お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年2月9日火曜日

涇川南石窟寺・王母宮石窟・固原須弥山石窟 


慶陽の北石窟寺を見学した翌朝は、涇川の南石窟寺へ。涇河を北へ渡っていると河原に霜が降りていた。
川の北岸から。G70福銀高速の高架が見えている。

『仏のきた道』は、涇川南石窟寺は、涇川県城の東7.5㎞の涇河の北岸の丘の麓にあるという。

『仏のきた道』は、この地区は隴東(ロントン)といわれる地区で、字の示す通り隴山の東側で、現在平涼地区と慶陽地区にあたる。この地は海抜1100-1800mの黄土高原で、黄土の厚さは100mにも達している。この黄土層を縦横に流れる大小の河川は、黄土層の下に沈着した地層まで達する深い谷をつくっている。沈積した紅砂岩といわれる地層は岩質が軟らかく緻密なため彫刻に適しているので、石窟はみなこうした河川の両岸や紅砂岩の谷の断崖面につくられている。 
隴東はまさに石窟の里といえる。これらの大多数の石窟は北魏の径州の名城といわれた臨涇古城の周辺に特に密集している。臨涇城は奚康生の居城であり、彼がつくった南・北石窟寺は城からは南北等距離につくられている。
北朝時代の州都涇州は、長安から河西回廊の武威に出る北ルートのシルクロードの重鎮であった。また隴山の山中には幾多の道が東西に通じており、北部には大同や内蒙古に通ずる古道が通っており、隴東地区は古代交通の要衝で軍事的にも重要な地であった。北魏はこの涇州地区の経営を最も重視し、代々の涇州刺史には権臣を以て任じていた。奚康生もその一人であり、三朝に仕え、たびたびの戦功のあった将軍で、仏教に帰依し、寺廟を造営した記事が史書に見える。
また涇州は洛陽永寧寺を造建し、権勢を振るった孝明帝の生母霊太后の出身地であった。涇州に北魏の石窟が集中してつくられた背景には、こうした北魏王朝との深い関係や、当時の権力者たちの大きな力と無縁ではなかったと思われるという。
南石窟寺は昨日訪れた北石窟寺とは対のように開鑿された石窟だった。
黄土高原の石窟 『仏のきた道』より

南門へ。
中国の獅子は阿吽にはなっていない。
何も説明がないところをみると、獅子は古いものではなさそう。
大きな香炉との向こうに中門がある。

中門を入ると、その先は撮影禁止。
『仏のきた道』は、門を入ると正面に石窟のある岩壁が見える。思ったより小さな石窟であり、右端にあるのが、北石窟寺の第165窟と姉妹窟といわれる1号窟である。涇川刺史の奚康生が、北魏永平3年(510)に開鑿した七仏窟であるという。

南石窟寺は黄砂岩を彫り出している。斜面の中腹にも石窟はあったが、現在は修復中で、落石防止の網がかかっていた。一つの窟しか見学できなかった上に、書物もなかった。
ガイドの丁さんは、1-4窟は崩壊し、5窟が1号窟とされて、東西11m、高さ11mの龕内に七仏は北魏時代に流行したのだという。

第1窟
同書は、石窟の規模や七仏は北石窟寺の第165窟よりやや小さめだが、七仏と14体の脇侍菩薩、交脚弥勒菩薩が壁面に並ぶ内部の構造は全く同じである。仏像は6.5m、菩薩像は3.5mでややすらりとして見えるという。
伏斗式天井で、北石窟寺165窟と同様に、上方には仏伝の場面が浮彫されていた。釈迦誕生図や出家踰城などを見た。
涇川南石窟寺1窟 仏三尊像 北魏永平3(510) 世界美術大全集東洋編3より

如来立像
北石窟寺165窟の仏像よりも顔の幅が狭いし、掌も細め。
やや前傾なのは、礼拝者に頭を近づけているからと丁さん。そう言えば、MIHO MUSEUMのガンダーラ仏立像も前かがみで、同じような説明だった。
七仏は皆左手に大衣の端を掛けている。
涇川南石窟寺1窟 如来立像 北魏 世界美術大全集東洋編3より

菩薩たちもほっそりしている。右の菩薩は着衣も菩薩風ではない。地方の服装なのだろうか。宝冠も背の高い帽子のよう。
涇川南石窟寺1窟 脇侍菩薩像 北魏 世界美術大全集東洋編3より

南壁の弥勒交脚像は宝座に腰掛けていた。
伏斗式天井には仏伝図の誕生図や出家踰城図が浮彫されていた。
同書は、窟門を護る力士像は裸形で、後代につくられたものである。
ほかに唐代の窟などいくつかあるが、荒れて見るべきものはほとんどないという。
毎日頭條涇川縣南石窟寺景觀に写真が多く載っています。

その後橋を渡り返して、涇河の南岸へ。小さな町を通り過ぎ、山のてっぺんにあるのは烽火台かなと眺めているうちに、
支流の清河を渡ったところでバスは停まった。先ほどの南石窟寺とは違って華やかな装飾で溢れていた。道観(道教の寺)と仏教寺院が混在しているらしい。
王母宮石窟
涇河と納河に挟まれたところに、広範囲にいろんなものがあるらしい。
『仏のきた道』は、王母宮石窟は涇川県の西0.5㎞の涇河と納河の合流点の河岸に聳える宮山の麓にあるという。
宮山は古くから西王母の聖地として有名であり、山裾に「回中(宮山)降西王母処」と彫られた大きな画塀があり、その前に美しい西王母が虎の背に坐っている像があるという。
ちらっと見えた金色の像が西王母らしい🧐
奥に獅子のいる控えめな門が。
獅子は南石窟寺のものよりは古いかな。

左手の山の斜面に建造物

正面の階段の上にも楼閣がある。
北魏時代につくられた石窟の一つ王母宮石窟の大仏洞だった。外観は楼閣で内側は洞窟になっている。
これが入口。
入口のアーチ、回屋というらしい。
頂部。その中に龍がいる
蓮ではなさそう。人物も表されている。
更に両側に獅子。


内部は撮影禁止。なので、夫が外から1枚だけ😅
これは中心柱東龕の大仏だった。

『仏のきた道』は、中心柱の1辺が7m、高さは11mにおよぶ北魏窟の王母宮石窟がいつ開鑿されたかは確かではないが、造像の様式や仏龕の構造などから近くにある南石窟寺よりやや早い時期と推定されている。大仏龕の中の釈迦と多宝仏の二仏並坐の釈迦像は清らかなやせ型で最もよく北魏仏の特徴を表している。多宝仏は唐代のものといわれるという。

『世界美術大全集東洋編3』は、王母宮石窟は隴東地区の石窟中では早期のもので、構造は中心柱窟、造像は雲岡中期、とくに第6窟にきわめて近い。雲岡様式が西へ伝播した例といえようという。
如来を囲む枠は修復時のもの。面長で楕円形のような顔は、南石窟寺の如来よりも前に造られた。
王母宮石窟 中心柱北面如来坐像 北魏 『世界美術大全集東洋編3』より

中心柱の一角
如来の方を向く脇侍菩薩は顔がない。
角の柱には仏伝の場面が表されているという。
王母宮石窟 中心柱北面隅 北魏 『世界美術大全集東洋編3』より

二層目の隅に楼閣を乗せた象が彫り出されている。
王母宮石窟 中心柱北面隅 北魏 『世界美術大全集東洋編3』より

崩壊した仏龕の上部には千仏が彫られている。
1920年の海原大地震で三層のうち上の二層が崩壊したという。
王母宮石窟 千仏 北魏 『敦煌への道 下河西回廊』より

動きのある菩薩だが、北魏時代にこんな像が造られただろうか。
王母宮石窟 菩薩立像 北魏 『敦煌への道 下河西回廊』より



王母宮石窟 中心柱北面龕頂 北魏 『世界美術大全集東洋編3』より

南面は二仏並坐像、西面には施無畏与願印で結跏趺坐する弥勒像が彫られていた。
王母宮石窟についての記事は毎日頭條甘肅涇川王母宮石窟が詳しいです。

その後固原へ向かう。
高速道路ももちろん利用。
高い山には雪が薄く積もり、
近くの山肌が起伏が多いので、地層がジグザグの縞模様になってきた。
高速を下りて、小川に沿って郊外へ。
小さな村を通っていると、秋の収穫を満載した馬車が行く手を阻む。
赤や白の地層が見えてきた。中国では「多彩丹霞」と呼ぶらしいが、こんなころにも古代テチス海の地層が👀
小さな集落の前でバスが停車。毛家台子というらしい。
学校のような建物、
その続きには傾いているティーポットが・・・🤔

こんなところで食事?と家屋に近づいて行くと、人の気配を察した赤ん坊がカーテンから顔を出した。
上の子もお母さんも可愛い。回族の親子だった。
昼食は回族(イスラーム 清真)の料理だった。

まずでてきたのはふかし芋。
どちらも美味しかったが、白いのはジャガイモ、黄色いのがサツマイモという固定観念がガラガラと崩れた一皿。
キュウリの和え物
蒸しパン
春雨の炒め物
カリフラワーと牛肉の炒め物
おそらく中国全土で出るトマトと卵の炒め物。日本人にも人気がある
キャベツの炒め物
ホウレンソウのニンニク炒め
ピリ辛のスープなど。
全体に肉の量が少ないのは、当時中国で豚コレラが流行しているからとガイドの丁さん(2019年11月現在)

食後ほどなく須弥山石窟に到着。

須弥山石窟
『仏のきた道』は、須弥山石窟は、寧夏回族自治区の固原県城の西北60㎞の須弥山の東麓に分布している。須弥山は六盤山(隴山)の北端にある赤い岩石の山である。山裾を石門水が流れており、この石門水の谷をさかのぼってゆく道が河西回廊に通ずる古道であった。ちなみにこの須弥山石窟のある地は、隋唐時代に石門関のあったところで、石門関はシルクロードと長安を結ぶ七関の一つで、交通、軍事の要衝であった。
北朝いらい、須弥山は多くの石窟が鑿たれたが、現在保存のよい窟は132窟中、20窟前後だという。石窟群は大仏楼、子孫宮、円光寺、相国寺、桃花洞の5群に分けられるという。
固原 須弥山石窟案内図 説明パネルより

いざ須弥山石窟へ!ここからは構内専用車で連れて行ってくれる😁
でもものすごい地層の方に目を奪われてしまいそう🤩

相国寺地区
崖の上には四阿風のものがあり、その斜面には石窟が幾つかあるらしい。手前の鴟尾が見えているところも石窟寺院のよう。
場所を変えて見ると、もっとたくさんの石窟が上下、横にも並んでいた。
そして、正面にある大きな石窟寺院が相国寺だった。

『仏のきた道』は、子孫宮、円光寺、相国寺などには北朝の石窟が多く、特に北周の重厚な仏像が比較的よく保存されている。
北魏窟はみな中心柱窟で、正光年間(520-525)につくられた第24窟は、中心柱に中心柱3層の大仏龕があり、須弥山では唯一の「四門出遊」などの仏伝が彫られている。また第32窟の中心柱には7層に仏龕が彫られ、北魏様式の交脚菩薩や一仏二菩薩像が彫られている。
北周窟も方形の中心柱窟で、中心柱の四面と、窟の四壁にそれぞれ3つの大仏龕があり、一仏二菩薩を彫るという。

相国寺
現地ガイドの丁さんは、唐代には景雲寺ともよばれたが、1920年に海原大地震で倒壊したという。
北周期(557-581)開鑿 標高1680m

51窟 中心柱窟
『仏のきた道』は、須弥山最大の北周窟で、主室と前室と左右側室の4部分から成る珍しい構造で、幅26m、深さ18m、主室の高さは10mもある。中心柱の四面や四壁には一仏二菩薩や三尊仏を彫った大仏龕があり、地震によって崩壊した土砂の下から、約7mもある北周の七体の坐仏や菩薩像が掘り出されたという。

窟門を入って中心柱を左へ(右繞して見学)。丁さんの説明のメモ
中心柱南面 仏三尊像、如来は坐像、両脇侍は立像
西壁南側  唐代の五尊像、
❸  北側  北周期の仏三尊像(清代の補色)、肉髻があるが、白毫も三道もない
       如来は通肩で結跏趺坐し、禅定印を結ぶ。バランスが良い
       脇侍菩薩は碗釧、臂釧、瓔珞を着ける
中心柱西面 仏三尊像
北壁    巨大三仏坐像 7m、髭ではなく道教が付けた。弥勒は左足を乗せる
       10年前東京で展示された。現在はレプリカ
中心柱北面 仏三尊像、釈迦は説法印
中心柱東面 仏三尊像
とにかく巨大な像が一面に彫られていたという記憶がある。
『中国の仏教美術』は、本窟は、前部や天井などが崩壊するものの、中心柱や奥、側各壁に彫られた像高7mあまりの如来坐像が、大像ながら北周様式をよく示している。
上半身は左右の肩が張り、腕にかけて綿入れを着たような膨張感があり、棟は平板、腹にふくらみが少しある。麦積山の北周像のように胴長ではないが、上半身が方形ないしは台形を立体化したような形をしている。組んだ脚部も抑揚なく、やや不自然な上下の厚みをもち、ずんぐりと幾何学的な上半身とあいまって、全体に寸づまりの感があるという。
低い肉髻の如来たちは、顔貌はきりっと表現されている。
須弥山石窟51窟如来坐像群 北周 『中国の仏教美術』より

その後は下りていって下に見える橋を渡った。

桃花洞区を見上げて、

圓光寺へ。
説明パネルは、北周期(557-581)に建立された、須弥山石窟唯一の仏寺禅院である。唐代には景雲寺と呼ばれ、元代に圓光寺とされた。
1920年に海原大地震に遭い、建物は倒壊、再建された。45・46・48号窟があるという。
石窟の入口は2階にある。2階から見下ろした圓光寺の中庭。
来し方

第46窟 北周期(557-581)
説明パネルは、伏斗式の天井で中心柱窟。北、東、西壁の各面に3つずつ龕がある。南壁は窟門の両側にそれぞれ一つの龕がある。中心柱の4面には一つずつ龕がある。
内部は木造の框や構造を模倣している。中心柱の開口部は反花の蓮華の柱礎が彫られている。
仏像は、一仏二弟子二菩薩、一交脚菩薩二脇侍菩薩、または一仏二菩薩の形式で、後世に修復を受けている。
中心柱は、四面に伎楽、宝瓶、博山炉、供養比丘と供養者そして神王が表される。頂部には飛天、蓮華、雲文などが浮彫されている。
仏像はたくましい体格で、内部空間は寺院の構造となっていて、北周期の石窟様式の変遷を知る貴重な資料であるという。

45窟 北周期(557-581)
『世界美術大全集東洋編3』は、中心柱窟で、各壁面に奥行の浅い仏龕を開き、龕の枠いっぱいに仏菩薩像を彫り出している。砂岩という材質のせいもあり、陝西の石彫像に比べてやわらかさがあるが、腰を浮かせるような姿勢で表される菩薩倚坐像、丸く大きな頭部の如来立像、いずれも陝西省を中心とする北周様式の特徴をよく伝えたものであるという。
固原須弥山石窟第45窟右壁 北周(6世紀後半) 『世界美術大全集東洋編3』より

菩薩倚像と脇侍立像
浅く彫っているので腰を浮かたようになってしまったのだろう。
弥勒菩薩が兜率天で説法している場面だろうか。
45窟右壁 菩薩三尊像 北周 『世界美術大全集東洋編3』より

仏三尊像
丸く大きな頭部の如来立像はやはり下を向いている。
45窟右壁仏三尊像 北周 『世界美術大全集東洋編3』より

見学後はひたすら下りていく。
食後の良い運動になった。それにしても凄い色の斜面🤩
道標
左の相国寺・圓光寺を見学後、大仏楼へ向かっている。
紅砂岩の中をどんどん下りていく。

第5窟 大仏楼 晩唐期(9世紀半ば-907)
『仏のきた道』は、入口に近い山裾にあり、唐代の高さ約20mの大仏が馬蹄型の仏龕に彫られている。その昔、シルクロードの古道の谷を歩いた旅人たちは、みなこの大仏を目にしたこととと思われる。
大仏の前には楼閣が築かれたので、明代には大仏楼と呼ばれたという。
雲崗石窟でも第20窟の大仏は、現在は露出しているが、造立当初は楼閣で覆われていた。その時の木材を固定した四角い穴が岩壁に点々と残っていた。
上部のアーチ状のものは1920年に起きた海原大地震で楼閣が崩れたためのコンクリートによる後補ということで、龕の中には楼閣の四角い穴が多数残っている。
これまで仏像の撮影禁止だったので、ようやく写せるとはいうものの、晩唐期の仏像なので・・・しかも修復もされているし・・・😅
丁さんによると、上半身が宋・元時代に粘土を貼り付けた。西夏時代はその版図内にあったが、タングート族も仏教徒だったので破壊を免れたのだという。
同書は、背後の壁に唐の大中3年(849)の題記と七仏の浮彫りが残っているという。
その内の3体が辛うじて見えた。
私よりも背が高い夫は、中央に釈迦如来、左右に過去仏が3体ずつという構成と思われる過去七仏が、龕の中に彫り出されているのをカメラに収めていた。ピンボケだけど😅

見学後は階段をおりて、

戻っていくのかと思ったら、まだ見るところがあった。


それは石門関と呼ばれる、隋唐時代の関所跡。
丁さんによると、六盤山の川は、唐代には長安と銀川を結ぶシルクロード北路の要衝だった。
詳しいことはこの石碑に書かれている。

そして須弥山石窟最後の仏像は、第1窟の薬師如来立像だった。隋時代(581-618)
高さ4.8m、螺髪で左手に薬壺を持つ。 
脇侍が造られていたかどうかは不明で、西夏時代に補修されたとも言われているという。
細身の如来で、どっしりとした北周期(556-581)からはがらりと変わった造像様式となっている。
壁画の千仏は元代(13世紀後半-14世紀後半)のものという。
彩色もわずかに残っている。
茶杓形の衣文が、左腕に掛けた大衣の襞の表現に使われ、体が細身のわりに、着衣は厚い。
敦煌莫高窟427窟の如来立像の着衣は薄いが、地方色なのだろうか。
如来の着衣の裾は蓮台まで達し、そこから両足が出ている。
反花は彩色だけだったのか、ほとんど見分けられない状態だが、受花の蓮弁は小さめのものが外側と内側に控えめに彫られていて、優美な仏像である。

現在は1窟前のこの道路から静寧に入ることができるらしい。

帰り道に飛来石というのがあって、支石墓のようにも見えた。
説明パネルは、この岩は5トンもある酸性花崗岩で、紅砂岩の須弥山石窟とは全く別のもので、50㎞の距離の所にある。それで須弥山の王女が鉄の扇で飛ばして、この岩になったという話が言い伝えられているという。

『世界美術大全集東洋編3』は、特異な衣文表現、土俗的な明るさと自由さ、図像に対する柔軟さなど、平城や洛陽の先進性とは異なる独特の作風が感じられる。北魏時代の長安を中心とする山西南部、陝西北部、甘粛東部にまたがる地域は、平城様式にも洛陽様式にも支配されない、独自の文化圏を形成していたと思われるという。
確かにこれまでの北魏、北周、隋などの様式とはかけ離れた特徴の見られる仏像をいろいろと見学できた。
これからも見学の旅は続くが、今回の旅行では、北周の仏像が印象深かった。

なお、沼田保男氏の黄河上流域 遙かなる石窟の旅 その5では、まだ内部の写真撮影が可能だった頃に写された貴重な石窟内部の写真があります

その後固原の町へ。

   慶陽北石窟寺 240窟・222窟←    →固原に残る戦国秦の長城

関連項目

参考サイト

参考文献
「仏のきた道 中国の仏教文化を探る」 蒲田茂雄 1997年 PHP新書
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「敦煌への道 下河西回廊」 石嘉福・東山健吾 1995年 日本放送出版協会
「中国の仏教美術 後漢代から元代」 久野美樹 1999年 東信堂
「歴史アルバム 万里の長城 巨龍の謎を追う」 長城小站編・馮暁佳訳 2008年 恒文社