お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2018年11月29日木曜日

コンク 朝散歩2


時間となったので観光案内所前に集合すると、現地ガイドは昨日会ったアンヌさんだった。

知り合いの婦人が採ってきた菩提樹(tilleul、ティユル)の花。盛りは過ぎているそうだが、これを乾燥させてティザヌ(tisane)と呼ばれているハーブティーにすると心が安まるので就寝前に家族揃って飲んだりする。若い頃泊めて頂いたお宅で飲ませてもらったことを思い出した。
ホテル近くの三叉路?にある小さな公園
それは、アンヌさんが見せてくれた、今は存在しない屋根付き市場だった。
ラ・ムネド通り(R.de la Mounède)とシャトー通り(R.du château)の間にあった、取り壊し前の略画(時代不明)

ゴンザク・フロロン通り(Rue Gonzague Florens)からシャルルマーニュ通り(R.Charlesmagne)へ。
右手の建物の木組み(コロンバージュ)は、機能だけでなく、文様としても優れている。
オステルリ・ド・ラベイ(HOSTELLERIE DE L’ABBAYE)というホテルは営業していないみたい。
この道がサンティアゴデコンポステラへの巡礼路。
右建物の南東角の二階の出っ張りを支えるカーブした木の先に
こんな人頭が付いていた。
オステルリ・ド・ラベイは木組みで壁の中身が露出しているが、その続きの建物は石製の窓枠が塞がれて壁になっている。
その間の小窓。おしゃれな鉄格子かと思ったら、泥棒が入り込めないように棘を出しているのだという。痛そう😆
右の建物は売り家。
これがシャルルマーニュ(カール大帝)という名にふさわしい通りだろうか?
窓枠もいろいろ
すぐに景色が開けてきた。
左下には⑲サンロシュ礼拝堂。午後の散策で行くことになった。
正面中腹にはサントフォワ礼拝堂。
『中世の街角で』は、聖女フォワは303年、コンクから150㎞ほど西南のアジャンで殉教した。若いキリスト者である。その聖遺物がほしいものと、9世紀にコンクの一修道士が巡礼としてアジャンに赴いた。そして10年の間同市に住みつき、土地の人びとの信用を得て、ついに聖遺物守護の任を仰せつかり、首尾よくこれを盗み出してコンクに持ち帰ったという。
その聖女フォワの彫像は、コンク教会のいわば目玉宝物として、地下に安置されているという。
『Conques』では、その修道士の名はアロニスド(Aronisde)で、アンヌさんによると、アジャンからサントフォワの像を担いで帰る途中、疲れた修道士はこの場所に像を置いてひと休みした。その時サントフォワが現れて、水を湧き出させた。今でも湧き水があり、小さな礼拝堂が立っている。フィジャックへの巡礼路にあるという。
この家の土壁はかなり古い。
門が見えてきた。
バリー門(Porte du Barry)
『CONQUES』というリーフレットは、半円ヴォールトで赤い砂岩のアーチで支えられている。上の階は居住空間になっていたという。
これは聖母子像?
門の外に出ると、
市壁がここから斜面の上の方へと続いていたという。現在では民家の壁に取り込まれてしまっている。
そして庭園のように手入れされた花々が咲き誇る。
その隣にはぶどう棚というよりも藤棚。生け垣もある。
その棚の支柱を石垣から出っ張った薄板の穴に通している。

通りの少し先に凹みが。
そこにはバリーの泉(Fontaine du Barry)があった。
分かれ道よりバリーの門とコンク村を振り返る。
目の前に大きな屋根
そのウロコの一片一片は不揃いで、苔むしたりして味わいがある。
振り返るたびに少しずつ見え方が変わるサントフォワ聖堂
脇道を上り、
下側の家を見下ろす。ウロコ屋根でない建物があるのかと思うくらい。

車の通行できるゴンザク・フロロン通りに出た。
曲がった柱の木組みというのは真っ直ぐな柱の建物よりも味がある。
少し離れた駐車場からコンク村へと向かう一行と出会う。
ビューポイントとされてはいないが、聖堂の西ファサードが眺められるのはこの辺り。
右上にユミエール城(château d’Humières)、ご一行の頭の先の国旗があるところが郵便局。
我々はまた脇道の学校通り(R.des Écoles)へ。
残念ながら逆光。右の小学校は廃校になってしまったという。住民の数が100人に満たないコンク村、この先どうなるのだろう。
でも青空を背景にサントフォワ聖堂の3つの塔のシルエットが撮れた。

植え込みでロカマドゥールに続いてオニクを発見。そのまわりのヒトデのような花か萼もかわいい。

この建物のウロコ瓦は洗浄したのだそう。頁岩の瓦は丈夫で長持ちするのだとか。
大きさも色もさまざま。端には舌のように長い石板を並べている。
でも、苔のついたウロコ屋根でないの方が味わいがある。屋根だけでなく、屋根裏の窓の壁もウロコ瓦が張るものらしいが煙突は別。標高400mのコンク村、冬になると寒いのかな。
続いて市壁とユミエール城。
その下の小屋のようなものは⑨パン窯。
共同で使うもので、コンクでは2つの窯が要塞の外に築かれたのは、きっと火事を避けるためだろう。修復されて使える状態にあるという。
右側には変わった屋根の家、
サントフォワ聖堂の塔は先だけしか見えなくなった。
大きな車輪を飾っている住宅。
左の曲面の建物に沿って通りは曲がり、

その先でシャトー通り(R.du château)に出た。
右折すると、朝散歩で通った店舗のある方へ、
左折すると正面右にユミエール城が、左には面白い木組みの建物が。上階になるほど低くなり、屋根裏の柱などは適当に組んであるような。
それは階段の手すりのあった建物だった。ここから見ると、側壁の木組みの仕切りと、実際の階の間隔が合っていない。
井戸は初めて見た。

ユミエール城も不思議な外観だ。円塔の2面に平たい壁が付いているみたい、
ファサードのある本館は3段の十字窓がアクセントになっている。その一つ、北西のものは壁の角にある。聖堂の採光塔を思わせる頂部が八角形平面になって、階段になっているという。
円塔の中は螺旋階段?
このランプは灯るのだろうか。
これがお城の玄関。あのノッカーには手が届かない。
その上は、角ばった壁面が右端で終わり、こちら側は円塔のよう。中は階段。
八角形の監視塔がのった円塔の2面が角形になっている。
八角部分は壁も薄そう。

シャトー通りをヴァンゼル門へ
⑪ヴァンゼル門(Porte de la Vinzelle)
リーフレットは、正方形平面の塔は防御軍の宿営を兼ねる。ロット川の流れに張り出した隣の村の名から採っている。村の側に木製で彩色された聖母子像(14-15世紀)が掲げられているという。
明るくなってきたので、聖母子像があるのがわかった。
城壁には矢狭間、ひょっとして銃眼?
門を出たところでウツボグサが咲いていた。
トゥールーズのホテルで咲いていたよりも地味。
ユミエール城の八角形の監視塔はここからは見えない。
トゥールドヴィル通り(Tour de Ville、外周通り)に出た。

⑫円塔
リーフレットは、市壁の北にある防御のためのもの、15世紀。真円の平面で、現在では下部を埋めたため、あまり高くないように見える。高さを違えた矢狭間があるという。
アンヌさんがあそこにネコがいますと言う。他の動物かと思っていた。
確かにネコだが、目が変ではないかななどと思っていると、誰かが言った、置物よ、動かないものと。

この時間になるとサントフォワ聖堂が色を帯びて見えるようになった。
内部にも光が差し込んでいる様子。

カタバミに似た花

宮殿広場を通り過ぎ、ダドンの家の円塔が見えてきた。
クレマチスが壁をつたう家。

朝上ってきた坂道から人が現れた。ここは変形の交差点。
エミール・ルディエ通り(R.Emile Roudié)に入る。楽しい看板が並んでいる。
セカドゥの泉(Eau sécadou)
気が付くとサントフォワ聖堂の北側に来ていた。身廊は短いが、翼廊は幅広。
板扉に吉川正道氏の個展の案内があった。青磁の作家かな。
吉川正道氏の作品や工房についてはかとうさとるいけばな文化研究所常滑の吉川正道さんの工房探訪をどうぞ
アンリ・パライル通り(R.Henri Parayre)に下りて、光を浴びるサントフォワ聖堂
大きな菩提樹の木まで戻ってきた。
そしていよいよサントフォワ聖堂の見学だ。

     朝散歩1←      →サントフォワ聖堂地上階と中庭

参考サイト
かとうさとるいけばな文化研究所常滑の吉川正道さんの工房探訪

参考にしたもの
「中世の街角で」 木村尚三郎 1989年 グラフィック社
「Conques」 Emmanuelle Jeannin・Henri Gaud 2004年 Edition Gaud
「CONQUES PAS À PAS・・・ DANS L’HISTOIRE DE CONQUES」アヴェイロン県のコンク案内リーフレット