さて、サントフォワ修道院聖堂の見学が終わって解散。教会前広場のクレープ屋でお昼を食べた。数人ではいったので、教会が見えるテラス席ではなく二階に通された。
微炭酸のミネラルウォーターがお気に入り。
サラダを頼んだら巨大なお皿に盛り上げて出てきた(ナイフとフォークと比べて下さい)。さすがに食べきれなかったが、朝市も八百屋もないこの辺境の村にもかかわらず、一番新鮮だった。
メインはソーセージでこれも巨大。丸い容器に入っているのはアリゴ(aligot)というジャガイモのピュレとチーズを混ぜた料理で、よく伸びるポテトというのを試して見たかったが、それが付いているのがソーセージだけだったのだ。ステク・タルタル(タルタルステーキ)も食べたかったのだが・・・
このソーセージも本物だった。日本のソーセージは練り物だが、これはまさに肉だった。
午後はローマ時代の橋を見に。
広場を出てゴンザク・フロロン通り(Rue Gonzague Florens)へ。
午後になるとどんどん気温が上昇。寒いと思っていたコンク村に暑い夏がやってきた。
この通りを通るのは初めて。
ここまで来るとすでに郊外。
脇道からシャルルマーニュ通り(R.Charlesmagne)へ下りた。
家の造りの割に教会のような石を積み上げたな扉口。
朝通った道の先には⑦バリー門(Porte du Barry)
『CONQUES』というリーフレットは、半円ヴォールトで赤い砂岩のアーチで支えられている。上の階は居住空間になっていたという。
傾斜地には農作物ではなく花の咲く草や木が。
朝は脇道にそれたが、シャルルマーニュ通りを下っていく。
木の枠で造られた四角い窓が並んでいるのに、左端だけがゴシックでもないアーチ形の石造りの窓で、高さも違う。
ウロコの屋根はみな裾が少し反っている。
右側はこんな岩が露出している。これが屋根瓦に使われている頁岩かな。
ここで左折。
狭い通りに入ると、そこは蔓草が住宅の壁を覆っているのだった。フランスでは藤は普通にある蔓草。この先に上っていく。
茂みには五弁の花
キキョウに似た花だがツルギキョウではない。
こんな種をつけた草も。マメ科?
いや、ゴウダソウとかオオバンソウと呼ばれるアブラナ科の植物でヨーロッパ原産だそう。大きな種の鞘なのに、小さな紫の花が地味に咲いていた。
集落を過ぎて現れたのが⑲サンロック(Saint-Roch、サンロシュ、聖ロクス)礼拝堂。崖の際に立っている。
添乗員氏の眼の方向の先には・・・
もちろんコンク村。
サントフォワ修道院聖堂を見上げたのは初めて。
その壁面
その先からコンク村。ここからなら⑩ユミエール城(château d’Humières)が見える。ウシュ(L’Ouche)の谷は川の流れは見えない。
夏の日を浴びたサントフォワ修道院聖堂とウロコ屋根の村。
サンロック礼拝堂の入口は南側にあったが鍵が閉まっていた。教会は午後から夕方まで入れないことが多い。小窓は半円アーチ、扉口は浅い尖頭アーチ。四角形平面の教会は角に扶壁のある素朴なものだった。
巡礼路教会であり、サントフォワの聖遺物のあるサントフォワ修道院聖堂があるというのに、こんな村から離れた場所に小さな礼拝堂を造るとは。それは聖ロクスが黒死病の守護聖人とされているからかも。
『CONQUES』は、岩が張り出した高台、そして昔ノートルダムに捧げられた場所にサンロック教会は遠い昔この地にコンクの初期の城があったことを思い起こさせる。建物の基礎部に、現存する5世紀の建物があるという。
この文のノートルダムは、ゴシック期に盛んに司教座聖堂の名に冠された「とりなしの聖母」としてのノートルダムではなく、ずっと昔にこの地で崇められてきた『黒マリアの謎』のいうケルト的な地母神のことだろう。
フランス語でダム(dame)は婦人という意味で、呼びかける時に「私の」というマ(ma)を付けてマダム(madame、私の婦人)になる。そして、複数の「我々の」というノートル(notre)を付けてノートルダム(Notre-Dame、我々の婦人)となる。
この地のガリア人たちが信仰してきたのはもちろん黒マリアになる以前の地母神像だった。
隣接する聖具納室はもっと古く、石工のいう「杉綾文様」を特徴としているというが、同リーフレットに載っている付属の建物は現在は失われてしまている。
同リーフレットは、礼拝堂の下には岩に掘られた奇妙な穴があり、
2つの水槽があるという。
『黒マリアの謎』は、リスト教の来世が天上的なものであるのに対し、ケルト的来世は、元来が地下的なものだということである。そして、黒マリア信仰が示しているのはまさしく、この地下的性格なのだ。
まず第一に黒マリアが発見されたり祀られたりしている場所であるが、それは極めてしばしば他界への通路と考えられていた洞窟や墓地なのである。
かつてガリヤの庶民が彼らの地母神に捧げていた信仰を、中世の農民がそのまま継承していたとしても少しも不思議ではないという。
ひょっとするとねガリヤの民たちは、建物の下のこの洞窟で儀式を行っていたのかな。その後キリスト教の聖堂となってからは、洗い場として使われたのかも。
黒マリアについてはこちら
その後シャルルマーニュ通りへと戻り、再び下っていった。
その道に貝殻ではなくラテン十字のマークがあった。
手前の屋根はウロコの傾きが一様ではなく、壊れかけているみたい。
屋根裏部屋が木組み(コロンバージュ)だけ残っているお宅も・・・
狭いシャルルマーニュ通りがD901号線に行き着いて終わった。
ちょっと南に下がってローマの橋(Pont Romain)に到着。
『CONQUES』は、「ローマの」はrominus(巡礼者)に由来している。時に水量の変わるドルドゥー川を越えることを可能にしたという。
中央部分が高くなっている。
ドルドゥー川(Le Dourdou)の川上
そして川下。少し濁っている。
このローマ橋をコンクに向かって歩いていく人たちもいた。サンティアゴデコンポステラから再び戻ってきたのだろうか。
『中世の街角で』のやがて山上の自動車道に出て少し歩くと、ああと思わず声が出る。陽光がふたたび雲間から射しこみ、そこには石のコンク村のすべてが照らし出され、白く、そして灰白色に光っていた。
どれだけ多くの巡礼たちが旅の難儀を忍びながら、野を越え、山を越え、そしてコンク教会にいたるごつごつした石畳の坂道、シャルルマーニュ通りを一歩一歩踏みしめ上がって、この寺に参詣したことであろうか。そしてこの圧倒的に大きく力強い教会に辿りつき、これに接して、どれだけ大きな喜びと安堵感を覚えたことかという文を思い出す後ろ姿だった。
橋を渡って上流側の川辺に下りていった。
同リーフレットは、かなり非対称で、中世に造られたが大半は近世(16-17世紀)に赤い砂岩の切石で造り直された。5つの半円アーチは、上流側に笠石ののる三角形の水切りのある橋脚に支えられているという。
残念ながら左半分は草木に隠れてよく見えない。
真ん中のアーチが一番大きく、道の頂点がそのアーチの上にある。
ローマ時代の橋ではなかったのだった。
サントフォワ聖堂地上階と中庭← →サントフォワ聖堂日中のトリビューン
関連項目
ロカマドゥール 聖母礼拝堂の黒い聖母子像
参考文献
「CONQUES PAS À PAS・・・ DANS L’HISTOIRE DE CONQUES」アヴェイロン県のコンク案内リーフレット
「黒マリアの謎」 田中仁彦 1993年 岩波書店
「中世の街角で」 木村尚三郎 1989年 グラフィック社