩が安置されている。説明パネルは、11個の棺があり、そのうち2個は硬木の棺、9個は大理石の石棺である。大きな硬木の棺はシヤヴシュパシャのもの。妻ファトマスルタンとその息子たち。シナンベイ、アフメドベイ、アブドゥルカディルベイ、スレイマンベイ、イブラヒムベイ、そしてパシャの他の息子と娘がこの墓廟に埋葬されているという。
その上の吊りランプのタイルパネル
前回イスタンブールを訪れた時にイスタンブール考古学博物館のチニリ・キョスクで陶器のモスクランプを見た。陶器にオイルを入れて灯しても、礼拝室内は明るく照らされるのかなと疑問に思ったが、このパネルを見て、オイルを入れて灯すためではなく、礼拝室や墓廟の入口に吊り下げるものだということが分かった。しかも蓋が付いている。
エユップ シアヴュシュパシャ廟入口脇のタイルパネル THE ARCHITECT AND HIS WORK SINAN より |
別のパネルの部分
帯文様は蔓草だが、主面では植物文様とは思えない、妙な文様が描かれて、その上、これまで見たことのない黒い釉薬が使われているのには驚いた。
そして前方は開けていたので、とりあえずそこまで行ってみると、
最初に見学したエユップスルタンジャーミイの中庭に繋がっていのだった。
ミマールスィナンの建築巡り ソコルルメフメトパシャジャーミイ←
その後東へ向かい、交差点のところで地図パネルを見た。やはりミマールスィナンが設計したペルテヴメフメトパシャ廟 Pertev Mehmed Paşa Türbesi に行くつもりだったが、手持ちの地図とは違っていて、それは細い小路の㊹のようだった。
取りあえず、このおじさんに(私より若いと思うが😅)メフメドペルテヴパシャ廟がどこか聞いたところ、「聞いてくるから待っていて」と言って、中庭の方へ走っていった。
戻ってみると、どうやらこの区画がメフメドペルテヴパシャ廟らしい。ミマールスィナンが造った木造の屋根のある墓廟と何かで読んだのだが、屋根の気配がない。
確かにメフメドペルテヴパシャ宰相というパネルがあったが、入口は鍵が掛かっている。
それで鉄格子の隙間から写した。
屋根は修復つもりなのか、このままにしておくつもりなのか。
隙間を変えて北側の壁面を見ると、尖頭アーチや長方形の壁龕があるのだった。
ミマールスィナンの建築巡り ソコルルメフメトパシャジャーミイ←
参考にしたもの
廟前の説明パネル