お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2024年3月19日火曜日

キュチュクアヤソフィア Küçük Ayasofya


ソコルルメフメトパシャジャミイ及びキュチュクアヤソフィア界隈の地図
古いオスマン様式の民家が残るが、どんどんと新しいオスマン様式の民家に建て代わり、おしゃれなホテルへと変貌しつつあった。
ソコルルメフメトパシャジャミイ及びキュチュクアヤソフィア界隈の地図 Google map より


ソコルルメフメトパシャジャミイ西入口からキュチュク
アヤソフィアへ、マルマラ海に向かって下り坂のメフメトパシャ小路 Şht.Mehmet Paşa Sk.を通った。先に小さな子供を連れた婦人が歩いていた。

続いてカドゥルガ港通り Kadırga Limanı Cd.へ。
こんなところにもオスマン様式の民家が。オスマン様式の古い建物と新しい建物が混在しているが、どうやら古い建物の方は取り壊しているらしい。そして新しい建物は小さなホテルに生まれ変わっているようだった。

先を歩いていた親子に追いついて閉まったので、キュチュクアヤソフィアはどの通りですかと聞いてみた。
二つ目の通りということだったが、ここで思いがけない質問をされた。しかも英語で。
どこの国から来たの?
日本。
昔私たちはアジアの東の方に住んでいて、そこから東へ行ったのが日本人で、西に行ったのがキルギス人なのを知ってる?
知ってる、知ってる!
それはかなり以前に人から聞いたり、何かで読んだことのある話だ。トルコ人と日本人の関係としても言われていたが、ここのところ聞かなくなっていたので懐かしかったが、まさか、こんなに若い、しかもキルギスの人の口からそんな話が出ようとは。

教えてもらった通りに歩いていくと、Küçük Ayasofya Cd.に出て、この先をまっすぐ行くと線路があるが見えた。

それよりも何故か鶏が!



左手にキュチュクアヤソフィアのドームが見えた。

もう少し進むと現在モスクになって以来の正門があったが、その前の整備された公園の通路は駐車場になっているのか、正門全体が見えない。


車の前からは正門全体が入らない。平たいアーチの上の銘文は、「ホジャアフメドヴェセヴィ作フセインアーメドレセ」になっている。
『イスタンブール歴史散歩』は、トルコ人が小アヤソフィヤと呼ぶモスクは、かつての聖セルギウスとバッカス教会で、この町に現存するビザンティン教会の中でも最も美しく重要な教会のひとつである。聖セルギウスとバッカスはローマ軍の守護聖人で、ユスティニアヌス帝はこの聖人たちを深く信仰していた。彼が皇帝になる前、時の皇帝アナスタシウスに命をねらわれていたとき、この聖人たちがアナスタシウスの夢に現れ、ユスティニアヌスのためにとりなしたというのである。まさに夢のような話だが、ユスティニアヌス帝はその恩義を忘れず、自分が帝位につくと、527年、この教会を建て、聖人たちに奉献したという。
この教会はバヤジットⅡ世の治世に、白人宦官長ヒュセインアーによってモスクに変えられたが、いまもいくつかの柱頭にユスティニアヌス帝と皇后テオドラのモノグラム(頭文字の組み合わせ) が残っているという。

先ほどのソコルルメフメトパシャジャミイは決して大きなモスク総合施設ではなかったが、中庭も清めの泉も大理石だったが、中庭は公園のよう。

清めの泉自体は大理石のようだが、囲いは木製。


その奥に柵があって、どこまでが中庭か分からないが、アーチや柱頭の形、上に出ている小ドーム群はモスクにする時に付け加えられたもの。
ちなみに、モスクは大抵木製の両開きの扉が付いているが、その前に分厚い幕が下りていて、中に入る時は左右どちらかからこそっと入ることになる。

右手にはミナーレ

柵の中に入ると北側にも門があった。柱廊の柱頭は幾何学的な蓮華文様で、大理石の円柱と共に丸彫りのようにも見えるがどうだろうか。



キュチュクアヤソフィアの俯瞰図(『望遠郷』より)
同書は、建物は、長方形にほぼ近い形の内部に、いびつな八角形が形づくられたものである。八本の支柱の間にはそれぞれ2本の大理石の円柱が立っている。これらの円柱には緑と赤の大理石が交互に用いられている。色鮮やかなこれらの柱と壁の間を回廊が通っている。
ドームは16に区切られ、8つの平面と凹面とが交互に並べられて建物を覆い、八本の支柱によって支えられているという。
ドラムの外側を見ると、八つの稜線の荷重を一本の角柱で受け、その下で二本の角柱で分散している。
キュチュクアヤソフィア(元セルギオスケバッコス聖堂)俯瞰図 望遠郷より


旧セルギオスケバッコス聖堂平面図 527-36年 
旧セルギオスケバッコス聖堂平面図 527-36年 THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN より


『望遠郷』は、聖ソフィア大聖堂と同じく壁は縞模様の大理石で覆われドームは頂点までモザイクで覆われているというが、私にはイスラームの装飾的なフレスコ画にしか見えなかった。
ドームはモスクのような半球状ではなく、八角形のドラムに八角形の屋根をのせているが、内側が見上げるとやや扁平。


後陣を見たつもりなのに後陣の正面を向いていなかった。アヤソフィアと同じで聖堂の後陣の方向とミフラーブの方向が少しずれているので、ミフラーブを正面にしたらこうなってしまったのだろうか。
キリスト教会は内陣以外は入ることができるが、トルコでは礼拝者用として、ミフラーブからかなりの部分を立入禁止にしている。ここもやはり結界があったので、正面向きには写せなかったのかも。
この辺りのエンタブレチュアは彩色されていたようだ。

ミフラーブはタイルで装飾せず、大理石だけ。上の方に透彫はあるが簡素。窓ガラスは妙な形の仕切りがあるが、外側にも窓ガラスがある。


反時計回りに目を移す。


その続きは正面から捉えている。

入口の左側には小さなマフフィルがあった。
このマフフィルは、俯瞰図には描かれていないが、入口から左手の凹部に造られている。
結界は一部開いていたが、祈るために来たのではないため立ち入ることは控えた。


そして入口側。階上廊の直線的な部分と複合柱の複雑な形状にも即したエンタブレチュア

赤と緑の円柱というのは見分けられなかった。


同書は、階上廊を支える柱の、非常に細かく彫られている古典的なデザインの柱頭とその上のエンタブレチュアには、6世紀に流行していた碑文がみとめられる。
一階の柱のエンタブレチュアは古典的な様式であるが、すっきりとしていて美しいという。
碑文は分からないが、数々の繊細な透彫で荘厳されている。

エンタブレチュアの下面

同じく

柱頭は透彫がとれてしまっているものも。


アーチ型の階上席があるのは後期ビザンティン建築の典型であるという。


階上廊の凹面
柱頭は地上階のものと文様が違うように見えるが、はっきりとわかるほどには写せなかった。

その下のエンタブレチュアと柱頭


その凹面を裏から見る。マフフィルの設置された場所で、マフフィルに上がるための階段もあった。


これは何時の時代のものだろう。井戸水を汲んで洗礼でもしたのかな。



窓の扉には複雑なイスラームの幾何学文様はなく、返ってすっきりとしている。


『望遠郷』は、南の扉を出て鉄道線路の下を通る路地を歩いて行くとマルマラ海のほとりに着く。左側にはビザンティン時代の海の城壁の遺跡がある。
そこからほど遠くない所にビザンティン様式の大きな門チャトラドゥカプ(壊れた門)の遺跡がある。アカンサスの葉の装飾やユスティニアヌスのモノグラムが柱とドームに彫られている。この門はおそらく、大宮殿専用の港であるブコレオン港への出入口として使われていた門であろう。ブコレオン(雄牛と獅子の宮殿)の名は、かつてあった雄牛を倒す獅子の像に由来している。チャトラドゥカプのすぐ裏にある大きな階段は宮殿に通じていたのであろう。東側の柱廊の一部が残っているが、そこには大理石で縁どりをした開口部が三つある。柱廊を進むと、ドームの広間に出るという。
城壁はところどころに残っていたが、おそらく解散前にバスから見えたこの遺構がブコレオンだったのだろう
ブコレオンや城壁の遺構なども見てみたいと思っていたが、テオドシウスの城壁付近のモスクに行きたいと行った時に、アイシャさんに「城壁跡は隠れるところがあるので、治安が良くありません。少人数では行かないように。それはテオドシウスの城壁だけではありません。イスタンブールには城壁が残っているところは沢山あります。城壁跡はどこも治安が悪いので、近付かないで下さい」と釘を刺されていたので行くのはやめて、

ホテルへ戻ることにしたが、キュチュクアヤソフィア通り Küçük Ayasofya Cd.の一つ北のカレジ通り Kaleci Sk.に入ると、チャルダクルハマム Çardaklı Hamam という古びた建物があった。

もう使われていないのは明らか。


ホテルの近くの小さな商店の店先に巨大な柿を売っていたので買って帰り、一気に食べてしまった。





参考文献
「イスタンブール 旅する21世紀ブック望遠郷」 編集ガリマール社・同朋舎出版 1994年 同朋舎出版
トンボの本「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication