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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年11月17日火曜日

彬県大仏寺 羅漢洞

彬県大仏寺絵図(部分、『彬県大佛寺』より)
佐藤悦成氏の寺院遺蹟についての調査報告「中国仏教と破仏」は、大仏寺は貞観2年(628)に尉遅敬徳により創建され、石窟は760年頃に開窟されたといわれるから、当初は本尊としての大仏窟と殿楼のみであり、千仏・羅漢の両洞はなかったことになる。寺前の道路下は涇河の河川敷であり、河岸の岩山を穿って大仏殿は建立されている。道路脇の大仏寺文物管理所から殿楼へ昇れば、正面右に羅漢洞、左に千仏洞が位置し、両窟内とも多数の仏・菩薩・神将・天人が雕られている。羅漢洞は四窟構成であり、千仏洞は三窟により成立している。両窟の諸像とも破仏の影響を受けて、頭部ほかいずれかの部位を欠いているという。 
大仏窟は初唐期(608-712)、千仏洞・羅漢洞は盛唐期(712-765)も終わりに近い頃に開鑿された。

修復中だが、羅漢洞が四窟構成になっているのは見えている。

その一つ

羅漢洞の北廊南側

主尊は釈迦如来で蓮弁のみごとな台座に結跏趺坐する。両手は長い袖に包まれて見えない。
その両側にはおそらく十大弟子の最年長の迦葉と最年少の阿難。通常は迦葉が釈迦の左肩に、阿難は右肩に置かれる。
その位置については敦煌莫高窟第五十七窟南壁説法図(初唐期、608-712)を参照のこと
龕は曲面になっている。
左端は中心柱の角。蓮台に坐す如来との間に3体、向こう側に4体の菩薩や金剛力士像などが並ぶ。
主尊とその左に並ぶ菩薩や金剛力士
どう見ても左に並ぶ菩薩や金剛力士は3体しか見えないが、

『彬縣大佛寺』の図版では、左にも4体あるのだった。

中心柱の北東角の龕には、小さいながら単独の像が、
その小さな龕の斜め下には獅子が彫り出されている。

北側にも獅子が。その上には文殊菩薩が坐しているので、文殊菩薩騎獅像となる。
この像群については忘れへんうちににて
獅子は、いや文殊菩薩は出入口のある西廊を向いている。

戻って中心柱の仏立像 唐・宋
『彬縣大佛寺』では仏となっているが、長い天衣を両肩からさげているので、菩薩ではないのかな。

東廊東壁
北廊の北角には単独の如来像。そして出入口に近い東壁には小さな龕に独尊像や三尊像。

続いて北廊から見えていた仏五尊像 
中央の大きな反花の台座に結跏趺坐する仏は、大衣の襟が右前になっている。
両側はやはり迦葉と阿難像だろう。
五尊像の右上に千仏が区画の中に浮彫されている。

仏立像 唐・宋

おそらく宋時代の三尊像

東廊の南端に仏立像の龕があり、その両側には小さな龕が並んでいる。
南廊がないので、中心柱ではなかった。
肩幅はあるが扁平な体形は唐時代のものではないだろう。ということは宋時代ということで良いのかな。
このあたりが宋時代というのは、北宋時代(960-1127)だけ。

東廊西壁

菩薩立像
首飾りや碗釧を付けているので菩薩とわかる。

菩薩立像 盛唐期
出入口際には小さな龕が並ぶ。

大仏窟の上の丈八寺
『彬縣大佛寺』は、大仏窟から西に100mの、石窟が8つ並んだところにある。その主窟は丈八窟で、内部には一仏二菩薩の立像が岩から彫り出されている。主尊は8.2m両脇侍は6mの高さがあるという。



関連項目
彬県大仏寺 大仏窟
敦煌莫高窟3 57窟、観音菩薩の宝冠に瀝粉堆金

参考サイト

参考文献
「彬縣大佛寺」 発行年不明 彬县大佛寺石窟博物館