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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年4月13日火曜日

武山水簾洞 水簾洞石窟


千仏洞を見学後、来た道を戻っていった。

丸みのある峰々に、反対側のまるまるとした山々が影を落としている。来た時とは違う光景に会えた
😄

大抵は岩山だが、中には樹木の繁った山もあった😃


狭い谷から広い谷まで戻って、どんどん出口に近づいて行く。
この部分的にへつれたところも通り過ぎるが、
上を見上げると、まだ日が当たらない峰々😕
その際に楼閣のようなものがあった。

行きがけは気付かなかったが、あんな所にも急な階段が😮 しかし、手前の橋を渡った。 

参道を登っていくと、先ほど見えていた楼閣が🤗

そこから見えたのがこの摩崖仏。これについては次回😊 それにしても急な階段👀

寄り添うようにしてそびえる3つの峰。その下の森の中にあるのが水簾洞。

到着するとやはり崖の窪みを利用して造られた寺院だった。
ガイドの輩さんは、豊かな森林が火災に遭った。道教の寺と上隅に仏教寺院があるという。

階段の上から振り返ると、四重の塼塔や、龍がくねる屋根の門などの向こうに、下から見上げるだけだった山々と同じくらいの高さで見ることができた😊


仏教寺院から出てきた僧には見えないこの老人は、道観から出てきた人のよう。特に何を言うでもなく、写真を写しても怒るわけでもなく、飄々と辺りをウロウロしていた。


上にある寺院には行かず、


小さな建物が並ぶ奥の崖に残る壁画を見学した。
60㎡にわたって北周期(535-556)の壁画が残っているそうな。

屋根の上には、比較的大きく描かれた一仏二弟子二菩薩像の後方や両側にも小さな仏像や比丘のような人たちがいる。
輩さんは供養者が多く描かれているという。
一見一仏二菩薩像に見えるが、釈迦と菩薩の間に描かれた小さな人物は、十大弟子の阿難と迦葉。しかし如来も脇侍菩薩も宋代の重修が未完成、田相の袈裟は一番位が高いのだそう。
輩さんはカールした髪だと言ったが、宝冠を結んだ幅のある布のように見える。

左脇侍の左や斜め上にも如来坐像や脇侍菩薩などが描かれている。

偏袒右肩の如来坐像と通肩の如来。どちらも着衣としては古い様式
通肩だろうと思うのだが、大衣の袖が腹部で見たことのない膨らみがある。顔の下にあるのず施無畏印の右手かも知れないが、左手がどうなっているのか・・・

主尊の光背の上、あるいは龕楣には、如来坐像や飛天の美しい顔、
その左にも飛天が並んでいる。緑、茶色の天衣のそれぞれの飛天は良くは残っていない。
変色していないという柿色の天衣を着けた飛天は、頭部や後方に曲げた下半身などが残っている。

輩さんは、貼り付けた仏塔は8つあった。分舎利で闘った8つの国の塔を建て、舎利をそれぞれに納めたたという。
小さな建物の屋根に、塔のようなものが見え隠れ。僧が亡くなると塔をつくって供養したのだそう。
それぞれの塔の下に反花の蓮弁がついている。この2つは宋代だそう。

坐像の七仏 宋代
三尊像の下、軒と軒の間の位置。
双領下垂式の僧衣を着けている。偏袒右肩や双領下垂式の僧衣の次の様式。
七仏の右、胡族の供養者もまじっている。

下側は千仏ではなく、供養者たち 北周
右側はといえば、壁面の凹凸が甚だしい上に、運悪く光の当たり方が悪いため、何がなにやら分からない。
2本の円柱に挟まれた龕。その下段には供養者たち。更に下にも供養者が並んでいる。

これも供養者だろうか、赤い縁取りのある長衣を着た人たちが右の僧に相対している。

建物を過ぎたところで壁画はなくなっていた。
最上部は菩薩と比丘たち。失われた箇所に如来坐像やもう一体の菩薩像があったはず。
次の段には一仏二弟子二菩薩像が描かれていた。迦葉の顔が分かりにくい。

その下側には塔があるらしい。

やっぱり下部に蓮弁が並んでいる。先ほどの塔と同じく宋代(960-1127)のものだろう。

水簾洞という名称が示しているように、雨が珠暖簾のように降るところで、よくぞ北周時代の壁画がこれだけでも残ってくれたというようなところでした。

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