お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2023年7月21日金曜日

ヴォギュエ Vogüé


雨が降っていたアルランド Arlempdes から直線距離で50㎞あまりのヴォギュエへ向かうっているうちに、青い空になってきた。
ロワール川の上流にあるアルランドよりもアルデシュ川 L'Ardèche は谷が広く、丘陵地帯だった。

ブドウ畑。葉はまだ出ていない。ヴォギュエで検索すると、観光よりもワインのことが沢山出てくる。ワイン好きの方が、ボルドーなどの大きなワイン産地のものは日本に入ってくるけれど、小さな地方のワインに美味しいものがあっても、日本には入ってこない。地元で消費してしまうから、と残念そうに言っておられた。
私はお酒が飲めないので、現地特産のジュースが飲みたいが、時期的に果物の実る頃ではなかったので、ネクターが多かった。

バスは大回りしてアルデシュ川を渡った。鉄道の高架橋が何とか写せた。


町外れの駐車場から見た高架橋は鉄道用



町へ向かっていると、鉄道の高架橋よりも右手の崖が気になった。均等な厚さ、幅に割れている。この辺りは石灰岩ではなかったかな。



花も気になる


アブラナ科でピンク



段々と岩は高くなり、断崖となってきた。

そして下の方がほぼ等間隔に横割れが見られる。

岩の切り込みに酔いそう🤩


しかしながら、この先で高い断崖はこの辺りまででなくなりそう。



振り返ると鉄道高架橋に手すりのようなものが見えている。


断崖の最後は上の方が丸まった感じ。



まだ先にあるヴォギュエの町と城が蛇行する川の正面に見えてきた。



天然の断崖だけではない。城壁の遺構が崖に残っている。


反対側から見ると、アーチ形の開口部がある。監視塔だったのかも。
リーフレットは、ローヌ渓谷とルピュイアンヴレーを結ぶ非常に古い道の終点。この浅瀬で川を通って、ローヌ渓谷からヴレーの高原までワインを運び、穀物を積んで戻るラバ商人がよく行き来した。 ヴォギュエの青石灰岩で建てられた、鐘楼に似た塔があるという。
この崖はやっぱり石灰岩だった。しかも、「ヴォギュエの青石灰岩」と呼ばれるほど、健在として用いられていたのだ。


若者たちカヤックでやってきたのかと思ったら、おじさんたちだった。



断崖の岩は形を変えて続いていた。上の方まで水平な割れがある。



町に着いた早々腹ごしらえ。レストラン・レスパラ L'Esparat にて。

アミューズ


前菜はスモークサーモン


豚肉のコンフィ季節の野菜添え
分厚いパプリカと思ったら、カボチャでした

デザートはガトーマロン、最後に濃いコーヒー
お皿に描いた模様がそれぞれ違った。デザートがこの大きさだと楽


その後観光へ。
レストランを出てすぐに見えたのが、エスパラ塔 La tour De l'esparra、13世紀に建てられたもの。

Google Map の地図より
ヴォギュエの市街他図 Google Map より


塔には近づかずにエスパラ通りに入る。何でもエスパラである。
今まで何度も見かけたが、狭い通りは中央が凹んで溝になっている。

奥に行くと祈願の上に廃墟があった。さすがに近くには行くことは無理そう。
塔の廃墟 Ruines de tour 

可愛い看板
椅子職人か、修復をする人の店らしい。

エスパラ広場から


シャナリ通り Rue de Chanalyを通ると、ここにも階段塔らしき円塔が現れ、 

ムーラン小路 Passage du Moulin との角にあった。小さな窓の配置から階段だと確信。

その先のヴィアロール通り Rue du Vialor との交差点の建物の窓のカフェカーテンがかわゆい。 


まだシャナリ通りを歩き続け、


町外れに出てしまった。

そこから一段上の狭いエステューニュ袋小路 Impasse des Estugne を通る。トンネルの多い小路だった。 


藤の花?


この右手に階段があって、上の階の人が使う。あちこち上ってみたい。


次々と短いトンネルが現れるが、通り抜けられそう。
窓の戸、鎧戸というのか、日本風には雨戸だが、建物に合わせて薄い色なのがいいね。


緑のネズミという土産物屋の看板。

石の大きさや形の違いで建造された時代が分かるのだろうか。


左手にノミ通り Rue des Puces とノミは複数形。ちょっと通ってみたかった。
リーフレットは、住宅が密集しているこの地区は、歴史的な村 (14世紀) の中で最も古い地域である。アーケードで区切られたこのような通りは、さまざまな建築の家々に囲まれている。
中には、中世に遡る家屋ものもあれば、百年戦争後 (15世紀) のもの、宗教戦争の余波 (17世紀) のものもあるという。

狭い通りから抜け出ると、円塔が見え、上り坂となった。


袋小路という名称だったが、その先はこの狭い建物で、右のお城通り Rue du Château と左の新道通り Rue du Chemin Neuf に分かれる。

お城通りに面して2つの円塔、階段と監視塔を兼ねたもの、そしてルネサンス様式の十字に仕切られた窓が並んでいる。

下の方にはアーチ形の窓も。石を刳り抜いた簡便なアーチ窓が2つずつ。ステンドグラスは現代のものだろう。


このお城は4つの監視塔のある正方形プランのようで、前庭が広い。

説明パネルは、ヴォギュエ DE VOGUÉ 家に属する私有の歴史的記念碑、11世紀に四角い監視塔が周りに建てられたが、現在は破壊されている。
15世紀に大きな変革が起こり、現在の姿になった。
17世紀には、大きな窓、雄牛の目窓、バルコニーと庭、そして北側のファサードの大きなドアは大きな公園に面している。
この改装された城は、1629年にプリヴァの城塞を破壊したばかりのルイ13世が滞在していたであろう城であるという。
一番上の丸い窓が牛の目窓と呼ばれるものか。

お城へ向かう。

中に入ったからといって何かあるわけでもなかった。町のリーフレットをもらっただけ。
そのリーフレットに上から見たヴォギュエ城の写真があった。あれ、この写真も3つの監視塔しか写っていない。


この辺りで見かけた花

日本のカタバミみたい

蔓が壁にしがみついて上へ横へと広がっている、小さな花の集まりは

南西部でよく見たトキワハゼ

その後来た道を戻っていく。

エステューニュ小路を戻って、


望み通り極細のノミ通りを通った。

通り抜けたらシャナリ通り、戻ってエスパラ広場へ。


エスパラ通りを抜けて大道通りに出ると再びエスパラ塔が見えた。


リーフレットは、エスパラ塔は、13世紀には領主や名士の邸宅であり、ヴォギュエに対する領地権、つまりアルデシュ川を渡る通行権と水車の使用を維持することができたという。
現在は壁だけが残っている。


河岸通り Voie sur Berge と分かれるが、大道通りを歩き続けて教会坂 Montée de l'Église へ。 

サントマリー教会 L'Église Saint-Marie 
リーフレットは、ステンドグラスの窓があるロマネスク様式の礼拝堂。
現在の入り口が作られる17世紀までは、城へのアクセスは南側にあった。防御溝にかかる跳ね橋が城へ通路だった。大規模な工事の発案者であるメルシオール・ド・ヴォギュエは、防御溝とこの古い通路にヴォールトを構築することにより、開発の主導権を握ることになるという。

教会前は狭くて全体が写せない。

平面は交差天井の身廊と短い翼廊という簡素なもの。


西ファサード側
リーフレットは、ステンドグラスの窓があるロマネスク様式の礼拝堂というが、こんな写し方ではステンドグラスは分からない。

この大きな洗礼盤は良かった。

いつの時代のものかわからないが。


教会の南側に出て、

駐車場へと戻っていった。



道路が川沿いになった。

水車による粉挽き場の遺構があったりした。


川の石垣の面白い形、そして途中にある川辺に下りる階段

川岸に石灰岩がパイの層のようだったり、行きがけに見落としたものに気づいた。


大きな木の小さな花

まだ蕾で赤いが、咲くと薄い色になりそう。


その内に鉄道の高架橋に近づいてきた。しかもポツポツと人が渡っている。

ということは、廃線なのだ。



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参考にしたもの
ヴォギュエの観光リーフレット