お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2019年3月25日月曜日

アルビからカルカソンヌ


アルビからカルカソンヌへ。カルカソンヌはアルビの南方にあり、直線距離で80㎞ほどなので、県道を南下するのだろうと思っていたら、いきなり高速に入り、しかも旅の出発地トゥールーズに近づいた。
Google Earth より
トゥールーズ近くのパーキングで休憩し、晴れていればピレネー山脈が見える方向を恨めしく眺めていた。
対向車線はやや通行量が多かったが、
北側(左手)に黒っぽい丘がみえるようになってきた。モンターニュ・ノワール(Montagne Noir、黒い山脈)と呼ばれる低い山脈で、運河に不足する水をその山脈から流れ出る水をにでまかなうことでピエール・ポール・ピケはミディ運河を開通させたのだという。バスからは見えなかったが、ミディ運河の近くを高速道が通っている。
カルカソンヌまで12分。
一方右手(南側)は相変わらず小麦色の畑が多かったが、
ワインの製造所も
葡萄畑

高速道路を下りて一般道へ。二重の市壁に囲まれたカルカソンヌが遠望できる場所で写真ストップ。
かなり遠くから撮っているのでやや霞んでいる。これがタイトルバックにしているライトアップされた二重の市壁に囲まれた町カルカソンヌ。
げっ、例のものがここからも見える🤢
左手にはモンターニュ・ノワールを背景にカルカソンヌの新市街。
さすがにフランス有数の観光地、渋滞は田舎巡りでは初めてと思っていたら、この先で工事をしていただけだった。
段々と近づいてくるカルカソンヌ、教会の尖塔も現れた。
丈の高いエニシダの花がそこここに咲き乱れていた。

ようやく到着し、バスを降りたところが墓地の前。
その奥に円錐形の屋根を戴いた監視塔が幾つか見えているが、これまでにも登場したヴィオレ・ル・デュクが修復したもので、本来の姿とは変わってしまったという批判されているという。彼はプロスペール・メリメと共に、フランス中の荒廃した建物や壁を修復している。その熱意には敬服するがいかがなものか、というのが現在の見解となっている。

カルカソンヌの地図
LA CITÉ DE CARCASSONNE』によると、紀元前より交易路の要衝として栄えた町カルサク(Carsac)が、古代ローマの属州として整備され、その後は439年にウァレンティアヌス帝と西ゴート族のテオドリックが協定を結んで西ゴート治下に置かれることとなった。508年には西ゴートはフランク族の配下となり、継いでイスラーム勢力が進出してきた。725年、アンダルシアの総督に治められるようになって、その時代にカルカソ(Carcaso)という名称からカルカソナ、カルカシオネ、カルカシュナ(Carcasona、Carcassione、アラブの文献にあるCarcachouna)などに変化したという。

右の方に移動していくと、正面にナルボンヌ門(Porte de Narbonnaise)。ナルボンヌへと通じる門である。
近寄るにつれ、門の両側にある赤い屋根の塔が不思議な形をしているのが分かってきた。円塔のようで、稜があるのだ。
カルカス夫人の胸像(コピー)
シャルルマーニュがカルカソンヌを何年も包囲していた。食糧が果てようとした時に、カルカス夫人は太らせた豚を壁から投げ落とさせた。それを見て、シャルルマーニュはまだ食糧はたくさんあると判断して撤退した。そのカルカス夫人の名前から町の名称がカルカソンヌとなったということだが、『LA CITÉ DE CARCASSONNE』には、前7世紀にはカルサク(Carsac)という町が現在の町の南西にあったこと、前6世紀半ばに現在の地に町が移り、以来交通の要衝として栄えたこと、カルカソンヌという名称は前1世紀に初めて現れることなどが記されているが、カルカス夫人についての記述はない。

カルカソンヌは二重の壁に囲まれている(同書より)

内壁の監視塔を右から、トロケの塔(Tour du Trauquet) トロケ(Trauquet) サンローランの塔(Tour Saint-Laurent) ダヴジャンの塔(Tour de Davejean) 外壁の監視塔は右からペイルの塔(Tour de la Peyre) ヴァドの塔(Tour de la Vade)
内側の壁面には半円アーチ形の二連窓があったり、監視塔にはゴシック様式の三つ葉形尖頭アーチの窓があったり。

サンセルナンの聖所の塔(tour du sacraire Saint-Sernin)
同書は、1793年に壊されたサンセルナン小教区教会の後陣の一部だった。1441年にフランボワイヤン様式の装飾のある窓が開かれたという。

さて外側の門をくぐると
上には熱湯(油)や大きな石などを落とす穴
鎖のある吊り橋
門の正面には内側の門はなく、右方向へ。
ヴィオレ・ル・デュクによって掛けられた吊り橋は現在では疑問視されているという。

右手の外壁と内壁の間
同じく左側。
同書は、サンセルナンの聖所の塔、トロケの塔、サンローランの塔、ダヴジャンの塔は、13世紀に間の壁体と共に古い土台の上に高く積み上げたという。

聖母子像が掲げられたナルボンヌ門。矢狭間の切れ込みが各所に。
トンネルをくぐるとカルカソンヌの中世の町のメインストリート、クロ・メルヴィエイユ通り(Rue Cros Mayrevielle)。
ナルボンヌ門の内側
ゴシック様式の三つ葉形尖頭アーチが並ぶ三階は騎士の間。
下の門となだれ込む観光客たち。
その左手一階に観光案内所。門ぎりぎりに通路がある。
観光案内所の中は、ゴシック様式の教会の後陣のように放射状にリブ(肋)が出ている。
リブの間は壁龕になっていて、それぞれに小さな窓。
丸い柵の中は、
井戸だった。
この天井の高い空間
今では土産物売場

門のもう一方の側に階段があったので、
上って通りを撮影。向かい側はスイーツの店。
クロ・メイルヴィエイユ通りは観光客で溢れているが、
路地は閑散としている。

お城広場(Place du Château)には胸像があるが、誰も注目していない。
私は左の建物の日時計と、奥の建物の装飾が気になる。

広場の向こうにはコンタル城(Château Comtal)の門と城壁。
城壁の傍のオード門通り(R.de la Porte d’Aude)へ。ここでも木組み(コロンバージュ)の建物が。
通りの右側へ
そこはお城の絶景ポイントだった。
堀まで進んで撮影。
59、51、52の監視塔


通りにもどると、三つ葉形尖頭アーチの上側だけを並べた軒飾りの家や、
装飾的な木組みの建物が。
木組みの壁面は、王家の紋章アイリス(fleur de lis)を十字の箇所に置いたり、窓の下角に人頭があったり。
でも、一番気になったのは、中央が凸面になった窓ガラス。

その先でサンルイ通り(Rue Saint-Louis)に入ると、サンナゼール聖堂(Basilique Saint-Nazaire)が見えてきた。
そして教会の北面が見えるオーギュスト・ピエール・ポン広場(Pl.Auguste Pierre Pont)。
我々が2泊するオテル・ド・ラ・シテ(Hôtel de la Cité)。
広場の反対側。
建物の間に空中廊下が。

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関連項目
カルカソンヌ コンタル城

参考文献
「LA CITÉ DE CARCASSONNE」 François de Lannoy 2008 Éditions du patrimoine Centre des monuments nationaux