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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2018年9月17日月曜日

カオール バルバカヌ


いつの間にかカオール旧市街の北部に来ていた。
サンバルテレミ教会(L’Église St-Barthélémy) ②ドゥエズの館(Palais Duèze) ③ラファイエット広場(Place Lafayette) ④バルバカヌ(Barbacane) ⑤サンジャンの塔(Tour Saint-Jean) ⑥サンミシェル門(Porte Saint-Michel) ⑦墓地(Cimetière)

サンバルテレミ教会(L’Église St-Barthélémy)について説明パネルは、サンテティエンヌ教会という名で創建された教会の地に、サンバルテレミ教会は7世紀の聖ディディエの遺言に記されたカオールの信仰の施設の一部であるに違いない。14世紀初頭サンバルテレミという名称が次第に浸透した。
教会はスビル地区の北端に、中世の町の中心軸となる通りに反って建立された。教会は西向きではなく、南北の軸線で、玄関口は東で通りに面している。14世紀の建物は切石積みだが、鐘楼は例外的にレンガが多く使われている。一身廊で、通常は東にある小礼拝室群が西にある。建立されることになっていた内陣の位置は壁になっている。
1320年、ローマ教皇ヨハネス22世のてこ入れで、小教区で洗礼を授けるだけの教会の再建を完了させる計画が立ち上げられた。修復の資金は寛容に免除された。(1321または1322年に没した)ローマ教皇の兄弟の妻フレザパのジャンヌは、1321年に礼拝室を建てることを許可され、ピエール・ドゥエズ自身は1324年に、次いでその息子アルノは1332年に礼拝堂付司祭を置いた。彼の在位中にはできあがらなかったという。 
入口はバルテレミ通りに面したポーチから。
鐘楼の下にある玄関廊に入ると、飾り迫り縁(archivolte)はおおざっぱにいうと4つの弧帯(vossure)からなる尖頭アーチだが、その一つ一つは大小の尖頭アーチが複雑に組み合わされている。ゴシック様式ではタンパンはほとんど見かけない。
こうして見ると、弧帯を構成するアーチの幅には規則性がある。柱頭は花束のようなものが水平に続くだけとなった。ネコ科の動物はガーグイユではなくただの装飾のよう。
その上部は長方形壁面の交差ヴォールトになっていて、上塗りが剥落したのか、レンガが剥き出しになっている。
要石(clef)は捻れたロゼッタ
玄関廊左壁の造り付けの壁龕
扉口から入って左手に階上廊に上がる木製の螺旋階段。
階上廊への階段から分かれて南壁にはパイプオルガン用の独立した中二階のようなものがある。

南北軸の身廊に並ぶ交差天井
その先には祭壇と尖頭アーチの窓。ゴシック様式の教会にしては窓が小さく少ない。
『laissez-vous conter Cahors』は、絵画は17-19世紀、説教用の背付椅子は1663年家具職人のカオール人の親方ベルトラン・ルジエールの作品という。
そのステンドグラス。古くはなさそう。
側廊のステンドグラスは菱形文で、中心に円を置き、三葉形の組み合わせの背景が淡い色。
 祭壇脇の側廊にはフレスコ画が残っている。三角破風の上に炎が上がっている。
別の側廊の三葉形壁龕にはキリストの磔刑図が描かれている。
柱頭に人頭が付いているのはロマネスク様式の名残かな。
十字架に架けられたキリストに青い長衣の聖母マリアとマグダラのマリアが寄り添う。
三葉形のくびれには天使が。左は横向き右は前向きで柔和な顔。

教会の北面。身廊の両脇に扶壁がある。小祭室の壁面は通常の半円ではなく矩形。

回り込むと別の塔がみえてきた。これはロット川に架かるカベシュ橋から眺めると、サンバルテレミ教会の塔の手前に見えた塔だった。
説明パネルは、ピエールの兄弟は高い塔のあるりっぱな邸宅をすぐ近くに建てたという。
これがドゥエズの城館(Palais Duèze)だった。
窓ガラスがなかったり、板で塞いでいたりして、保存状態は良くない。
金属の梯子が3階の扉口に付けられている。
アーケードにはカオールやこの地方の特産品を売る店と書いてある。植え込みにはアカンサスも。
お店の前に絵葉書が並んでいたので、ここでカオールの絵葉書を購入。

そして少し北のラファイエット広場(Place Lafayette)でひと休み。
このモニュメントは、1870-71年の普仏戦争の時に戦死したロット県の兵士たちを記念して造立されたと記念碑のプレートに記されている。
その上静かな公園のベンチに座って本日のデザートを食べるつもりだったのに、周りは賑やかな高校生だらけ。やっと見つけたベンチに坐ると、この広場がかなりの高台にあることが分かった。
本日のデザートは、中央市場で買っておいたパスティス(pastis)と呼ばれる薄い生地を八重咲きの花のように重ねた焼き菓子で、中にリンゴとペースト状のアーモンドが入ったもの。簡単に紙で包んでくれただけなので、リュックの中で水平が保てず、中の水分が漏れ出していた。それを拭き取るのも大変だったが、撮影できる状態ではなかったので写真はない。
若者たちの間で潰れたお菓子を慌てて食べ終わり、ロット川の景色を眺める。ここはロット川が東から南へと向きを変えるのが見える丘。柵はあるものの下は断崖である。

この広場を境に、現在では南北のメインストリートで、中世カオールの市壁跡のレオン・ガンベッタ大通り(Boulvard Léon Gambetta)はバール通り(Rue de la Barre、棒)に名を変える。
ガンベッタ大通りを振り返り、
バール通りを北上していくと、すぐにヨハネ22世教皇通り(R.du Pape Jean XXII)との分岐が見えてくる。
その分岐には水場があったが名前はなく、蛇口の上に彫られた文は、水槽の中でものを洗うことを禁ずというものだった。その左右に貼られた紙には、一時的に飲用不可。カオールは浄水施設が壊れていたのだった。もう復旧したかな?
バール通りの先に見えてきたのがバルバカヌ(外堡)。
途中の路地

やっと辿りついた④バルバカヌ(Barbacane)。
木村尚三郎氏の『中世の街角で』は、サンジャンの塔と外堡(バルバカーヌ)は、同じくロート川に臨み、同じく14世紀のものであるが、ヴァラントレ橋と反対側の、町の東北端に位置している。そこから狭い急坂を下ってルグール河岸に立てば、下界には緑と森の美しい河岸公園が、音もなく優美に広がっていた。カオール市は自動車道をへだててすぐ上の岩山にそびえ立っているが、公園には人ひとりいない。何か夢幻の世界に足を踏み入れた心地がして、ふと感傷を誘われる。
気を取り直し、ここからふたたび町に入って、ロート川沿いにカオール市の東辺を北から南へと歩く。暗く細い露地には二階建て、三階建ての、古い、崩れかかった家々がびっしりと立ち並び、旅人の胸をふさぐ。ひっそりと静まり返ってはいるが、人が住んでいる証拠のように、男の子、女の子が時おり露地にちらりと姿を見せる。

スティル写真なら、そこにかつて繁栄をきたした中世の大商業都市、ヨーロッパの大金融センターであったカオール市の夢のような美しさも撮れるだろう。しかし映画なら、もはや老残と貧困しか表現しえないに違いないという。
しかし私は、ここでは川の流れさえ見下ろす余裕もなく、写真を撮ったのみ。

左の建物と右のサンジャンの塔の間には中世の市壁が今も残っている。
説明パネルは、バルバカヌは2つの塔に挟まれた矩形の16世紀の建物である。警護のために銃眼、門と石落としの上に銃眼付櫓があるという。
その前の広場はリュクテリウ(Luctérius、カエサル反抗したガリア人リュクテリオ)という名が付けられているが、現在は樹木もなく駐車場となっている。
バルバカヌと市壁そしてサンジャンの塔はそれぞれ積まれた石の色が異なるのは、建造された年代が違うのかな。
大きな木が邪魔で建物だけを写せない。
軒下飾りというよりも持送りで見張りの部屋を大きくした2つの塔は、下部の不揃いな石材とは違ってレンガが使われていて、後世の修復に見える。塔に挟まれたバルバカヌ(外堡)は、人の顔のようにも見える。門から中に攻め入ってきた敵兵に、鼻にあたる突出部から石を落とし、2つの塔の持送りの箇所からも石を落としたり、煮え油などを掛けたりすることができただろう。
右側面。バルバカヌと市壁の境目に、警護する兵士達の出入口が見える。

Cahors-La Barbacane LES BONS RESTAURNATSというページはサンジャンの塔(Tour Saint-Jean)は、塔の一面が開いていて、もし敵が占領したら、カオールの人たちに攻撃されるようになっている。この塔はバルバカヌを護るためのものだという。
絞首刑の塔とも言われているが、そうではなかったのだ。
バルバカヌの塔の一つを隠すこの巨木は、遠くから見て杉の一種だろうと思ったが、そんなありきたりのものではなかった。
ウロコのような葉が増えて枝のようになり、枝分かれもして、その先に若い芽が蕾のように出ているが、蕾は上の写真にあるように、毛に覆われたもの。
調べてみるとナンヨウスギに似ていた。

バルバカヌのドームを曲がると、建物の北側に城壁が残っているのが見えた。
ロータリーのあるコンシュル広場(Place des Consuls)に達すると、西に市壁の続きが見えた。こちらはかなり修復されている。
説明パネルには市壁が蛇行して戻ってきたロット川の下流側にまで続いていたことを示す図があった。
説明パネルは、1-2mの薄い壁。上部は矢狭間の穴と通路がある。
プードリエール通り(Rue de la Poudrière)に沿って進むと、300m近いカオールに残る中世の壁の最も重要な部分が見られる。サンマリの塔(Tour Sait-Mary)は量感のある正方形の建造物で、パル平野(plaine du Pal)の最後の壁がある。下の方に は、14世紀のレンガの塔に挟まれて、下の方に15世紀末の半円筒形の塔があるという。
切石やレンガなど、間に合わせのもので造られている。
これがサンミシェル門(Porte Sait-Michel)で二階建て。
説明パネルは、砲弾を発射するための装置が通路の上にあったという。
サンミシェル門の西側の市壁にはあまりレンガは使われていない。
サンミシェル門をくぐると現在のカオール市民の墓地になっていた。

この日の夕食は前日と同じレストランで。
アスパラの冷製スープ
スープそのものもアスパラ味だったが、野生のアスパラと栽培種のアスパラがスープに浮かんでいた。
一見日本のスープの量のようだが、丼鉢一杯分は十分にあり、ひんやりと心地良く完食。
ローストポーク マッシュルームソース
付け合わせの黄色と赤のものはパプリカではなく人参
イチゴとサクランボのデザート

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参考サイト
Cahors-La Barbacane LES BONS RESTAURNATSというページ

参考文献
「laissez-vous conter Cahors」という小冊子 Emmanuel Carrère 発行年不明 service communication ville de Cahors
「中世の街角で」 木村尚三郎 1989年 グラフィック社