アヤソフィアは正面に見えているというのに、右側のミマールスィナンが1556年に設計したヒュッレムスルタンハマム Hürrem Sultan Hamamı のそばを通った。何故かというと、入口は聖堂の右手なのに、長い行列ができていて、その最後尾に並ぶためである。
アヤソフィアについて『トルコ・イスラム建築』は、建物の内側に現れるペンデンティブの球面三角形の後ろには充填材が詰められ、建物の外側から見ると平面が正方形の背の高い直方体の上にドームの半球が置かれたように見えるという。
ハマムはあまりにも近すぎて全体を写せない。
絨毯博物館になっているということで、前回来た時は中を見るために入館しようと思っていたら改装中だったが、今では高級ハマムになっているという。
ローマ浴場 thermae の流れを汲むので、カルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)などの部屋に分かれて、それぞれの部屋にドームがある。
ハマムは他にも見てきたので、後日忘れへんうちにの記事にします。
大きなドームのある建物に中小の建物が続いて、
アヤソフィアはメフメット2世がコンスタンティノープルを陥落後モスクに変えていたものを、アタチュルクが宗教と切り離して博物館にした。
前回は二階にも上がって、聖母子図に一番近いところから眺めることができたが、2020年にエルドアンが再びモスク(ジャーミィ)にしてしまい、その上二階には上がれなくなってしまった。
その時に見た聖母子図はこちら
他にも二階の南階上廊の東端には皇帝と皇妃がキリストに寄進するモザイク画が二つあって、キリストに寄進するコンスタンティノス9世モノマコスと皇妃ゾイなどは、午前中だと逆光でよく見えなかったので、次回は午後に来ようと思ったのに、もう見られなくなってしまったとは。それについてはこちら
それでも、アヤソフィアには見るべき物は沢山ある。入口は別だが、不思議なことに、スレイマンの跡継ぎセリム2世やその子孫のテュルベ(墓廟)もその敷地内南西隅にあって、下の写真にその二つが見えている。
アヤソフィアに入るのに、いったいどれくらい待つのだろうと思っていたら前の人たちが動き始めた。
動き始めたら早いですよ。千人くらい一度に入れますよとアイシャさん。
聖堂は、537年のユスティニアヌス1世による再建の後も震災や数々の災難に見舞われた。そしてその度に補強や補修が行われてきたので、この辺りはどれがユスティニアヌスが建てた遺構かわからない。
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、アヤソフィアのドームは、東ローマ時代だけでなくオスマン帝国時代にも倒壊の危険にさらされていた。中央ドームの様々な方向への圧力を、東西にはエクセドラで拡張された半ドーム、側廊の柱、柱廊玄関、そしてそれらを接続するヴォールトを通してバランスを取る試みが行われた。
しかし、これでは十分ではなかったため、最初に東ローマ、次にオスマンがドームの圧力を外側にバットレスで補強しようとした。
この問題を解決するために、建築家ミマール・シナンはドームを支える柱と側壁の間隔をアーチで補強した。しかし、これらの予防策は十分ではなかったため、重い支持壁で建物を安定させることが決定された。
その間、東ローマ時代に建てられたバットレスは再び壁で囲まれ、石造りの外壁の中に置かれた。アヤソフィアには 24のバットレスがあり、そのうち東に7つ、南と北に4つずつ、西に5つあり、残りの4つは重い塔として建物を支えているという。
ここでもスィナンが登場するが、このバットレスは、スィナンはどのモスクの建造でヒントを得た、あるいはどのモスクにその技術を繋げたのだろう。
その続きの壁面には広い面積に渡って窓がある。
今まで気付かなかったが、ロマネスク様式の聖堂の窓は小さかったが、ビザンティン時代の聖堂には大きな窓が開ける技術があったのだ。しかも二段になった柱の華奢なこと。
今まで気付かなかったが、ロマネスク様式の聖堂の窓は小さかったが、ビザンティン時代の聖堂には大きな窓が開ける技術があったのだ。しかも二段になった柱の華奢なこと。
『トルコ・イスラム建築』は、360年に建てられた初代のアヤソフィア、415年に建てられた第2代のアヤソフィアとも、パシリカ式教会堂で屋根は木造小屋組みだったので、いずれも火災で焼け落ちた。
現存するアヤ・ソフィアは、532年の「ニカの乱」によって焼け落ちた第2代のアヤ・ソフィア大聖堂の代わりに、全く新しく再建された第3代のものである。ユスティニアヌス1世(在位527~65)が 532年に建設を命じて、537年に献堂されたという。
『望遠郷』は、557年の震災により、大聖堂はたいへんな被害を受けた。当初の大ドームは現在のものよりも大きく、その重圧のため、翌年東側のア ーチと半ドームが倒れ、大ドームの半分が崩れ落ちたという。
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、イスタンブールのドイツ考古学研究所のシュナイダーは、1935年に現在のアヤソフィアの北部エリアで考古学的発掘調査を実施した。発掘調査中に、ニカの反乱の終わりに破壊された第2アヤソフィアのプロピュレウム (記念碑的入口のファサード)に属するいくつかの建築部材が地下2mで発見された。十二使徒を表す子羊のレリーフで飾られた三つのブロックに、円柱、柱頭、大理石のフリーズで構成されるものは、アヤソフィアの第2大聖堂に記念碑的な入口があったことを示しているという。
その出土状況と右上のプロピュレウムの想像復元図
アタチュルクが宗教を離れて博物館にした聖堂は、現在はオスマン帝国時代のようにモスク(ジャーミイ)に戻ったが、ここではアヤソフィアだけにしておく。その平面図(『トルコ・イスラム建築』に加筆)
同書は、アヤ・ソフィアは極めて複雑な構造をしている。後世のオスマン建築の四本柱集中プランモスクの構造にも関連するので、少し詳しく説明してみよう。
平面図で見ると中央に広大な身廊があり、その両側に側廊があって、三廊式になっている。三廊式のバシリカ式教会堂のプランを基としている、といえる。 正面入口とアプシスを結ぶ軸線の方向は、東向きより 37°南側に振れている。ナルテックスとアプシスの突出部を含めないと、身廊と両側の側廊の部分をあわせた室内の広さは、横幅約70m× 奥行約75mで、かなり正方形に近い長方形である。身廊の西側に奥行きの計が16mの二重のナルテックスが付けられている。内側のナルテックスと側廊の部分は、上がギャラリーとなっている二階建てであるという。
だから、上の写真は⑰アトリウムから写したものだ。
① 主ドーム ② 半ドーム ③ ペンディティブ ④ エクセドラドーム ⑤ 円筒ヴォールト ⑥ 小半ドーム ⑦ アプシス ⑧ 西側大アーチ ⑨ 南側大アーチ ⑩ ティンパヌン ⑪ 身廊 ⑫ 側廊 ⑬ バットレス ⑭ 大支柱 ⑮ 中支柱 ⑯-1 外拝廊 ⑯-2 内拝廊 ⑰ アトリウム
バットレスの間のヴォールト天井から入口へ。
⑯-1 外拝廊左手
交差ヴォールト天井は金地モザイク、壁面は大理石と、贅を尽くししている。これを宗教施設では荘厳(しょうごん)すると表現する。
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、内部の大理石の被覆材には非常に特別な技術が使用された。大理石のブロックは、必要に応じて二つまたは四つに切断され、ほぼ本のように開かれ、魅惑的な色とパターンが素晴らしいという。
それで、目に付いた大理石板を写した。本物は中央に線があるが、
礼拝室に入る扉口の上には玉座のキリストに跪く皇帝のモザイク
以前の記事では皇帝がレオ六世(在位886-912)かバシリオス一世(在位967-886)か、というところだったが、決着はついたのだろうか。
礼拝室に入る前に、内拝廊を出て振り返る。
このモザイク画は、聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス帝と、アギア・ソフィア大聖堂を捧げるユスティニアヌス帝(1000年前後)
アーチの造りはぎこちないが、ここにも蔓草の透彫らしきものがあるが、入口タンパン下のものと比べると立体感がない。
イオニア式柱頭由来の渦巻きや繊細なアカンサスの葉などが細かく透彫されている。壁面にも平面の柱頭があった。
この柱頭彫刻はレース編みのような透彫で、上に伸びるアカンサスを平らに表しているが、何故か中央に丸い盛り上がりがある。その上にはカエデの葉のようなものが並んでいる。
ドーム下南北の壁面、⑩ティンパヌン(タンパン)には二段の窓が開かれている。
その先には①主ドーム、南西・南東のセラフィムが描かれた③ペンディティブ、その間には窓ガラスたくさんある⑩ティンパヌン(タンパン)、その下に二階の柱廊、一階に⑫側廊
この聖堂はシリアの数学者たちが建てたという。一階と二階の柱が太さも数も違っているだけでなく、下の円柱の真上に立ててある二階の円柱はない。何度も地震に見舞われて、ドームが崩落しては修復するということを繰り返しているが、それでも1500年近く立ち続けている。
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、オプス・セクティレで作られた長方形の区画は、その上にドーム、両脇に4本の柱、中央にゴルゴダの丘を表す階段、そして大きな十字架が立つ記念碑的なものがある。キリストの磔刑が描かれた2枚のカーテンの間に垣間見ることができる。ドームの左右には二羽の鳥がいるという。
モスクになって、礼拝者が坐るために絨毯が敷かれているので、その前に靴を脱がねばならない。中央の入口ではなく、北側廊に入ると靴入れの棚がたくさん用意されていた。そこは北西の④エクセドラドームの外側だった。
ここの小さなアーチを支える円柱はモノリス(一本柱)ではなく、不規則に継いであるようだ。そしてその上にはビザンティン様式の柱頭がある。
ここでもまた、西欧では10-12世紀にロマネスク様式の聖堂がたくさん建てられたが、その窓は小さく堂内は暗かったが、東ローマ帝国では、こんなに大きなドームを架構できただけでなく、聖堂の二面にこんなにたくさんの窓を開く技術があったことに驚く。
アヤソフィアの横(南北)断面図と縦(東西)断面図(『トルコ・イスラム建築』より)
① 主ドーム ② 半ドーム ③ ペンディティブ ④ エクセドラドーム ⑤ 円筒ヴォールト ⑥ 小半ドーム ⑦アプシス ⑧ 西側大アーチ ⑨ 南側大アーチ ⑩ ティンパヌン ⑪ 身廊 ⑫ 側廊 ⑬ バットレス ⑭ 大支柱 ⑮ 中支柱 ⑯ ナルテックス ⑰アトリウム
西の②半ドーム、その下に④エクセドラドーム、二階の細い円柱、一階の半円アーチと続く。少しだけ見える①主ドームから西のセラフィムが描かれた③ペンディティブ、その下には書道で表されたアラビア文字の円盤、続いて⑭大支柱
北側も同じ構成で西に⑭大支柱(ピア)、二階建ての柱廊、東の⑭大支柱、東の④エクセドラドーム、聖母子像が描かれた⑥小半ドーム、その下部が⑦アプシス
スルタンアフメットジャーミィでは象の足と呼ばれる円柱になっていたが、ここでは各上部からの荷重を支える柱を一体化した複合柱となっている。
『トルコ・イスラム建築』は、建物の中心の身廊部の構造が前例のない独創である。まず四本の大支柱(巨大なピア)を立て、その上に直径約31mの主ドームを「ペンデンティブ」を介して据えているという。
『イスタンブールが面白い』は、現在のドームは南北約33m、東西約31mのやや楕円をなしている。地上54mという。
ミマールスィナンは、このドームを越える大きさのドームを目指したのだった。
『トルコ・イスラム建築』は、四本の大支柱が作る4つの側面それぞれには、互いに隣り合う二本の大支柱に降りるペンデンティブが作る大アーチができる。東と西の側面にできた南北方向に架った大アーチの下には壁を作らず、南と北の側面にできた東西方向に架かった大アーチの下のティンパヌンは、多数の窓を開けた壁にしている。この壁は、重量を支えないカーテン壁の性格が強く、大 アーチより上部の重量を支える働きはごくわずかで、ペンデンティブより上部の重量のほとんどは大アーチを介して四本の大支柱が支えているという。
この下にオンファリオンがあるのだが、今回も見逃した。
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、大きな大理石の円をその周囲をさまざまな色やサイズの大理石の円がいくつか囲んでいる。ここは東ローマ帝国の皇帝が戴冠式を行った場所。円は宇宙を表しているという仮説が立てられてる。この理論によると、中央の大きな円は世界を表し、それを囲む12の小さな円は星座を表し、東側の三つの小さな円は神、キリスト、聖霊の三位一体を表す。 ただし、この理論は何の根拠もないという。
ドームしたから眺めた東側の②半ドーム、その下の⑥小半ドーム①主ドームの真下まできて聖母子図を眺める。
北東の⑮中支柱前にあるのは、スルタン用マッフィル
『望遠郷』は、建築家ガスパール・フォッサーティがアブデュル・メジト 1 世のために設計しつけ加えたものである。 19世紀に流行していたバロックと東方趣味の折衷様式の装飾が施された多角形の部屋で、内部を人々から隠す囲いは、回廊の手摺とよく似ているという。
⑦アプシスのステンドグラス
ミフラーブの上に三つ二段に開いた窓ガラスにはステンドグラスがあった。
入口側を振り返る。ここにも大理石板が貼り付けてある。
前回はあの西回廊から礼拝室や聖母子図を眺めたが、今ではそれもかなわない。
その時の記事はこちら
二階の柱廊
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、アヤソフィアの建設に使用するためにその領土に存在する最も美しい建築物を集めるように命じた。建設に使用された柱と大理石は、その広大な領土の各地から運ばれた。
斑岩の柱はエジプトのゲベル・ドカンとローマのヘリオス聖域から運ばれ、緑角礫岩の蛇行柱はエフェソスのアルテミス神殿から、隅の柱の大理石はキシコス神殿から運ばれた。
大理石の被覆材には非常に特別な技術が必要だった。大理石のブロックは、必要に応じて二つまたは四つに切断され、ほぼ本のように開かれ、魅惑的な色とパターンの素晴らしさを表しているという。
扉口の上部『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、オプス・セクティレで作られた長方形の区画は、その上にドーム、両脇に4本の柱、中央にゴルゴダの丘を表す階段、そして大きな十字架が立つ記念碑的なものがある。キリストの磔刑が描かれた2枚のカーテンの間に垣間見ることができる。ドームの左右には二羽の鳥がいるという。
下段の左右にはイルカが左右対称にそして上下に赤い円を囲んでいる。
西のアトリウム側に出て、柵に沿って円柱や石棺が並んでいるのを見ながら外に出た。
手前には切り妻屋根の形の石棺の蓋があった。こんな蓋の形は珍しいのではなかだろうか。これに似たものはイタリア、パエストゥム遺跡の英雄廟(ヘローン)から出土した地下祭室(前520-510年頃)に似ているが、こちらはもっと小さく石棺並の大きさ。
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参考文献
「イスタンブールが面白い 東西文明の交流点を歩く」 小田陽一・増島実 1996年 講談社
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 株式会社冨山房インターナショナル