お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年1月30日木曜日

タルクイニア ネクロポリ


ローマからタルクイニアへは西側は海、東側は山や丘陵地帯という景色を長めながらの快適な旅。
農地や牧草地、集落を眺めるのも楽しい。
農家だと思うが、後陣が突き出した小さな教会のよう。その際に飼料貯蔵タンクがあるので家畜小屋かも😎
人の頭越しに水平線が👀
イタリアの遮音板は木製でおしゃれ。
葡萄の葉も紅葉が始まっている・・・

などと眺めているうちにエトルリア人の古墓が見えてきて、
遺跡南側の駐車場に停まった。
モンテロッツィ地区の墓地と古墓群。大きな円錐形の屋根に開口部がたくさんある。これでは目立つなあ🤔
『エトルリア文明 古代イタリアの支配者たち』は、アルカイック期は、前6世紀初頭から前5世紀前半の約130年間である。前6世紀中頃から、現在のトルコ西岸地域に相当するイオニア地方出身のギリシア人がエトルリアに移住することによって、彫刻、絵画、陶芸にはイオニア様式の影響が色濃く認められるようになる。タルクイニアの墓室墓の多くが壁画で装飾されるようになるのもこの頃からである。
ポンペイ絵画以前の古代絵画(エジプトを除く)の中で最も豊かな壁画群を現在に伝えるタルクイニアは、当時、地中海域のさまざまな地方と交易を行い、エトルリアの代表都市に成長していたという。
見学は西側から
入場すると、大きなドングリのようなものが集まっている。
これが骨壺というのではなく、エトルリア人はこの中に骨壺を収め、地下の墓室に安置したという。
エトルリア人の墓はさまざまで、タルクイニアでは大きな円錐形の屋根のある墓の地下に墓室があった。墓の建造物が失われた現在、その地下への斜路に屋根が付けられている。
ネクロポリからの眺め
ここに昔の墓地があることは古くから知られていたらしい。

見学時間が限られていたため、まず近くから、そして行列のない墓から見て回った。それを墓の年代順に、

① 牝ライオンたちの墓 Tomba delle Leonesse 前520年
斜路は階段になって広いが、墓室内はガラス窓があるだけで、中に入ることができないので、1~2人ずつ内部を見ることになる。扉右のスイッチを押すと内部の照明が付く。
墓室正面には酒の入った大きなクラテルや走る人物。クラテルの下に壁龕が設けられているのは、別の墓の断面図から骨壺を収めた空間だろう。
上の三角破風(ペディメント)に、中央の柱(墓室を支える?)の両側に向かい合う牝ライオンが描かれているのが名称の由来。
その下には葉綱のようなものが飾られた大きなクラテル(古代ギリシアの酒と水を混ぜる容器)、そして音楽を奏でる人たち。
右壁では1柱間に1人の男性がくつろいでいる。
『TARQUINIA』は奥の人は右手に玉子を持っている。玉子は生命の象徴だったという。
円柱の柱頭は独特。文様帯の下には、波打つ海原の上でイルカが跳ねたり、鳥が飛ぶ絵が巡っている。
左壁も同じ。天井には赤と白の石畳文が描かれていた。
女性は右の一人だけのよう。盛装して走っている。『TARQUINIA』によると踊り子らしいが。
それにしても人物といい、天井の文様といい、大きいなあ

② 蓮の花の墓 Tomba del Fiori di Loto 前520年頃
天井に近い部分の壁画だけが残っている。
斜路の断面図
平面図
墓室の先に掘りこんだ小さな空間がある。そこに骨壺が安置された。
ペディメントの中央には、柱とは考えられない凝った仕切りがあり、その中央に描かれたものが大きな蓮で、蓮と同じ色彩で描かれた、左にヒョウ、右にライオンが対峙している。
ヒョウは猛獣の凄みがないが、
舌を出したライオンは威嚇している様子。
傾斜のある天井には点4つからなる小花が散らされている。

③ 狩りと魚獲り Tomba della Caccia e Pesca 前520-510年頃
2室に分かれているが、
断面図では後室に壁龕ががあるので、前室には骨壺は安置されなかったみたい(説明パネルより)
前室
三角破風には獲物を担いで狩りから戻る男たちと猟犬が描かれ、
側面上部には5色ほどの水平な線が、
その下には人物と人物よりもずっと高い植物が描かれる。
前室中央から後室が見える。
その上部には召使いたちや楽士たちに囲まれた墓主とその妻が向かい合って寝そべり、食事をしている。
その下には海で陵をする男たちや海辺の岩場で石を投げて鳥を狙う男などが絵がれる。
飛び込む男(窓越しには見えない位置にある 説明パネルより)の壁画墓はパエストゥム国立考古学博物館でも見た。が、その作成時期は前480-470年頃と、この墓よりも後世のもので、パエストゥムのマグナ・グラエキアと、エトルリア-カンパニアとの国境に位置したところにその墓があった(『The Painted Tombs of Paestum』より)ということなので、飛び込む男の絵はエトルリア起源だった。

④ 軽業師の墓 Tomba delle Giocolieri 前510年頃
横縞の下が主要場面で、同書は、右端の長い棒を持ち折りたたみ椅子に座った老人はおそらく死者で、軽業師の技を審査しているという。
同書は、偽の柱はタルクィニアのほとんどの墓と同様に赤く彩色されているという。
赤いライオンと青いヒョウが柱越しに向かい合っている。
左壁
少年を連れ、杖をあげている老人はやはり墓主かも知れない。自分たちを追い越して行く若者に声をかけているような。
右壁
こちらは細い若木の間に一人ずつ立っている女性たち。中央は墓主の妻だろうか。

⑤ フツィガズィオーネの墓 Tomba della Fustigazione 前490年頃
時間がなく、外観とパネルのみ撮影。
説明パネルより
ペディメントにはシカとライオン。その下には扉が描かれている。

⑥ 豹の墓 Tomba di Leopardi 前470年頃
別のグループが説明を聞きながら見ているので、時間がかかる、かかる。
平面図には壁龕がない。
傾斜のある天井はカラフルな石畳文、中央の平たい箇所は大小の円文が細い茎で繋がっているよう。ひょっとすると蓮華(睡蓮)の咲く水辺を上から見下ろしたような図かも。
主要場面は饗宴図。
同書は、死者の名誉を祝う儀式の饗宴を表している。2組の男女と1組の男同士が寝そべって、2人の奴隷に給仕させているという。
ペディメント(三角破風)には、中央に今まで見てきた墓のような支柱はなく、低木があって、向かい合う2頭のヒョウが片方の前肢で茎を掴み、舌を出している。
左壁は、給仕たちが飲み物を運ぶ様子が描かれ、後ろの二人は楽士で、
右壁では、リラやアウロスの楽士たちと踊り手が低木の間に描かれているという。

⑦ 鹿狩りの墓 Tomba della Caccia Al Cervo 前450年頃
ベンチのような台がある。
説明パネルは、溝のある狭いベンチが部屋を巡るが、葬儀用ベッドだろうという。
ペディメントの中央には、鹿狩りの場面が表された天井の梁を支える柱状のものが描かれている。その両側には向かい合う2頭のヒョウがいるという。
その下は饗宴の場面で、3組の夫婦がクリナイと呼ばれる台に寝そべっている。
消えかかった左壁では、戦士が武器を持って踊っており、
右壁には小さな木と5人の踊り手たちが交互に表されているという。

⑧ 小さな花の墓 Tomba dei Fiorellini 475-450年頃
中には入らなかった。外観と説明パネルだけ。
説明パネルは、単室からなる墓室の天井は、中央の梁に大きな花と木蔦が描かれ、両側の傾斜の部分には、赤い円と3枚の花弁の小さな花が描かれていて、この墓の名となっている。
ペディメントの柱の両側には2羽の雄鳥が闘いの準備ができている。その下は饗宴の場面で、1組の男女がクリナイに横になり、二人の少年が給仕しているという。

⑨ ベッティーニの墓 Tomba Bettini 前5世紀半ば
説明パネルは、この墓は壁画墓の保護に尽力した美術史学者、クラウディオ・ベッティーニに捧げられているという。
天井の梁は浮彫で、花の文様が描かれているという。
ペディメントには、輪郭だけで表された支柱の両外に、2頭のライオンが向かい合っているという。
支柱は支板と表現したほうが相応しい幅の広さで、ライオンはよく見えない。
墓室の床には遺体を収納する穴があり、赤い波文で装飾されているという。
主要場面は饗宴図で、2組の男性たちが寝椅子に、その後方に女性たちが立っているという。
左壁はよく残っていない。
右壁、小木の間で音楽を奏でたり、踊ったりする場面を表しているという。

⑩ 少女の墓 Tomba della Pulcella 前5世紀末
この墓も外観と説明パネルを撮影したのみ。
奥壁に家形が描かれ、その下に大きな壁龕がうがたれ、その中にも赤色で描かれている。
天井は中央の梁、両側の傾斜のある天井ともに太い帯が等間隔に描かれているのは、壁龕の天井と同じ。
両側の壁には、2組のカップルによる饗宴の場面が描かれている。左壁に小さな女の子あるいは女給仕が描かれていることからこの墓の名称となったという。
説明パネルは、礼拝堂型棺入れはトスカーナ式円柱と、魔除けのゴルゴンの面が、両端に楽士が描かれるという。
饗宴に呼ばれた人たちの華麗な衣装の表現で、画家の技量の高さがうかがえるという。

⑪ パッロッティーノの墓 Tomba Pallottino 前5世紀末
説明パネルは、墓の名前は、エトルリア学の重鎮マッシモ・パロッティーノにちなんでいる。
天井は赤い線画。
側壁にも踊り手たちが描かれる。
女性たちの衣装が透ける素材であることをこの画家はよく描いているという。
正壁は中央に踊るハープ奏者、両側に右手にキリクス(持ち手が2つある酒杯)を持った男女の踊り手が描かれるという。
左壁は小木の間に踊り手たち、
右壁も同じ。

⑫ ゴルゴネイオンの墓 Tomba del Gorgoneion 前400年頃
外観と説明パネルのみ撮影
説明パネルは、ペディメント中央にはゴルゴンの黒い頭部と赤い舌が飾られ、その両側にはパルメットの葉文様が渦巻いている。前5世紀後半のアッティカ陶器の装飾の影響であるのは明らかだが、その表現には地方色がある。
内部は、鳥が各所にいる木々が描かれているという。
平面図で3面にベンチがあることが分かる。

⑬ カロンティの墓 Tomba dei Caronti 前150-125年頃
他の墓と比べるとこの墓だけ時代に開きがある。
説明パネルは、時をすごしたり、宗教儀式を行うベンチのある玄関ホールは、まれな例である。2つの墓室により手厚い敬意をはらっているという。
説明パネルは、玄関ホールには2つの扉口があり、どちらも浮彫された上に彩色されている。扉口の側にはハンマーを持ったカロン(黄泉国への渡し守)が描かれている。
偽の扉は冥界への入口を象徴していて、エトルリアの死の悪魔が、ギリシアの渡し守の悪魔に置き換わっているという。
そう言われても、エトルリアとギリシアの渡し守の違いがわからない。

カロンティの墓の平面図(左上の墓室が上記の偽扉口のある方、右下の墓室が下記の偽扉口のある方、説明パネルより)

もう一つの偽扉口
偽扉口はT字形の外枠があり、どちらもカラフルに彩色されている。
かなりの長期間にわたってエトルリア人が葬られてきた墓地を、駆け回っての一瞬の見学だった。
なお、モンテロッツィ墓地の発掘調査の時に出土したうちの4基の墓室を、街中にあるタルクイニア国立考古学博物館の3階に復元展示している。
それについてはこちら

      エルコラーノ2←     →タルクイニア 国立考古学博物館1

関連項目
タルクイニア 国立考古学博物館2
エトルリアの墓さまざま

参考文献
「GUIDE TARQUINIA」 Giovanni Di Capua 2009年 La cassandra-Pineto
「エトルリア文明 古代イタリアの支配者たち」 知の発見双書37 ジャンポール・テュルリエ 1994年 創元社