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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2019年4月8日月曜日

カルカソンヌ コンタル城


カルカソンヌは二重の壁の囲まれたシテと呼ばれる街区の中にコンタル城(Le Château Comtal)が、オード川側の内壁を背にして立っている。
コンタル城及び周辺の監視塔(『LA CITÉ DE CARCASSONNE』、以下『CARCASSONNE』より)
㊿東のバルバカヌ(堡塁、Barbacane de l’Est) 51-52:東門の塔(Tours de la porte de l’Est) 53:カセルヌ塔(Tour des Casernes) 54:マジョール塔(Tour du Major) 55:ドグレ塔(Tour du Degré) 56:礼拝堂の塔(Tour de la Chapelle) 57:火薬塔(Tour de la Poudre) 58:パント塔(Tour Pinte) 59:サンポール塔(Tour Saint-Paul) ㉛正義の塔(Tour de la Justice) ㉜オード門(Porte d’Aude)

コンタル城の歴史についてのパネルがあったので、まず歴史から。

12世紀初頭 領主のトランカヴェル家(Trancavel)が4世紀のガロ・ロマン時代の城壁を背にして最初の城を建造した
12世紀半ば 礼拝室が北側に建てられた。最初の囲い壁、或いは塀は同時に二重の濠も築かれた 
12世紀末 直交する翼と正面の柱廊のある最初の建物を完成させた
13世紀初頭 困難な時代、アルビジョワ十字軍との戦いと1209年のカルカソンヌの最初の包囲の時に主塔ののこぎり壁で城の防御を強化することとなった。58:パント(Pinte、監視)塔を高くした
1226年 カルカソンヌはフランスの王領となった。この時以来、城の護りはシテ(街区)の側面を、突発的な民衆の反逆に具えて強化した。囲い壁と外堡を造った
プリミティヴな砦は領主の邸宅と変身し、本館と主塔は高くなり、新しい建物が南の中庭に建立された

さて、コンタル城の門をくぐって半円形の㊿東のバルバカヌ(Barbacane de l’Est、外堡)へ。
反対側から見たバルバカヌ、パネルによると1226年に造られた。写真左手が入場券売場。
正面には監視塔の並んだ城壁が目の前に立ちはだかる。距離がないので1枚に写すのは無理。
左より、59:サンポール塔(Tour Saint-Paul) 51-52: 東の門の塔(Tours de la porte de l’Est) 53:カセルヌ塔(Tour des Casernes) この辺りは1226年に建造された。
その右に 同じカセルヌ塔 54:マジョール塔(Tour du Major)
コンタル城への入場は午前が混雑するそうだが、午後にはもう行列はなく、右の券売所へ。
無理なパノラマ写真
南北の城壁巡りも含めて9€。別の出口から橋へ
1226年に取り付けられた橋を渡る。正面のシャトレ(小要塞)は一対の塔と中央の建物には落とし格子戸と石投げ穴で防御された門である。
橋から北方向。現在は空堀で遊歩道もある。
『CARCASSONNE』は、53:カセルヌ塔(Tour des Casernes)と54:マジョール塔(Tour du Major)は1250年に建造された。
堀をまたぐ橋は昔は跳ね板で侵入を妨げていた。バルバカヌよりも早く造られたという。
矢狭間に囲まれながら入って行く。ここには2つの落とし格子戸(鬼戸)の仕掛けがある。

中に入ると左に木組み(コロンバージュ)の建物。正面の角塔は主塔(ドンジョン、donjon)、
大きな木が2本。観光客が日陰で説明を聞いている。
右の壁は外から見えた監視塔が並び、
その手前の対の塔の裏側にはロマネスク様式?の半円アーチと二段のアカンサスの柱頭
右に回って木組み(ルネサンス様式)を眺めて、
隣の建物の下を通り左の扉口へ。
階段のマーク
この部屋の暖炉とその前に展示されているガーグイユ(ガーゴイル、樋口)
木製の階段を上がって
2つ上の階の部屋へ。
通路の窓ガラスから見えたのは53:カセルヌ塔(Tour des Casernes)と巡視路。やっと同じ高さまで来た。
それよりもこのガラスのすごさ
いつ頃の板ガラスだろう。

部屋に入って「城塞都市の歴史」という説明ビデオを鑑賞
別の部屋にはカルカソンヌのジオラマがあって、
上から撮影するが、通りも建物はなく凹んでいる。
コンタル城を拡大
58:パント塔(監視塔、Tour Pinte)内部と現在地(赤丸)
説明パネルは、監視塔またはパント塔は城で最も高く、カルカソンヌでは珍しい矩形の塔である。領主の権力の象徴だった。上の踊り場に上るために木製の梯子と踊り場があったが、現在では金属のものになっているという。

窓からサンルイ(カルカソンヌの市民の居住区)を眺める。この窓ガラスは古くなさそう。
いよいよ巡視路へ
下を覗くと橋が階段状の中庭だった。
階段方向に①東のバルバカヌ(堡塁)その向こうに㉑・㉒ナルボンヌ門の赤い双塔が見える。
壁には等間隔で矢狭間があり、そこから光が入ってくる。
南の正義の塔(Tour de la Justice)
巡視路の外側。矢狭間の下には石落とし
三つ葉形尖頭アーチから漏れいる緑
城の東端
59:サンポール塔(Tour Saint-Paul)へ
木造の螺旋階段を少し降りて塔の巡視路へ
城の東側から中庭と58:パント塔
東の堡塁(バルバカヌ)
51-52:東門の双塔へ
東門の双塔のうち51
鬼戸(落とし格子)と撲投用武器
説明パネルは、鬼戸は高さの異なる操縦室から操作するが、突発的な兵士たちの裏切りから守るために、それぞれは連絡しあうことはないという。
赤い点が現在地
町に面した城門は二重の鬼戸と重い扉と石落としか撲投用武器で防御する仕組みになっている。門は出っ張った2つの塔に守られ、弓または弩の狭間があるという。 
双塔の間の天井。ヴィオレ・ル・デュクの案で復元されたものとはいえ木材が剥き出し。
石落としの穴
双塔の一つ52の天井組み
その壁面

双塔を出ると、木組みの建物の脇に来ていた。
主塔
説明パネルは、主塔は宮殿の一部としてトランカヴェル家によって建てられた。その正面は建造時の幾つかの段階が見て取れるという。
穴の線の上に、おそらくカタリ派に対するアルビジョワ十字軍の時代の13世紀初頭に付けられた防御を示すぎざぎざの跡が目に付く。13世紀に主塔が増築された時にぎざぎざは埋められたという。

53:カセルヌ塔(Tour des Casernes)へ
『CARCASSONNE』は、この防御のために張り出した装置は安全である。有事の時にだけ取付けられた。通路を支える梁は穴に差し込まれているという。
巡視路の屋根は片流れ
通路は狭い
石落としの穴
カセルヌ塔に到着。
カセルヌ塔から眺めたナルボンヌ門とバルバカヌ(堡塁)
張り出し部分の取付け
説明パネルは、櫓は頂部に設置された木製の通路である。木材は石壁に穿たれた穴に嵌め込まれた。床の隙間は下に向かって弓を引いたり、石を投げるためのもの。外の仕切りからも隙間から矢を射たりした。木材は火災に備えて表面を濡らした皮で覆った。12-13世紀には櫓はよく使われたが、やがて火に強い石落としに取って代わった。
ヴィオレ・ル・デュクは、城のデッサンで、要塞すべてに櫓を付けた。彼の跡を継いだ者は、1911年のシテの修復で、ここだけに設置したという。 
落とす石を運ぶ様子や弩を構える兵士
内側の二連窓は半円アーチ
『CARCASSONNE』は、シテのある家屋から借用されたという。
ロマネスク期の柱頭のよう 
どちらもライオンの頭部が外向きで見えないのが残念。
外に出っ張った形の塔だった
54:マジョール塔(Tour du Major)へ
通路が狭いのは城壁上部の凸壁があるから。
広い中庭とトランカヴェル家の住居
マジョール塔(Tour du Major)は螺旋階段を降りただけで、塔を出て振り返ると、53:カセルヌ塔(Tour des Casernes)の中庭側は平らになっているのが見えた。
55:ドグレ塔(Tour du Degré)へ
中庭

ドグレ塔から眺めた北の城壁とシテの北端。カフェやレストランばかり
56:礼拝堂の塔(Tour de la Chapelle)へ
サントマリー礼拝堂は今は残っていない
トランカヴェル家の住居と主塔(ドンジョン)
階段を上ると
外に張り出した監視塔
窓から見えるのはサンジメ教会(l'Église Saint-Gimer)だが、よく見ると後陣の手前(斜面)に円弧が部分的に残っている。
説明パネルは、ヴィオレ・ル・デュクが1859年に建てたサンジメ教会のところに、川の名に由来するオード堡塁(バルバカヌ)があった
この円形の建物は城の西の護りで、川への行き来を確保し、川の管理をしていた。城との連絡路が、高い壁に囲まれて現在も残っているという。
くの字に折れた2つの壁が残っている。
ガロ・ロマン時代の城壁を背にトランカヴェル家の住居が建てられている様子。
次の57:火薬塔(Tour de la Poudre)も外側に張り出した監視塔
説明パネルは、この塔は城の西門を護っている。17世紀に弾薬の保管に使われていたので、この名称が付けられた。
火薬を使用した大砲は14世紀に始まる。しかし、この時代は、鋳造された大砲は壊れやすく、壁に簡単に砕ける石の玉を投げていた。
15世紀末より青銅製の大砲が一般的になり、金属製の玉は破壊力があった。カルカソンヌでは、二重の城壁の護りを続け、砲台の整備はほとんどしなかったという。

下の階に降りると、
現在はトランカヴェル家の住居は博物館になっていた。

    カルカソンヌ サンナゼール聖堂←  →コンタル城の博物館と北の周壁

関連項目
カルカソンヌ 西の周壁

参考文献
「LA CITÉ DE CARCASSONNE」 François de Lannoy 2008 Éditions du patrimoine Centre des monuments nationaux