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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年6月1日火曜日

竜山石めぐり


見残したものが幾つかあるので、再び石の宝殿に出掛けた。
駐車場のすぐそばにあったのに見逃した竜山1号墳をまず探す。
石の宝殿の地図 『石の宝殿神社史跡めぐり』より

前回は駐車場裏の岩の斜面しか見ていなかったが、屋台蔵の右手に確かに標識が立っていた。
前回は咲いていなかったこの白い花
ピンクの蕾が開くと白い花となる。
標識の近くに石棺の身と蓋が転がっている。

竜山1号墳
『石の宝殿神社史跡めぐり』は、石棺とその蓋がむき出しで見られます。採石場を纏めていた首長の墓とも言われていますが詳しくは不明ですという。
近寄ってみた。
蓋には縄掛け突起は見当たらない。
身の方は彫りが浅いし、大人の棺にしては小さい。

続いて生石神社へ。
浮石と呼ばれるもの。これだけの石塊を切り出すには、ひび割れなどがない岩塊を探しただろう。

というのも、大ズワリと呼ばれているところは、岩壁に亀裂があるからだ。
『石の宝殿神社史跡めぐり』は、下の岩場と奥の岩壁が、直角になっている。岩が固まる時に出来る水平方向の割れで、浮石をつくる前の状況を垣間見ることができますという。
ここでは縦の割れが縦横に走っているので、石の宝殿ほどの大きなものは切り出すことはできなかっただろう。

「石の宝殿竜山めぐり」の地図には赤い破線で「昔の運河跡」が示されている。そのやや下流に「昔ここを堰き止めて石積み船で運びました」とある。

神社からその辺りまで行ってみた。

絵馬堂の下の階段を降りて行く。
かなり急で、石段の幅がない。
1つ目の階段を転ばずに降り、県道392号線から見上げると、絵馬堂の向こうに生石神社の注連縄が見えた。
続いて県道393号線へと下っていく。鳥居が斜めについているのか、道路が
無事に降りてきた😅
左側に丸に三本並び矢の紋
右には丸に違い矢の紋
『ガイドブック』は、塩市山の北側の山麓にあったもの。採石により落下し2つに割れました。この家紋はどこにも無く、姫路藩の専売品となったのを記念して石工達が作ったものではと言われていますという。

近道はないかと探したが、やっぱり393号線の坂を下って生石橋沿いの道路に出るしかなかった。

勤労者体育センターと研修センターの間に家型石棺が見えていた。
山の上の方に見えているのが生石神社。
でも縄掛け突起のある蓋だけだった。
これなら石棺と言える大きさ。家形石棺蓋石(天磐舟)
説明パネルは、生石神社の社記に「この山頂に石あり、土中に入る。その形舟の如し、故に磐舟と名づける。むかし大己貴神、少彦名神 乗り来たり給う」云々とあるのがこれであるという。
もとは伊保山の南面に背部を下向けにし、落下寸前の状態となったため、現在地に移設したもので、5世紀末から6世紀初頭ごろの家型石棺の蓋石である。播磨地方に多く遺存する石棺中でも、大きさにおいても屈指の遺品であるという。
かなり風化しているが、縄掛け突起が長手に2つ、短手に1つある。
棺蓋の内側

時計の近くにも同じような色の竜山石が置かれていたが、特に説明はなかった。オブジェかな

裏側に回ると、

銀水の井戸
説明パネルは、洗川が本流であった加古川の流れを変え、港湾を整備し、高砂城を築いた池田輝政の慶長年間に豪商で塩屋役を務めた加茂氏(当主加茂裕造氏)が、北本町の敷地内に設けた井戸である。
竜山石を贅沢に使い、外側は野面の趣を残し、内側は面取り加工を施し、巧妙に組み合わせている。
冷たく美しい水が湧くので、先祖代々からこれを「銀水の井戸」と呼称しているという。

刳り抜き石棺身 
竜山石製 出土地不明 古墳時代後期
竜山1号墳と同じように、小さく浅い。

織部灯籠
竿に丸く膨らんだ部分があるため、十字架の形とか、その下に地蔵が浮彫されていることなどから隠れキリシタンと呼ばれてきた灯籠の形。宝珠と笠の石と、火袋から下の部分との色が違い過ぎるので、下部は新しいかも。
先ほどの建物から続いて縁にずらずらと角張った石が並んでいる。
説明パネルは、高砂町遺跡発掘調査で出土した江戸時代の建物遺構の礎石です。
礎石は柱の下においた土台の石です。地元産の竜山石でつくられています。墨書きしているものや矢穴が残っているものがありますという。

棺身
説明パネルは、この石棺は鹿島中学校北の北の台地にあった阿弥陀古墳群のうち1号墳の羨道中央に置かれていたもので、古墳時代後期(6世紀)頃のものである。
調査時にはすでに棺蓋もなく全貌を知ることは出来ないが、多分家型石棺の棺身と考えられる。材質は本市伊保山の竜山石であり刳抜式石棺であるという。
多少砂がたまっているといっても底は浅い。副葬品も入れず、遺体だけならそれで良かったのかも。

現在の竜山石採石場が見えてきた。『ガイドブック』は、明治33年国から払い下げの許可を得て個人の所有となるという。
この辺りではホトトギスがしきりに鳴くのだった。カッコーを初め、ツツドリやジュウイチなど托卵する鳥は、もっと深い森や山で声を聞くことがあったが、こんな平地の、しかも住宅地にいるとは思わなかった。
私の住まうところでも、2、3年前までは1年に1日だけホトトギスが鳴いたので、渡りの中継地なのだと思って、それも楽しみの一つだった。そして何故か今年は午前4時半頃にホトトギスを真似たような鳴き声が聞こえてくるので、若いホトトギスだろうかなどと思ったりするが、一向にホトトギスの鳴き声にならない。

柵が続いている。草茫々で見えないが、これが「むかしの運河跡」とされているものなのだった。現在は小道になっているものと思って、その道を歩くつもりでいたので勝手が違ってしまった。
『ガイドブック』は、昭和15年ごろまでこの運河を使って積出しをしていましたという。

再び運河跡が見えるところに来た。どれくらいの舟で石を運んでいたのだろう。

見えないうちに研修センターの駐車場に来てしまって、うっかりと法華山谷川沿いの道路に出てしまったので、1/5サイズの浮石のレプリカは見損ねた😅
社殿のおかげで、どこから見ても生石神社の浮石のある場所がわかる。

住宅地が終わったあたりの運河。

法華山谷川の石川橋が見えたところで本日の散策は終了。 
『ガイドブック』は、石川橋のすぐ上流で堰き止めし水位を上げていた。川の改修工事で遺跡は無くなりましたという。

生石神社の駐車場まで戻って、県道393号線の石畳の坂を下りて、別の場所に竜山石を見に行った。

昔はバードウォッチングに度々訪れた平荘湖の北方に長楽寺という曹洞宗の寺がある。その墓地に石棺仏があることを『石
宝殿 古代史の謎を解く』で知ったのだった。
お寺は小さかったが、楼門の2階が鐘楼になっている。
駐車場からお寺に向かうとまず昔の墓地があり、その中に存在感のある石塊はすぐに目に付いた。縄掛け突起もあるのだが、作りかけなのか、これでは縄は掛からないだろう。その上長手の左右の突起は位置がずれているし👀
家形石棺の蓋としては傾斜が少ないし。
六尊石仏 1基
説明パネルは、凝灰岩(竜山石) 製 現高183㎝ 幅121㎝ 南北朝時代 (14世紀) 
縄掛突起のある家形石棺の蓋石の内側に六躯の仏像を半肉彫。石棺の内側に舟形の輪郭を、上下3段左右2列に6つ彫りくぼめ、それぞれに阿弥陀如来と地蔵菩薩を彫る。 
近くの小畑東地区に立つ「八つ仏石仏」とともに、南北朝時代の 大形で迫力のある石棺仏として知られている。
石棺材に複数の仏像を彫り出したこのような形式の石仏は、 加古川地域の特色を示すものでもあり、この石仏は、加古川市を代表する石仏として貴重なものであるという。
南北朝時代のものということで、蓮台に結跏趺坐する阿弥陀如来は来迎印を結んでいるのだろうが、力士が腕を組んで座っているようで、素朴な味わいがある。


        石の宝殿

参考文献
「石の宝殿神社史跡めぐり」 2020年 石の宝殿研究会
「石の宝殿竜山めぐり」 石の宝殿研究会 いずれもリーフレット
石の宝殿竜山めぐり ガイドブック」 石の宝殿研究会(石研くらぶ)2020年改訂版 
「石宝殿 古代史の謎を解く」 間壁忠彦・間壁葭子 1996年 神戸新聞総合センター