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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年4月23日火曜日

ミマールスィナンの建築巡り エユップ シアヴュシュパシャ廟とペルテヴパシャ廟


シアヴュシュパシャ Siyavuş Paşa 廟はメフメトパシャ廟の北側にある。 

説明パネルは、大宰相シヤヴシュパシャ(カンジザ出身)はエンデルン宮殿学校で教育を受け、ムラト三世の時代に5年4か月の間に3回大宰相としての公務を務めた。彼はセリム二世とヌルバヌの娘ファトマと結婚していた。彼はファトマと共にモスク、マドラサ、ハマム、二人の名にちなんだ噴水、イスタンブール(エディルネカプとエユップ)や地方で慈善活動を行った。パシャは 1602 年に亡くなりここに埋葬された。
墓廟は建築家シナンが設計し、1582-84年の間に建設されたと考えられている。
通りに面した窓のタンパンにシヤヴュシュパシャの死に関する碑文があるという。

説明パネルの平面図 1582-84年
外側は貼り石で覆われた十六角形、内側は八角形でドームが架かっている。入口はドームのある柱廊玄関となっているという。

こちらは扉が開いていた。


扉にはイスラームの幾何学文様が彫られている。下の方にあるのは十点星。


ペンデンティブには青地に白でカリグラフィー、タイルメダイヨンの背景にネイビーブルーを配し、手描きのルーミ文様で囲まれているという。
内側は8本の付け柱と八つのペンデンティブがドームを支えている。その1本では修復をしている女性がいる。
中央の大きな柩はシアヴュシュパシャの者だが、他に沢山の柩が安置されている。


ターバンのない緑の布が掛かった柩も幾つかあるのは、パシャの妻や娘たちだろうか。

ターバン飾りのある小さな柩、と思っていたものには砂がたくさん入れてある。
説明パネルは、11個の棺があり、そのうち2個は硬木の棺、9個は大理石の石棺である。大きな硬木の棺はシヤヴシュパシャのもの。妻ファトマスルタンとその息子たち。シナンベイ、アフメドベイ、アブドゥルカディルベイ、スレイマンベイ、イブラヒムベイ、そしてパシャの他の息子と娘がこの墓廟に埋葬されているという。
もう一つの木棺は誰を葬っているのだろう。


ドーム天井の中心からは32本の線が放射状に出て、中心部分と共に細かい植物文様やカリグラフィーが描かれている。


尖頭アーチの下には周囲だけに色ガラスが並んだ窓、その下にはタイルによるカリグラフィーの帯が巡っていて、コーランの言葉などが書かれているのだろう。



タイル装飾は控えめ。



入口脇ではタイルパネルに白い紙を貼って、文様を模写しているらしい。

反対側のタイルパネル

最盛期のイズニクタイルなので、トマトの赤と呼ばれる鮮やかな赤い釉薬が盛り上がっている。

その上の吊りランプのタイルパネル
前回イスタンブールを訪れた時にイスタンブール考古学博物館のチニリ・キョスクで陶器のモスクランプを見た。陶器にオイルを入れて灯しても、礼拝室内は明るく照らされるのかなと疑問に思ったが、このパネルを見て、オイルを入れて灯すためではなく、礼拝室や墓廟の入口に吊り下げるものだということが分かった。しかも蓋が付いている。
エユップ シアヴュシュパシャ廟入口脇のタイルパネル THE ARCHITECT AND HIS WORK SINAN より


別のパネルの部分
帯文様は蔓草だが、主面では植物文様とは思えない、妙な文様が描かれて、その上、これまで見たことのない黒い釉薬が使われているのには驚いた。


その後東へ向かい、交差点のところで地図パネルを見た。やはりミマールスィナンが設計したペルテヴメフメトパシャ廟 Pertev Mehmed Paşa Türbesi に行くつもりだったが、手持ちの地図とは違っていて、それは細い小路の㊹のようだった。

誰も通らない小路には鉄格子がずらずらと並んでいた。かなり進んで振り返った。

そして前方は開けていたので、とりあえずそこまで行ってみると、

最初に見学したエユップスルタンジャーミイの中庭に繋がっていのだった。
取りあえず、このおじさんに(私より若いと思うが😅)メフメドペルテヴパシャ廟がどこか聞いたところ、「聞いてくるから待っていて」と言って、中庭の方へ走っていった。

わざわざ聞いてきてくれたおっちゃんは、この小路を少し行って左側にあると教えてくれた。
戻ってみると、どうやらこの区画がメフメドペルテヴパシャ廟らしい。ミマールスィナンが造った木造の屋根のある墓廟と何かで読んだのだが、屋根の気配がない。

確かにメフメドペルテヴパシャ宰相というパネルがあったが、入口は鍵が掛かっている。
1574年というと、ミマールスィナンはすでに多くのモスクや墓廟を石造で手がけているのに、何故ここの屋根だけ木造の屋根なのだろう。それを確かめたくて来たのに、その屋根がなくなっているとはね。

それで鉄格子の隙間から写した。
屋根は修復つもりなのか、このままにしておくつもりなのか。
右手には、シアヴュシュパシャ廟の子供の墓のような石棺が置かれていたが、大きさとしては大人のものだろう。砂の上に草が生えている。

次に左手、左の同じような石棺があり、間には小さな石の台のようなものがあった。石棺がなくなり、地下の墓を示す石が置かれているという感じ。

隙間を変えて北側の壁面を見ると、尖頭アーチや長方形の壁龕があるのだった。



ミマールスィナンの建築巡り ソコルルメフメトパシャジャーミイ
参考にしたもの
廟前の説明パネル