陝西省彬県大仏寺の次に向かったのは、甘粛省慶陽近郊の北石窟寺だった。
『仏のきた道』は、長安から黄河の支流涇河に沿って北上し、涇川、平涼を通り、さらに固原を経由して靖遠に至り、その北で黄河を渡り、河西回廊の涼州(武威)に入る北ルート。東段の北道といわれたルートで、周辺には北魏から唐代の知られざる多くの石窟寺が点在し、秘められた仏たちが眠っているのであるという。
この地区は隴東(ロントン)といわれる地区で、字の示す通り隴山の東側で、現在平涼地区と慶陽地区にあたる。この地は海抜1100-1800mの黄土高原で、黄土の厚さは100mにも達している。この黄土層を縦横に流れる大小の河川は、黄土層の下に沈着した地層まで達する深い谷をつくっている。沈積した紅砂岩といわれる地層は岩質が軟らかく緻密なため彫刻に適しているので、石窟はみなこうした河川の両岸や紅砂岩の谷の断崖面につくられている。
隴東はまさに石窟の里といえる。これらの大多数の石窟は北魏の径州の名城といわれた臨涇古城の周辺に特に密集している。臨涇城は奚康生の居城であり、彼がつくった南・北石窟寺は城からは南北等距離につくられている。
北朝時代の州都涇州は、長安から河西回廊の武威に出る北ルートのシルクロードの重鎮であった。また隴山の山中には幾多の道が東西に通じており、北部には大同や内蒙古に通ずる古道が通っており、隴東地区は古代交通の要衝で軍事的にも重要な地であった。北魏はこの涇州地区の経営を最も重視し、代々の涇州刺史には権臣を以て任じていた。奚康生もその一人であり、三朝に仕え、たびたびの戦功のあった将軍で、仏教に帰依し、寺廟を造営した記事が史書に見える。
また涇州は洛陽永寧寺を造建し、権勢を振るった孝明帝の生母霊太后の出身地であった。涇州に北魏の石窟が集中してつくられた背景には、こうした北魏王朝との深い関係や、当時の権力者たちの大きな力と無縁ではなかったと思われるという。
隴東はまさに石窟の里といえる。これらの大多数の石窟は北魏の径州の名城といわれた臨涇古城の周辺に特に密集している。臨涇城は奚康生の居城であり、彼がつくった南・北石窟寺は城からは南北等距離につくられている。
北朝時代の州都涇州は、長安から河西回廊の武威に出る北ルートのシルクロードの重鎮であった。また隴山の山中には幾多の道が東西に通じており、北部には大同や内蒙古に通ずる古道が通っており、隴東地区は古代交通の要衝で軍事的にも重要な地であった。北魏はこの涇州地区の経営を最も重視し、代々の涇州刺史には権臣を以て任じていた。奚康生もその一人であり、三朝に仕え、たびたびの戦功のあった将軍で、仏教に帰依し、寺廟を造営した記事が史書に見える。
また涇州は洛陽永寧寺を造建し、権勢を振るった孝明帝の生母霊太后の出身地であった。涇州に北魏の石窟が集中してつくられた背景には、こうした北魏王朝との深い関係や、当時の権力者たちの大きな力と無縁ではなかったと思われるという。
彬県大仏寺を見学後、高速に入って、
初めのうちは、中国のトラックがいろいろと見られてそれなりに面白かったが、いつ解消するか分からないので、北石窟寺の見学ができるか不安に😨
やつと渋滞を抜け、
慶陽へ。
出口へのロータリーに烽火台のようなものが👀
ぐるりと回ると、珍しく窰洞(やおとん 窯洞)風の住居が2、3あった。
やつと渋滞を抜け、
慶陽へ。
ぐるりと回ると、珍しく窰洞(やおとん 窯洞)風の住居が2、3あった。
現地ガイドの丁さんによると、黄土高原といっても、黄砂岩は窰洞を掘りやすく、この付近の紅砂岩は掘りにくいのだそう。脆くて崩れてしまうのかな。
やがて北石窟寺の広大な駐車場でバスは停まった。
どんどんと山の中に入っていく。
前に建物が多いので分かりにくいが、慶陽の北石窟寺の石窟群は、ほぼ南北に走る崖に開鑿されて長々と続いている。
『慶陽北石窟寺』は石窟群の長さは1.5㎞、現存する窟や龕は282あるという。
現地では川は見えなかった。古い写真で寺沟川に沿って開かれたことを知った。
寺沟川の流れ(説明パネルより) |
『仏のきた道』は、甘粛省、西峰鎮の西南25㎞の寺沟川の河岸に聳える覆鐘山の麓にある。北石窟寺は古くから記録にはあったが、長い間、その所在が不明の謎の石窟寺であった。1920年、考古学者の陳万里氏が隴東地区の調査をしたとき、「南石窟寺と相対的な位置に必ず北石窟寺がある」と予言していたが、その所在は依然として謎に包まれたままであった。
1959年、覆鐘山の麓に一つの石窟が発見され、1963年の発掘調査の結果、この石窟が北魏の永平2年(509)、涇川勅史の奚康生が建造した北石窟寺で、南石窟寺の姉妹窟であることが確認された。窟龕は紅砂岩の断崖の麓に南北130m、最も高いものは地上10数mの崖面に二層に開墾されている。石窟は北魏から北周、隋、唐代につくられ、現存する窟龕は295、造像は2100体、そのほか石窟の歴史を語る題記150や碑石多数がある。開窟は北魏時代、最も造窟が盛んであったのは唐代で、洗練された豊満精緻な塑像が保存されている窟も多い。窟の外壁の中小の仏龕には長い放置の歴史を物語るように仏像はほとんどなくなっているという。
509年なので、北魏時代後期に開かれたことになる。
ここは撮影代が非常に高いので、外から見えるものを写しておく。
石窟が見えないので徐々に右へ移動。
『慶陽北石窟寺』は、覆鐘山は早期白亜紀の黄砂岩で均質で、全ての像は石彫だったという。
南端には角柱の見える窟がある。
35窟ということかな
建物の間から奥の壁が垣間見えた。仏像群が描かれているような。
南端には角柱の見える窟がある。
建物の間から奥の壁が垣間見えた。仏像群が描かれているような。
説明パネルは、北石窟地区はシルクロードの要衝で、付近に5本の古道がある。その中で最長のものは、3180mの石道であるという。
同書は、北石窟寺の中で最も早く開かれた窟で、その規模は最大である。
門の上の明かり取り窓は、高さ2.25幅1.85厚さ1.9m。門は高さ5.9幅0.79厚さ1.95mという。
入口を二天が守る。
北石窟寺165窟外観 『慶陽北石窟寺』より |
二天王像は阿吽になっていない。その外側には獅子が彫り出されているが、北側のものが口を開いているのが分かるくらい。
165窟入口前の二天像 『慶陽北石窟寺』より |
同書は、東壁(正壁)は3如来と4脇侍菩薩。如来は高さ8m、菩薩は高さ4m。上部が前方に傾いているという。
仏像の上部が前に傾いているのは、信者に顔がよく見えるように造られていると、ガイドの丁さん。
三如来立像は施無畏与願印で、東壁北側の如来の左右の腕が逆だが、すべて施無畏与願印を結ぶ。着衣もほぼ同じ。
脇侍菩薩とは記されているが、一仏二菩薩ではなく、各如来の間には1菩薩だけ。それとも中央のみ一仏二菩薩ということかな。
説明パネルにあった正壁と南壁の仏像群
北石窟寺165窟東壁立面図 『慶陽北石窟寺』より |
説明パネルにあった正壁と南壁の仏像群
同書は、七仏は肉髻が高く、角ばった顔、細い眉に大きな目、鼻は真っ直ぐで唇は厚く、体はがっしりしていて、わが国の北方民族の特徴がある。中に僧祇支を着て、外にゆったりした袈裟を双肩に掛け、裙を履いているという。
東壁と南壁で5体の如来像。
東南の隅には菩薩が二体並んでいるので、各壁には如来と菩薩が交互に立っているということのよう。
如来は岩壁より背中以外は彫り出されるが、頭光と身光は描かれている。立面図では同じに見えた如来の着衣だが、裙の紐が袈裟の内側だったり、外に出ていたりと変化をつけている。
脇侍菩薩は頭光も浮彫になっている。
菩薩は髷が高く、秀麗な顔、細身の体型であるという。
ずんぐりした如来の間にあって、菩薩は細身で瀟洒な雰囲気が漂う。
北石窟寺165窟北壁の仏像群 『慶陽北石窟寺』より |
西壁
入口の南側には像に乗った普賢菩薩、しかし、北側には獅子に乗った文殊菩薩ではない。
西壁には南側に捨身飼虎の場面があるが、北側は分からない。日本には入ってこなかった本生図かな?
北側の弥勒菩薩は交脚だったことが上図でわかった。
『慶陽北石窟寺』は、釈迦以前に六仏があり、将来弥勒仏が釈迦を継ぐという。
過去七仏と弥勒菩薩という組み合わせの仏像群は2世紀のガンダーラに例があるが、西壁には2体の弥勒菩薩像というのはどういうことだろう。
北石窟寺165窟西壁の弥勒菩薩交脚像 『慶陽北石窟寺』 |
西壁北側には阿修羅像
日月を持っている阿修羅は北魏時代にもあった。それについてはこちら
北石窟寺165窟西壁阿修羅像 『慶陽北石窟寺』より |
北石窟寺165窟西壁弥勒菩薩倚像・普賢菩薩騎象像 『慶陽北石窟寺』より |
弥勒菩薩倚像は笑みを浮かべている。
瓔珞も独特で、その下には、天衣が玉?の環の中でX状に交差している。
北石窟寺165窟西壁弥勒菩薩倚像 『慶陽北石窟寺』より |
普賢菩薩騎象像(説明パネルより)
普賢菩薩の着衣は、襞の重なりは浅く自然で、ギザギザが強調されることはない。
『慶陽北石窟寺』は、普賢菩薩の前には御者、後方には弟子が乗っているという。
普賢菩薩は半跏で象に乗り、右手で衣をつかみ、左手は膝の上に置く。
捨身飼虎図
釈迦の前世である薩埵太子が、自分の体の肉を飢えた虎の母子に与える場面。自ら崖から身を投げる場面は見当たらない。
西壁上部に捨身飼虎図の浮彫 『慶陽北石窟寺』より |
関連項目