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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年5月18日火曜日

石の宝殿


「石の宝殿」という言葉は子供の頃から聞いていて、列車で通り過ぎる時に、あるいは新幹線から採石場が見えていたので、石が宝の山のように沢山あるところなのだと思っていた。 
あるとき、仏教美術やらロマネスク美術やらやっているのに、地元のことを何も知らないとこに気付いて、『播磨国風土記』に関する本を開いてみた。

『播磨国風土記を歩く』の「印南(いなみ)の郡」は、夫の仲哀天皇と一緒に熊襲を征伐するために勇ましく筑紫へ向かって難波津を船出する。ところが内海にあるうちに早々とシケに遭って二人は苦しみ、船を印南の浦に泊める。
すると風波はおさまって海は凪いで静かになったので、そこから入浪の郡といった。印南の郡と呼ばれるはじまりである。
九州に着くと筑紫の橿日宮で仲哀が急死してしまう。すると妻の神功皇后は側近とはかって子を宿したまま海を渡って三韓を征伐したと伝えられる。どこまで史実かわからないが、播磨国風土記によると女帝の神功は勝って帰って来る時も印南の浦に立ち寄っている。
神功皇后はここに夫の墓を建てようと思い立ち、石作連大来を連れてわざわざ讃岐国まで渡って羽若の地で石を求めて帰ってくる。さらに神功皇后は住まいも印南の浦に求めようとしたらしい。
神功皇后の消息はそこでぷっつりと途切れ、あとは石の話となるという。
これでは印南の浦だけで、石の宝殿は関係なかった。

同書は、石作連大来が美保山がいいでしょうと提案したと風土記にある。いまの伊保山である。すぐ東の龍山とともに古くから石材の産地となっていたところである。そこで採れる龍山石は大和まで運ばれて石棺に使われるほどよく知られていた。
龍山の白っぽい採石跡は遠くから見ると崩落を続ける自然の異形みたいだが、近づくと巨大な木彫の場に立ち会った気になる。一つ一つの切り出し跡に作業と搬出法を考えつくした意志が千年分もこもっているので、一見して素材の木を削りながら造形していくのに似た印象があるという。
竜山石は石棺にも利用されていたのに、神功皇后はその産地に来ながら、讃岐まで石を採りに行ったということが気になっていた。

また『播磨国風土記を歩く』は、風土記ではそれを大石と呼び、新しく入ってきた仏教を排斥して名を上げた物部守屋が造ったものとして「その形家屋の如く」と書いている。幅6.5m、高さ5.7m、奥行5.46mの巨大な石の造形物で生石(おおしこ)神社のご神体である。
風土記のいうように棟を西に倒したような家形である。底はまだ岩床から切り離されていないから石が生きているということなのだろう、生石と呼ばれる。
何を完成しようとしたのが謎なら、なぜ中断されたのかも謎、社伝によると大国主命と少彦名神が石の神殿づくりにとりかかったが、途中でふもとの里で阿賀神が反乱を起こしたので急いで鎮圧に下山し、反乱が治まってもそのまま放置されてしまったという。

以前に見に来たときは参考になるものがなく、文字通り見ただけで、確かに石造の建物が横向きになっているなあと思ったに過ぎなかったが、今回は石の宝殿研究会が制作された2枚のリーフレットのおかげで、少しは理解が深まった気がする。
石の宝殿竜山竜山めぐり 石の宝殿研究会作成のリーフレットより

加古川バイパスから姫路バイパスへと続く自動車道の高砂北ランプをおりて、県道392号(伊保阿弥陀)線を南下。
狭い道だったが離合もできて、ほどなく広大な駐車場に到着。反対側が採石場となっている竜山が視界を遮っている。

神社へと続く岩山
見えているのは神輿蔵で、その隣に竜山1号墳があるのだが、まだ地図を入手する前だった😥

生石神社の鳥居からゆるい坂道となる。

その途中から、竜山の採石場側が見えてきた。

この近くから竜山へ登ることができるらしいことは調べていたが、現在は危険なので通行禁止になっているのが登山口が閉まっていることから分かった。あちゃ😆

『石の宝殿神社史跡めぐり』の地図③より入る。
石の宝殿の地図 『石の宝殿神社史跡めぐり』より

坂道はいくらも続かず、すぐに神社に到着。


名前は生石神社でも、御神体が石の宝殿。詰所の中央から入って続く拝殿を通るというのは、木造の建物ながら、洞窟の中へ入っていくような感覚だ。
『石の宝殿神社史跡めぐり』は、現在の本社(拝殿)は天保15年(1844)に棟上げ再建されもの。右側に少毘古那を左側に大穴牟遅の2神が祀られています。このような造りは「割り拝殿」といいますという。

洞窟を抜けようとす
ると、正面に御神体の岩が立ちはだかっている。
抜けてもあまりにも近すぎで全体が見えない。もっと後方に社殿を建てていたら、入ったところで巨岩全体が視界に入って、その大きさに感嘆しただろうに。

左手から右繞する。
『石の宝殿神社史跡めぐり』は浮石と呼んでいて、465tもある巨大な石造物。浮石の下は水平方向に割れており、東側に溝を深く掘り、立てようとしていたようですという。
立てられたとすると、この面は地面側になっていた。
一辺全体を写すのも困難
渇水期でもなければ水が回っているし、下側がえぐれているので、浮いたように見えたのだろう。

建物の胴側に幅のある切れ込みがある。
いまでも彫りの鋭さが残っていて、見上げると格好ええなあ~

この曲面は・・・そうそう、屋根にあたるところや


角を曲がりかけたとき、突起が目に入った。

突起は何のため?宝珠のようなものを削り出すつもりだったとか

突起の向こうの崖には、白い窪みに何かのマークが浮彫されているような・・・

突起とはいっても、かなり大きい。
突起には縦方向にひび割れがたくさん。やがて崩れてしまうんかなあ😧

かなりの高さがあるので、天辺を見上げると直線的な辺がたくさんあって、かっこええなあ😃
石の宝殿を見に来た当初の目的も忘れて、写しまくる。
当時の建物ってこんな突起があったんやろか🤔
縄には2本の板が掛けてある。
妙なオヤジがいつものように片手でカメラを構えている。なぜ両手で持たないのかは謎。本人はそれでもピントが合っていると思っているが・・・😅
金魚も泳いでいる😮
一周して正面(建物としては底)の上部

次に岩を削り出した岩肌の階段へ。


石の宝殿を見下ろしながら登っていく。

この岩山を横向きの家形に彫り込んでいったものだと納得😊

土が積もって木が生えていたりするが、両側壁の窪みに続いて、この面にも彫り込みがあるのだろうか。

途中だが、宝殿山の頂上へ行った。


階段を登りきって振り返る。煙突の向こうに上島が見えた。
向きを変えると竜山石の採掘場。現在でも続いている。

頂上の休憩所

ここからは、西側の山にも採石場があるのが見えた。

そして南側の竜
山では、現在でも採石が行われているが、今いる石の宝殿山は採石されなかったのかな。

「石の宝殿竜山めぐり」の地図には赤い破線で「昔の運河跡」が示されている。そのやや下流に「昔ここを堰き止めて石積み船で運びました」とある。「昔」がいつ頃からかは不明だが、この辺りの平らになっているところが往時の採石場だったのだろう。

北側に行ってみた。遠方には昔よく縦走した高御位山と峰々、住宅街の間に加古川バイパスが眺められた。


お花畑というほどではないが、この頂上部は岩だらけなのに小さな花々が咲いていて、移動する度に熊ん蜂が追いかけてくるのだった。
そういえば、熊ん蜂は藤の花が咲く頃によく見かけていたのに、今年は早々と咲いた沿いに並ぶソメイヨシノの一本一本がそれぞれの熊ん蜂の縄張りだと、車で通りながら気が付いた。
それで、 くまんばち 藤より前に 桜守り などという季語だらけの句を作ってみた。川柳ということでいかがでしょう そうやな(by 老母)
山桜が散る頃に、里山の雑木がさまざまな色の新芽を出して、毎日その色を変え、そして山の嵩が増していく。春はそんな頃が一番好きなので、
桜散り 淡い錦で 山太る という句も作った。 ええ句やね(by 老母)

小さな薄紫の花の群生。
なかなかピントが合いにくい。マツバウンランという名称だが、ランではなく、ゴマノハグサ科の植物。

岩の表面が面白い。これってブラタモリで言っていた片理?
どうやら風化すると片理の表面が一片ひとひら剥がれて、
れが細かく砕けていくらしい。

戻ってふたたび石の宝殿を見下ろしながら
降りて行った。

ちょっと戻って霊岩なるものも写しておく。


そして大ズワリへ
座りキズともいうらしい。
『石の宝殿神社史跡めぐり』は、下の岩場と奥の岩壁が、直角になっている。岩が固まる時に出来る水平方向の割れで、浮石をつくる前の状況を垣間見ることができますという。
もともと水平方向に割れがあることを知っていたので、石材を切り出し易かったが、

この辺りにも花が咲いていて、
ニワゼキショウでええのかな
そしてニガナ

戻ると詰所の反対側の絵馬堂の下に階段があって、県道392号線とその下に県道393号線が見えていた。

竜山側から石の宝殿山を望む。浮石は見えなかった。

                    →竜山石めぐり

関連項目

参考サイト
小冊子【石の宝殿と竜山周辺史跡】
石の宝殿の平面図や側面図、座りキズなどが描かれていて参考になります

参考文献
「石の宝殿神社史跡めぐり」 2020年 石の宝殿研究会
「石の宝殿竜山めぐり」 石の宝殿研究会 いずれもリーフレット
「播磨国風土記を歩く」 文・寺林峻 写真・中村真一郎 1998年 神戸新聞総合出版センター
「古代からのメッセージ 播磨国風土記」編者播磨古代学研究所 監修者上田正昭 1996年 神戸新聞総合センター