お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年2月13日火曜日

トプカプ宮殿 第四の中庭まで


『トルコ・イスラム建築』は、オスマン朝の宮殿建築としては、ブルサの建物はティムールの軍勢に焼かれ、エディルネの建物は 1877年の露土戦争で灰燼に帰し、どちらも一棟も現存していない。
メフメット2世がイスタンブルに最初に建設し、1455年から居住した宮殿は、現在のイスタンブル大学の本部キャンパスとスレイマニエ・キュッリエシを含む広い敷地に建てられていた。その宮殿はトプカプ・サライが建設されてからは、エスキ・サライ (古宮殿)の名で19世紀初めまで使用されていたが、すべて取り壊され現存しない。

このエスキ・サライは短期間に建てられので、国政の中心施設としては不十分だったという。それで1459年にイェニ・サライ (新宮殿)の建設が着手され、1465年には居住が始まった。これが19世紀後半以降はトプカプ宮殿と呼ばれている宮殿である。

北に金角湾、南にマルマラ海を望み、ボスポラス海峡の入口に突き出た部分を建設地とした。海岸沿いのビザンツ帝国時代の城壁をそのまま使用し、陸側に新たな城壁を建設して、アヤ・ソフィアより東北側の全ての地区約70万㎡を囲い込んで敷地とした。

城壁内に入る正門はアヤ・ソフィアの東側にある「皇帝の門」で1478年に城壁とともに完成した。この門を入ると第一庭園で、一般人も立ち入りできた木々の緑濃い広い空間で、現在は公園になっているという。

マルマラ海から見たトプカプ宮殿
中央のドームが二つあるのが、ビザンティン帝国を滅亡に追い込み、アヤソフィアをモスクに変えたメフメット二世が建てた⑭建造物。その下、海岸沿いに残っているのが、ビザンティン帝国時代の城壁跡で、オスマン帝国もこれを補強して使ったという。
マルマラ海から眺めたトプカプ宮殿 トルコ・イスラム建築より


同書は、この中央部分約1割程の区域を再び薄い城壁で囲み内城とした。本来の宮殿域である。宮殿域内の諸々の建物の名称は、エディルネの宮殿でも同様で、その配置はオスマン・トルコ族の伝統的な野営天幕の配置に従っているという。西欧の宮殿のような、様々な機能の施設を包括し一体化した巨大な建物ではなく、個々の天幕が離れているように、機能別の建物が分散して建てられているのが著しい特徴である。また、巨大な室内空間を求めていないので建築構造上の難しさはないが、建物のプランと建築装飾ではオスマン建築の代表となる重要な建物が多いという。

トプカプ宮殿平面図
① 中門(儀礼の門) ② 第二の中庭 ③ 厨房 ④ スルタンの馬屋 ⑤ ハーレム入口 ⑥ 御前会議の間 ⑦ 元宝物庫 ⑧ 幸福の門 (白人宦官の門) ⑨ 謁見室 ⑩ アフメット三世の図書館 ⑪ ハーレム出口 ⑫ アーラル・ジャーミイ(Ağalar Camii) ⑬ 元小姓の学校 ⑭ メフメット二世の建造物 ⑮ 第三の中庭 ⑯ 聖遺物室 ⑰ レワン・キョシュキュ(現アルメニアの首都エレヴァン) ⑱ バーダット・キョシュキュ(バグダ-ド) ⑲ イフタリエ(小さい東屋) ⑳ ソファ・キョシュキュ ㉑ 第四の中庭 ㉒ メジディエ・キョシュキュ ㉓ ハーレム
トプカプ宮殿平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


②第二の中庭から⑤ハーレム入口へ向かい、ハーレム内を見学し、⑪ハーレム出口から⑮第三の中庭に出た。まず見えたのは⑫アーラルジャーミイ(Ağalar Camii)
『望遠郷』は、宮廷学校用のモスク、アーラル・ジャミイである。このモスクには宮廷学校の生徒や教師、白人宦官たちが通っていたという。
アルマシュクという技法でレンガと石材を交互に積み上げている。ビザンティン建築にも見られる。キブラ(メッカの方向)を向けるため、平面図では斜めに配置されたように見える。 

右前方に⑨謁見室と⑩アフメット三世の図書館が並んでいる。

謁見室は三方が柱廊に囲まれた建物
⑨謁見室(アルズ・オダス)について『望遠郷』は、幸福の門の近くにある謁見の館は、大理石の柱廊のある差掛屋根の瀟洒な建物である。メフメット二世の時代につくられたものであるが、現在残っている建物の大部分は、セリム一世時代のものである。アフメット三世、マフムト二世により、修復が幾度も行われた。火災により建物の大部分が焼失したため、1856年にも修復が行われた。玉座の天蓋(1596年 作)と金箔のブロンズ製の暖炉だけが焼失を免れた。建物の右手には控えの間、左手には謁見の間があり、ここでスルタンは訪問者と会見したり、ディワンでの議会のあと出席者たちと懇談したという。

モスクの向こうは柱廊で囲まれている。

案内



⑩ アフメット三世の図書館
『イスタンブール歴史散歩』は、謁見室の後ろにある白大理石の美しい建物はアフメット三世(1703-30)の図書館である。建設は1719年。内部は公開されていないが、壁はイズニック・タイル、扉は象牙や真珠の象眼細工で飾られているという。

⑩アフメット三世の図書館を通り過ぎたところで右折。ドームが二つ並んだ建物が見えている。これは⑭メフメット二世の建造物。征服王メフメット二世が建立したものが残っている。



⑭メフメット二世の建造物内には宝飾品が展示されていた。
興味がないので撮影しなかったが、エメラルドの短剣を素晴らしいアングルで写した方がいた。そういう写真を撮っても良かったんだ。

円柱は大理石でも、その文様はさまざま

左側の都費から入り、右側の扉口から出る。


続きの柱廊のある建物は⑬元小姓の学校
『望遠郷』は、小姓たちの多くはデウシルメにより徴集された少年であった。もとはキリスト教徒の子弟であった彼らは、イスラム教への改宗のあと、多くはイェニチェリ要員に回されたが、優秀で容姿端麗な者は宮殿に採用され、将来のオスマン帝国の高官となるべく、ここで教育を受けた。その年齢は12歳から18歳であったという。

第三の中庭で一番気に入ったのはこの木。


⑮第三の中庭北端の柱廊通路は丸石のモザイク
左のドームは⑯聖遺物室

右の柱廊の奥にあるのが⑭メフメット二世の建造物


狭い通路から第四の庭へ。



㉑第四の中庭
やっと開けた庭園に来た。

階段の正面には⑳ソファ・キョシュキュ
『望遠郷』は、ソファー・キョシュキュは庭園の中央に位置し、メインのテラスに面した瀟洒な館である。18世紀初頭にアフメット三世のために建てられたもので、庭園で開催されたチューリップ祭りの際には、スルタンはこの館で観覧してたと思われる。1752年、マフムト一世によりロココ調に改造されたという。


㉒メジディエ・キョシュキュ 
『望遠郷』は、第四庭園の奥の右手の、大理石のテラスの上に建つヨーロッパ風の館が、メジディエ・キョシュキュである。この建物は1840年、アブデュル・メジト一世の時代に建てられた。この建物は宮殿の北東にあり、窓からはボスポラス海峡の美しい眺めが楽しめるという。

館内の一室

このシャンデリアには無数の木の葉が下がっていて、その上には花を表しているのだろうか、カップ状の火舎が珍しいかった。



次は㉑第四の中庭で見たかったものの一つ、⑱バーダット・キョシュキュへ向かっていると、奥の方に⑱バーダット・キョシュキュを見つけた。

⑱バーダット・キョシュキュは、イズニークタイルの最盛期からはずっと時代の下がるものだが、青いタイルと、周囲を柱廊のめぐる建物で、⑮第三の中庭にはなかったものだ。

㉑第四の中庭は二段になっているので、この高さからでは入ることが出来ないことが分かった。
それで、下りてきた階段とは別の階段(二つ上の写真でおっちゃんがカメラを構えているところ)を上り、

更に⑰リワン・キョシュキュの下の階段へ向かい、


そして通路を通らないと辿り着けないのだった。


見る方角が変わると建物の形も変わる。
『望遠郷』は、屋根は庇が広く張出したもので、いくつもの大理石の柱が十字型のアーケードを形成している。壁面は内部、外部ともに青と白のタイルで覆われているという。


レワン・キョシュキュとバーダット・キョシュキュはどちらも変わった形をしている。

⑰ レワン・キョシュキュ Revan Köşkü
『トルコ・イスラム建築紀行』は、1635年の戦役でレワン(現アルメニア共和国の首都エレバン)を獲得した記念として建てた瀟洒な 小亭。外壁や内壁を飾った大理石や装飾タイルが美しい。壁は組積造だが、天井・ドームは木造という。
建設年:1636年 建設者: ムラト四世 建築家:ミマール・カスム・アー

⑱ バーダット・キョシュキュ Bağdat Köşkü
同書は、1638年の戦役でバグダットを獲得した記念として建てた瀟洒な小亭。レワン・キョシュキュに酷似しているが、少し大きい。外壁や内壁を飾った大理石や装飾タイルが美しい。壁は組積造だが、天井ドームは木造という。
建設年:1639年 建設者: ムラト四世 建築家:ミマール・カスム・アー

レワン・キョシュキュとバーダット・キョシュキュの平面図
① レワン・キョシュキュ入口 ② ソファー ③ バーダット・キョシュキュ入口 ④ ソファー ⑤ テラス
レワン・キョシュキュとバーダット・キョシュキュの平面図 トルコ・イスラム建築紀行より


水槽のそばを通る。前方の建物には窓が開いたドームがある。平面図では⑯聖遺物室になっていて、四つのドームがあることになっている。その一つなのだろうか。

⑯ 聖遺物室
『図説イスタンブル歴史散歩』は、マムルーク朝を征服したセリム一世が、聖都メッカの太守から贈られたといわれ、預言者ムハンマドが着用したと伝えられる外套は、櫃に入れて宮廷の内廷の奥深くスルタン私室の隣室に秘蔵されていた。17世紀のあるスルタンは、イェニチェリが反乱をおこしたとき、この聖遺物の威力に頼ろうと聖外套をまとって反乱軍にたちむかったが、御利益は現れず、あえなくイェニチェリたちに捕えられてしまったという。


バーダット・キョシュキュ正面

柱廊の柱頭
『望遠郷』は、柱頭はハスの花の模様で、アーチの迫り石は、白大理石と色大理石を交互に組み合わせてつくられているという。

蓮華の柱頭?そう言われてみると、アカンサスでもなければムカルナスでもないと感じていたが、蓮華とは思わなかった。
それに白大理石と色大理石を交互に組み合わせてはいるが、ミマールスィナンの頃は凹凸の波のような曲線に石を細工していたが、このアーチは白大理石と色大理石の切石を組み合わせているものの、穴を穿って石を充填している。

③ 入口
凹面にある扉口の枠は白大理石と色大理石を波のような曲線に切って積まれてるので、ミマールスィナンの頃のような技術が絶えたのではなく、柱廊のアーケードの方は簡略化して造ったようだ。


中に入るとまず上を見上げた。ドームは低いので全体は入らない。見上げると平たい感じがしたが、木造とは思わなかった。
サマルカンドのレギスタン広場にあるティリャカリ・メドレセ(1647年)のモスク二重殻ドームの内側ドームが扁平だった。

八角形の平面からペンデンティブでドームを導いているように見える。

奥まったところには窓際にソファ。
『図説イスタンブル歴史散歩』は、いわばリヴァン・キョシュキュのレプリカだが、みごとなタイルや象眼の扉が目を楽しませてくれるという。

テュルク系の人々は遊牧民なので、混血しながらアナトリアにやってきても、椅子に腰掛けず、低いところに座り込む習慣はずっと続いたんだなあとつくづく思う。

この扉が螺鈿だけなのか、鼈甲も使ってあるのかは分からなかったが、

この棚を見ると鼈甲を使っている。棚の中は凹凸のある植物文様で埋められているが、それがどういう細工なのか不明。

ここにも玉座が置かれていたが、皇帝はこんなのに坐るよりもソファの方がくつろげたのでは?
右端の出っ張りは暖炉。暖炉のために塞がっている⑤の部屋は何だろうか、気になるが、ただの物置だったりして。


外に出ると、⑲イフタリエ Iftariye というあずまやの近くに人が集まっていた。

⑲ イフタリエ(小さい東屋)
『イスタンブール歴史散歩』は、テラスの端に、金色屋根を持った、イフタリエと呼ばれる愛らしい東屋がある。スルタン・イブラヒムが建てたものだという。

ここからは金角湾(ハリーチ)が良く見渡せた。いくつか架かった橋から、金角湾が曲がっていることがわかる。
一番近くがガラタ橋で、二階建てになっていて、自動車やトラムが通る下の階には店舗が並んでいる。
朝は青空だったのに、だんだんと白んできて残念。

右の方には、ボスポラス海峡越しにガラタ塔。

ハーレムから見た時にガラタ塔がぼやけて見えたのは、ピントが合っていなかったのではなく、修復の足場が残っているためだった。


バーダット・キョシュキュとイフタリエ



さて集合時刻が迫っているので戻ろう。
レワン・キョシュキュに入るの前に水槽の前を右へ。
子供たちが熱心に水の中をみている。魚がいるのかも。


そうすると
⑯聖遺物室の前に来たので、

角を曲がったところも大きなタイルのパネルがあったりするので、

赤い釉薬が盛り上がっている。ということは、イズニークタイルの最盛期(17世紀前半以前)ということになる。赤い色はトマトの赤というよりも、トマトケチャップの赤のようだけれど。


一部の床はガラス貼りで、古い時代の大理石の切石モザイク(オプス・セクティレ)のようだった。またしても時間をくってしまった。
ビザンティン帝国時代の床だろうか。それともオスマン帝国になってからのものだろうか。


やっと⑰レワン・キョシュキュにたどり着いた。
後に建てられたバーダット・キョシュキュとの違いは、外壁に大きな五角形や円の大理石を貼り付けていること。

その柱頭は、蓮華ではないが、ムカルナスでもなさそう。


レワン・キョシュキュも平たいドームだが、窓が四つあるのに3年後に建てられた⑱バーダット・キョシュキュにはなかった。そうそう、このキョシュキュという言葉が日本に入ってキオスクになったそうな。

八角形から直接円に移行している。


スルタンアフメット(在位1603-17)の玉座で、鼈甲の板に螺鈿を細工した植物の花や蔓、壺などが貼られていて、各所に貴石が象嵌されていた。

平面図からは広さはバーダット・キョシュキュと変わらないが、奥行きが浅い。


壁龕や扉の装飾はバーダット・キョシュキュと変わらないが、面取りした付け柱のものは木材ではなさそう。


壁龕の内部は鮮やかな色彩のタイル貼り



その後第三の中庭へ。
⑫アーラルジャーミイ(Ağalar Camii)を反対方向から眺めて、確かにドームは半球ではないことがわかった。


そして何とか集合時刻に間に合って、⑧幸福の門を出て、

第二の中庭へ。

⑧ 幸福の門
『望遠郷』は、この門は白人宦官の門とも呼ばれ、スルタンの個人的な領域である第3庭園に通じている。スルタンはここで、イスラム暦の2大祝日、シェケル・バイラム (砂糖の祝日)とクルバン・パイラム (アブラハムの犠牲を記念する犠牲の祝日)の前日に臣下を迎え、彼らの陳情を聞いた。この門は宮殿造営時に建てられたものだが、16世紀に建て替えられ、18世紀にはロココ調に改装されているという。

東の方から幸福の門とその前の巨木を写す。何の木だろうか、立派。


東方にある③厨房へ 
『望遠郷』は、第2庭園の右側には、厨房と料理人の宿舎がある。東の城壁に沿って一列に並んだ広々とした10の部屋が厨房である。部屋にはドームと高い煙突がついており、これによって遠くからでもこの宮殿を見分けることができる。トプカプ宮殿には数千人の職員がおり、儀式の際には、さらに多く人々が集まった。宮殿全体に食事を提供していたこの厨房には、多いときには800人もの料理人が働いていたという。

厨房は南の方へ長々と続き、中は台所道具や食器類が延々と並んでいた。ここもミマールスィナンが設計したという。小さなドームと煙突が並ぶところはとても撮影できるものではない。

この中も30年近く前と違って、展示品をずいぶん減らしていた。
そして、食べ物を運んだり、祭事の行列に、料理を作りながら台車で行進する細密画などもパネルとして展示されていて、当時の様子が分かりやすくなっていた。

今回のトプカプ宮殿見学の楽しみの一つが、95年以来久しぶりに見る元(1271-1368)の染付だった。その時は大皿や大鉢などが沢山並んでいたが、元からの輸出品を大量に買い込んだくらいにしか思っていなかった。
それがある時、元の染付は、外貨獲得のため、それぞれの好みの文様を描いた注文品であることを知ったので、そういうことを念頭に置いてもう一度見てみたいと思ったのだった。
ところが、陶磁器自体の数が少なく、しかも元に遡る品は一つも展示されていなかったのだった。

中では調理の再現があったりした。


これは18世紀の中国の品だし、


この飲み物を蛇口から出す細工をした壺も元のものではなく、どれくらい見られるか楽しみにしていたのに、公開されていないとは。


右よりレンガ積みの⑦元宝物庫と庇の出た⑥御前会議の間

⑥御前会議の間でヤウズスルタンセリム一世(スレイマン大帝の父、ヤウズは冷酷)の旗頭(16世紀前半)を見たくらいで①儀礼の門から出た。


西の空は淡い夕焼け


スルタンアフメットジャーミィ(ブルーモスク)はライトアップされて、どんどんと日が暮れだした。


スルタンアフメット公園やアトメイダヌ広場には、常時観光ポリスがパトカーを止めているが、こんな可愛いのは初めて見た。



トラムの通りから小路に入ったところにあるデラリエへ。ここも23年度のミシュランのマーク付き。

数品のメゼと焼きたてのナンのようなパン。


その上に一人ずつこんな大きなパンもきた。


メゼを並べていると、また一品持ってきた。


半分に割ってみる。これはス・ボレイ(直訳すると水のパイ)で、ユフカという紙のように薄い生地を茹でて、チーズを挟みながら大きな四角い型にいれてオーブンで焼き上げた料理を
というものを小さな型で作ったものだ。

メインはヒュンキャルベエンディ Hunkar Begendi 
馬と牛が鳴いたような妙な名称だが、トルコ語では「スルタンのお気に入り」という料理。下は焼き茄子のピュレ。
この名称はガイドブックには羊肉のトマト煮と

デザートはシロップ漬けの小さなお菓子。見た目よりも硬かった。



アトメイダヌを通ってホテルへ。





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参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同胞舎出版 1994年 同胞舎出版
『図説イスタンブル歴史散歩』 鈴木董・大村次郎 1993年 河出書房新社
トンボの本『イスタンブール歴史散歩』 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社