お知らせ

エジプト旅行の記事を始めます。 興味を惹かれたものについての詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
ラベル 大邱 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大邱 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2008年7月11日金曜日

6日目-3 済州島(チェジュド 제주도)へ


ホテルにはすぐ着いたものの、チェックアウトしてしまっているので部屋で休む訳にはいかない。ロビーで坐っていた。病院に連れて行ってくれた人が通りかかったのでお礼を言う。
もう空港に行こう。空港でゆっくりした方がいい
タクシーを停めてもらった。やっぱりタクシーはホテルの車回しまで入ってこず、道路に横付けしたままだ。韓国ではそういう決まりなのだろう。荷物はベルボーイが運んでくれ、行き先も言ってくれた、11:00。
広い通りを北に向かい鉄道の高架でカーブしたところで思い出した。一昨日の夜ERに向かった時に通った道だった。今日は昼間なので駅の建物がよく見えた。そしてまっすぐの道を下りきったところで正面に見えたのがその時行った病院だった。他の車同様タクシーも飛ばして広い川 を渡り、瞬く間に大邱国際空港へ、5.800Wだった、11:17。 ここで寝とくわ。済州島についてからの予定は?
明日漢拏山(ハルラ山 한라산)には登らへんやろ?それやったら今日は何もないよ

私は空港内を探検した。写真の後方には画廊があった。コーヒーショップや売店の他、レストランがあった。うどんくらいならおっちゃんも食べられるかも
カルクッス?
ないらしかった。そろそろお腹がすいてきた。
そこのコーヒーショップでパンくらいなら食べられるみたい
ここで寝てるから独りで食べてきて
具合が悪うても、何か食べんと体力を消耗するよ

サンドイッチがあったので、野菜ジュースと食べた。おっちゃんは食べないと言っても、食べれば入るのだ。
実はおっちゃんは旅に出るとしばしばこういう風になる。仕事の疲れと旅の疲れが重なってこうなるのか、ビールを飲み過ぎるのか。今回は私が体調を崩したのでその心労ということにしときましょう。 その後搭乗口に行くと段々人が増えてきた。
平日やのに済州島に行く人は多いなあ
飛行機が小さいとはいえ機内に入るとほぼ満席だった。出発は13:20。
(済州島は朝鮮半島の南西部にあるため、地図では大抵別枠になっています)離陸するとすぐに飲み物が出てきた。トマトジュースをもらったが、ものすごく美味しかった!で二人ともおかわりをした。
日本に狼の血言うトマトジュースがあって、これくらい美味しいけど、ものすごく高いで(正しくは狼の桃でした)
霞んでいたので景色はよく見えなかった。気がつくと済州島の上を飛んでいた。のどかやなあ、14:03。 結局漢拏山を見ることなく着陸してしまった。ボーディング・ブリッジ ではなく、タラップを降りてバスに乗るらしい、14:14。
涼しー!
大邱であれほど暑かったのだから、南の済州島はもっと暑いだろうと予想していたのに、空気が冷たく心地よい。 空港の観光案内所で大きな地図とガイドブックをもらい、タクシー乗り場へ。近距離の乗り場からすぐに出発。
ナムソウルプラザホテル 空港をでてすぐに右折、広い道を南下して新済州ロータリーで右折。とすぐにホテルに到着、14:32。ここでも運転手は荷物を下ろしに出てこない。そしてメーターを上げない。
2.300W
小銭を探している間に2.400Wになってしまった。 おっちゃんの具合が悪いので言わなかったが。100W(10~12円)が惜しかったら、札を渡してお釣りを待てば良いのである。

2008年7月10日木曜日

6日目-2 大邱博物館の考古室に達城古墳群の出土物

最初に入ったのは考古室だった。大邱だけでなく、昨日行った高霊池山洞古墳群他、大邱周辺の古墳の発掘状況や出土物などが紹介されていて、この限られた地方に、形は円形でも、構造が様々な古墳が造られていたことがわかった。 昨日行った達城の周辺にも古墳群があったようだ。名称はそのまま達城古墳群。
『大邱博物館図録』は、臥龍山の麓から達城公園のほうへ続く丘陵上には三国時代の墳墓が数十~数百基分布していた。このうち7基についての調査が1923年に日本人によってなされ、古墳の構造が明らかになった。
調査された古墳は底径が20mほどの円形封土で、内部には石槨が1基ないし2基あった。石槨は大部分川原石や板石などを積み上げて築いた。墳墓の形態(埋葬の主体部)は竪穴式が多いが、37・55号墳のように三壁のみ作り、一短壁を開閉する横口式もある
という。

金銅装飾大刀 長さ67㎝ 
細かい雲文のようなものがびっしりと付けられている。
下は魚の尾ビレみたいで、上は2本の大刀の鞘で面白い のこぎりがあったのに驚いた。三国時代といえば668年までである。
今の薬師寺の建立が奈良時代(8世紀初)らしいけど、まだ鋸は使われてないらしいで 出字形金銅冠が出土した。右の方には鹿の角状のものもある。どちらにも歩揺がついている。金銅冠 慶北義城郡塔里の金城山山麓、義城塔里遺跡出土 
大型の封土墳に5つの石槨がつくられていた。金銅冠は鋏で両側を切り、糸のように捩った鳥羽状装飾を立てており、新羅の金(銅)冠の出字形とはことなる。古墳の構造や出土遺物が慶州の積石木槨墓と類似する点からみてこの古墳の主人公は新羅化した地方土着勢力と考えられるという。
これだけの数を1本1本ぐりぐりとねじっていくのは大変やろなあと思うくらい硬そうな銅板だった。大邱慶北地方では馬具も出土している。大邱慶北地方から出土した輪鐙には滑り止めのような小突起が5つずつ付いている。杏葉は剣菱形ではないなあ。考古室と美術室を見終わったくらいから、おっちゃんの様子がおかしくなってきた。廊下のソファに座り込んでしまった。
しばらく坐ってるから、いろいろ見てきて 民俗室で実物大に再現された儒教の生活の様子などを見た。博物館の人が向こうにもありますよと教えてくれたが、あまり遠くには行けない。
もどると、おっちゃんはまだ坐っているという。下の階にミュージアムショップがあった。そこで慶州博物館図録を見つけた。慶州博物館では本を見る時間がなかったので、大邱博物館にあってラッキーだった。そして国立大邱博物館の図録と、国立中央博物館の『韓国文化遺産の瑰宝』という中国語版も買った。中国では簡体の本はわかりにくいと躊躇するのだが、ハングル文字ばかり見ていたので、漢字をみて思わず買ってしまった。 戻るとおっちゃんはクーラーから水をくんで飲んでいた。
だいぶ良くなったからホテルに帰る
広い通りなのでタクシーはいくらでも通っている。反対車線を通っていたタクシーに手を挙げるとUターンしてやってきた。
グランドホテル
走り始めて運転手が聞いてきた。
イルボン?
イルボン!
訛りでわかるんやろか。途中で中の道に入った。静かな住宅街の向こうに高層マンションが建築中である。 ホテルのある大通りにはロッテが建てている高層マンションがあった。どの街に行っても高層マンションの建築ラッシュを見る。

※参考文献
「国立大邱博物館図録」(2002年 通川文化社)

2008年7月9日水曜日

6日目-1 国立大邱博物館には小金銅仏があったが


体調も天気も良い。今日も暑くなりそうだが、午前中は国立大邱博物館見学に当てていたので、少しは楽かも。
チェックアウト後、荷物をフロントに預けて、タクシーで博物館へ。予想していたよりずっと広い、交通量の多い通りに博物館はあった、3.400W。
早く着きすぎたので、建物前の広場にある五層石塔を見ることにした、8:45。 浄兜寺址五層石塔 高麗時代(1031年)

説明板は、この石塔は本来慶尚北道漆谷郡若木面の浄兜寺址にあった。
新羅石塔の様式を引き継ぐ高麗初期の石塔で、基壇は2層で5層屋蓋石は残っていない。下層、基壇面石には眼象が彫刻されており、上層基壇面石にはこの塔が高麗顕宗22年(1031)に建立されたという銘文が刻まれている。塔の内部から塔の造成経緯を記録した形止記と舎利装置が発見された
という。初層東面には扉に見える線刻がある。中央の大きな浮彫は錠前だろうか。 格狭間が陰刻、その中央にキノコのような雲気文のような文様が陽刻されている。こんな文様他にも見たかな?開館時間が近づいたので入口で荷物をコインロッカーに預け、チケットを買おうとしたら無料だった。金銅舎利器 漆谷松林寺址出土 統一新羅(8世紀) 高さ15.9㎝  

緑のガラスと金銅舎利器はどの本で見たのか覚えていないが、慶州博物館になかったので、ソウルの中央博物館にあるのかと思っていたら、大邱博物館で見ることができた。舎利容器として、瓶の形をしたものが円文坏の中に入っているのに、じーっと見ていてようやく気がついた。
『国立大邱博物館図録』は、1959年、漆谷松林寺の五層磚塔を修理した時に2層から亀形の石函が発見された。石函の中には金板を切り抜いて作った殿閣形の舎利器とともに種々のガラス玉と水晶玉、勾玉、管玉、指輪、金製同心円輪などが入っており、8世紀ごろにおさめられたものである。殿閣形の舎利器にはやや小さい舎利瓶がガラス盞の中に安置されているという。図版の下には金銅舎利器とあるがどちらが正しいのだろう。殿閣には下辺に蓮弁が重なって並ぶ。卍崩し組子の高欄と思われるものも表されている。歩揺の付いた飾りが随所に見られる。歩揺は冠などを飾るものだったが、仏教が伝わるとその荘厳具にも付けられるようになるんやなあ。 ガラスと金の舎利容器が発見された漆谷松林寺の五層磚塔の図版があった。芬皇寺は模磚塔だが、これは磚塔である。中国のものと比べると、どちらも壁面に柱などが表されていない。蝋石製小塔 大邱桐華寺(トンファサ)出土 統一新羅後期 高さ10.3㎝ 

統一新羅後期には舎利器の形式が単純になり、蝋石を素材とした舎利器が流行した。このうち蝋石製の小塔は無垢浄光院陀羅尼経に依拠して99個あるいは77個の蝋石製小塔を奉安する様式が流行した。小塔の底に孔をあけ、その中に陀羅尼を書いた紙を納めた。この蝋石製小塔は77個が作られたが、このうち33個が展示されているという。
法隆寺には木造の百万塔(奈良時代)がある。高さ13.6㎝で円塔だが、蝋石製小塔はずっと小さいと思って見ていたが、3㎝ほどしか違わないのだった。桐華寺出土小塔は四角形だがいろんな種類があった。梵鐘 高麗 高さ70㎝ 

梵鐘はもっと大きな物を芬皇寺と慶州博物館で見た。
韓国の梵鐘は中国の甬鐘とよばれる古銅器から変化、発展したものとして知られる。
1匹の龍で構成された龍鈕の後ろには音筒という筒状のものが付いて
いるという。鐘が低く吊られ、床が凹んでいるのと、上部に抜けているところがあるので音が良いということだったが、抜けているのはこの筒だったとは思わなかった。しかし、見るだけで音は聞かなかったなあ。どんなええ音がするんやろ?小金銅仏については後日

※参考文献
「国立大邱博物館図録」(2002年 通川文化社) 

2008年7月8日火曜日

5日目-8 バスや地下鉄に乗ると旅慣れた気分

タクシーで高霊バスターミナルまで戻ってきた。慶州でもそうだったが、バスターミナルには軽食を食べられるところがあるみたい、16:56。 大邱までチケットを買って、おばちゃんが示した方向に行くとバスが何台か停まっていた。
どれかわからへん
近くでおっさん連中がアイスキャンデーを食べていた。
私も食べたい
中の売店に行くと誰もいない。結局アイスキャンデーは止めてお茶にした。
アンニョンハセヨ
1.000Wを出していると、奧から婆さんが出てきたので渡した。
センサンビャク
?
最初は日本語だと気づかなかったが、段々とボケかけた脳に情報が伝達した。えー、1.300Wもするのか、やっぱり水にしとこうかなー。しかし水も飽きたのでお茶を買った。早速飲むとお焦げのお茶だった。麦茶だと思えば違和感はないけど。
大邱行きはどのバスかな
大邱?
アイスキャンデーを食べ終わったおっちゃんがやってきてバスに乗り込んだ。運転手やったんか。バスは17:00に発車した。高霊がこんなに交通の便のいいところだったとは。バスは伽倻山から流れる伽倻川に沿って高速に入り、川を渡った。 一度下りてバス停に行き、また高速に戻った。その内に速度が落ちてきた。渋滞?それほどではなかった。夕方なので一般道も混み始めていた。西部市外バスターミナルに到着。
どうする?
この時間はタクシーより地下鉄の方が早いやろ
パンコゲ駅に行って韓方料理の店を探し出すのもしんどいなあ
とりあえずホテルにもどろう
地下鉄の駅はどこや?それに韓国語で地下鉄ってどう言うの?
サブウェイステイション?
とにかく歩いている人を捕まえて聞く。バスターミナルを出てすぐの左側にあった、17:34。半月堂駅(地図では間違えて半月城になっています)で乗り換え。
どっちや?
慶大病院のある方
降りるのはBeomeo駅。漢字も読み方がわからない。日本とおなじようにアナウンスがあるので、耳を澄ませた。
ポモ
ポモと発音するんや。ベオメオなどと言わないで良かった!プラスチックのコインは改札を出るとき回収される。朝の記憶をたどって地上に出たらホテルのある角だった、18:11。 ホテルに戻り、夕食をどうするか迷う。
ホテルのレストランで食べる?
サムゲタンが食べたい
行ってみると、中華と韓国料理の店があった。しかしサムゲタンはないという。
外に出て通りを歩いているとレストランもぽつぽつあった。結局45年の伝統があるという肉料理の店に入った。 レジの前でおっちゃんがメニューを見せてくれた。幸い写真付きだった。
昨日の店よりも安いなあ
私は辛くなさそうな豆腐鍋にするわ
おっちゃんは当然肉料理を選ぶ。しかし焼肉は2人前から。昨日食べたのは2人前やなかったの?まずわかめスープ、ゆでた落花生、ブロッコリ、ニンニク、サラダなどが出てきた。
豆腐のお鍋はあまり赤くないのに辛く、豆腐だけを引き上げて食べた。付け合わせのセットで辛そうにない青菜やキノコを食べていた。最後にキノコの上にのっていた青いものを食べると口の中が火事になった!
しかし、私の胃はびくともしなかったのである。昨日の不調は何やったんやろ?帰りに25で明日の朝食べるものを買う。おっちゃんはまたしてもビールとおつまみに小魚とピーナッツの缶を買うのだった。

2008年7月2日水曜日

5日目-3 元気になったので高霊(コリョン 고령)に行こう

達城の門を出て、左側の横断歩道を渡った。 
お昼はカルクッス(うどん)を食べたい
しかし、来る時に何店かみかけたチェーン店はこのあたりになく、交差点近くの日本で言えば大衆食堂のような店に入った。
中に入ると大きなお皿に盛られた料理を2人で小皿に取って食べているのを見かけた。うどんの料理だったので、それを指さしてたのんだ。
出てきたのは直径50㎝くらいありそうな大皿にどーんと盛られた、ソース焼きうどんのようなものだった、12:56。みかけよりもあっさりとした味で、ありがたいことに辛くない。大きなハサミも持ってきたので、何故か十字に切って、取り分けて食べた。じゃがいも・エビ・イカ・肉・キノコ、いろんなものが入っていた。先ほど食べていた客は、ソースが残ったので、ご飯をもらって混ぜて食べていた。我々は食べきれなかったが。 10.000Wでした。
段々元気が出てきたし、せっかくやから高霊に行きたい
どう行くの?
パスは西部市外バスターミナルで乗るんやけど、地下鉄の駅はバスターミナルのすぐ近くでも、ここから地下鉄に乗るまでにかなり歩くことになるんで、タクシーで行こか
達城の正面の通りでタクシーを待った。すぐに来て乗りこんだが、えらいことに気がついた。ガイドブックには、ホテルから地下鉄で行くつもりで、西部市外バスターミナルの読み方を書いていなかったのだ。とりあえず運転手にガイドブックを見せた。 ソ ・ ・ ・ ボストノミル!
メーターを倒して走り出した、13:14。ま、なんとかなるやろ。(韓国のタクシーはメーターを倒すと1800という数字と下の方に馬か車の走る画面がでてきます)   西門市場があった。『新個人旅行韓国』は、大邱には朝鮮時代から続いている3大市場がある。なかでも、1669年からと最も古く、規模も大きい西門市場は6つのエリアで構成され、食品や日用品、服飾雑貨など、あらゆる生活関連商品がそろう。繊維産業の盛んな大邱だけに、衣類や服地が充実という。 漢字もあるにはあるが・・・ 左の交差点で信号待ちをして、青で渡ったところでメーターが上がった。表示通りの額を出すと、いやいやと言って、前の金額を受け取った、5.700Wくらい。向こうとバスターミナルを指してタクシーは去っていった。
これが当たり前の運転手や
昨日のおばちゃん運転手のことを執こく言う。どこでもいろいろですがな、13:33。
渡って横断幕の左の方に行くとバスが見えた。右から行った方が正解みたい、とは言っても徒歩1分。  券売所は右奧にある。
コリョン
そして手で2を示す。バス代は2.500WX2。乗り場を教えてくれるがわからない。右向こうを指さした。写真の正面奧(フラッシュが反射している柱で隠れている)が、改札になっている。市外バスは座席指定ではない。 バスは13:45発。15分毎と高霊は便利なところにある。後ろの方に空席があった、高速バスではないので座席は4列。
市外バスといってもすぐに高速に入った。郊外に高層マンションがあるのは釜山もいっしょだ。 途中で高速を降りて停留所に停まった。たくさんの人が降りるので、運転手に聞きに行った。
コリョン?
コリョン!
慌てて降りる、14:20。  今日は大丈夫そうだ。しかし暑い!韓国に来て晴天が続いてるが、日一日と暑くなる。
古墳群までどうやって行こう?
タクシーで行ったら
タクシーはいた。
コリョン・ジサンドン・ガヤコブングン
고령지산동지산동고분군? 3.000W
決まっているみたいだ。我々を乗せるとメーターを倒さずに走り出した。

※参考文献
「08-09新個人旅行韓国」(昭文社)

2008年7月1日火曜日

5日目-2 達城(タルソン 달성)で城壁巡り

入って左にある郷土歴史館にまず入った。達城から出土した土器などが展示されていた。
達城公園のパンフレットは、慶州の月城のように平地にある低い丘陵を利用して築城したのが特徴で、青銅器以来、地方の中心勢力をなしていた集団が、生活根拠地に建てた城廊だったと思われる。城壁の下の層には貝塚遺跡があり、木柵の痕跡もある。
三韓時代に部族国家をなした達句伐の城跡といわれ、韓国城郭発達史上、最も早い時期に現れた形式の一つとして評価されている。
三国史記には新羅・沾解王15年(261)に達伐城を積み、奈麻の克宗を城主にしたという記録がある。新羅に合併した後には、軍事要地として重視され、その後、高麗恭譲王2年(1390)、土城にさらに石築を積んだ。朝鮮宣祖29年(1596)に石築をさらに行い、慶尚監営をここに置いた。城壁は主に土で築造され、周囲が約1.300m、高さが約4mある。
達城公園は、高麗時代の中半以後、達城徐氏が代々暮らした私有地だった
という。歴史館を出て左に突き当たるところから城壁跡を歩くことにする、12:11。歩いてきた外側の道路に沿って歩くことになるのだが、木が茂っていて、道が見えない。 あちこちにベンチがあって、現在では市民の休息の場となっている。結構高いね
10mくらいあるね
どこからでも歩ける城壁などとアホな想像をしていたものだ。それでは守れへんやん。
版築だと思うが、それが見えるところがなかった。韓国古代山城探検!の大邱達城(대구달성)~三国時代初期の城郭は、平地の丘陵地帯に版築で突き固めた土手が、1.3㎞に渉って町をぐるりと囲んだ状態がよく残っているという。多少高くなったり低くなったり、右に左にカーブを描きながら城壁は続いている。この辺りは内側にも高い。
この辺が一番高いかも。ここから下り坂。石段を下りていくくらいの傾斜がある。
慶州月城の土城も、このように後代の石垣の跡らしきものが残っていたという。なんと慶州の半月城で確かに石がごろごろあったのを特に、版築のはずなのにおかしいなどと思わずに見ていた。 平たく、広くなったら向こうに建物が見えてきた。 観風楼。李朝時代、1601年に慶尚監営の正門として作られた。1906年に大邱邑城を壊す際に、この場所に移築して保存した。老朽化のため、1970年に解体して1973年に復元したという。 最後に動物の檻を見ながら坂を下りると、ぐるりと一周したことになり、門と歴史館が見えてきた、12:37。 
※参考文献
大邱城公園のパンフレット

※参考サイト
韓国古代山城探検!の大邱達城(대구달성)~三国時代初期の城郭