ロワール川の上流にあるアルランドよりもアルデシュ川 L'Ardèche は谷が広く、丘陵地帯だった。
私はお酒が飲めないので、現地特産のジュースが飲みたいが、時期的に果物の実る頃ではなかったので、ネクターが多かった。
バスは大回りしてアルデシュ川を渡った。鉄道の高架橋が何とか写せた。
町外れの駐車場から見た高架橋は鉄道用
町へ向かっていると、鉄道の高架橋よりも右手の崖が気になった。均等な厚さ、幅に割れている。この辺りは石灰岩ではなかったかな。
花も気になる
アブラナ科でピンク
段々と岩は高くなり、断崖となってきた。
反対側から見ると、アーチ形の開口部がある。監視塔だったのかも。
リーフレットは、ローヌ渓谷とルピュイアンヴレーを結ぶ非常に古い道の終点。この浅瀬で川を通って、ローヌ渓谷からヴレーの高原までワインを運び、穀物を積んで戻るラバ商人がよく行き来した。 ヴォギュエの青石灰岩で建てられた、鐘楼に似た塔があるという。
この崖はやっぱり石灰岩だった。しかも、「ヴォギュエの青石灰岩」と呼ばれるほど、健在として用いられていたのだ。
若者たちカヤックでやってきたのかと思ったら、おじさんたちだった。町に着いた早々腹ごしらえ。レストラン・レスパラ L'Esparat にて。
その後観光へ。
レストランを出てすぐに見えたのが、エスパラ塔 La tour De l'esparra、13世紀に建てられたもの。
シャナリ通り Rue de Chanalyを通ると、ここにも階段塔らしき円塔が現れ、
ムーラン小路 Passage du Moulin との角にあった。小さな窓の配置から階段だと確信。
その先のヴィアロール通り Rue du Vialor との交差点の建物の窓のカフェカーテンがかわゆい。
まだシャナリ通りを歩き続け、
町外れに出てしまった。
次々と短いトンネルが現れるが、通り抜けられそう。
窓の戸、鎧戸というのか、日本風には雨戸だが、建物に合わせて薄い色なのがいいね。リーフレットは、住宅が密集しているこの地区は、歴史的な村 (14世紀) の中で最も古い地域である。アーケードで区切られたこのような通りは、さまざまな建築の家々に囲まれている。
中には、中世に遡る家屋ものもあれば、百年戦争後 (15世紀) のもの、宗教戦争の余波 (17世紀) のものもあるという。
狭い通りから抜け出ると、円塔が見え、上り坂となった。
袋小路という名称だったが、その先はこの狭い建物で、右のお城通り Rue du Château と左の新道通り Rue du Chemin Neuf に分かれる。
このお城は4つの監視塔のある正方形プランのようで、前庭が広い。
説明パネルは、ヴォギュエ DE VOGUÉ 家に属する私有の歴史的記念碑、11世紀に四角い監視塔が周りに建てられたが、現在は破壊されている。
15世紀に大きな変革が起こり、現在の姿になった。
17世紀には、大きな窓、雄牛の目窓、バルコニーと庭、そして北側のファサードの大きなドアは大きな公園に面している。
この改装された城は、1629年にプリヴァの城塞を破壊したばかりのルイ13世が滞在していたであろう城であるという。
一番上の丸い窓が牛の目窓と呼ばれるものか。
お城へ向かう。
そのリーフレットに上から見たヴォギュエ城の写真があった。あれ、この写真も3つの監視塔しか写っていない。
この辺りで見かけた花
その後来た道を戻っていく。
河岸通り Voie sur Berge と分かれるが、大道通りを歩き続けて教会坂 Montée de l'Église へ。
リーフレットは、ステンドグラスの窓があるロマネスク様式の礼拝堂。
教会前は狭くて全体が写せない。
平面は交差天井の身廊と短い翼廊という簡素なもの。
西ファサード側
現在の入り口が作られる17世紀までは、城へのアクセスは南側にあった。防御溝にかかる跳ね橋が城へ通路だった。大規模な工事の発案者であるメルシオール・ド・ヴォギュエは、防御溝とこの古い通路にヴォールトを構築することにより、開発の主導権を握ることになるという。
道路が川沿いになった。
参考にしたもの
ヴォギュエの観光リーフレット