お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年2月13日木曜日

タルクイニア 国立考古学博物館2


タルクイニア国立考古博物館の3階には、副葬品が展示されていた。

骨壺 ヴィッラノーヴァ文化期、前8世紀 テラコッタと青銅板製
『エトルリア文明』は、円錐形を2つ重ね合わせたような形の骨壺は、単純な幾何学文様で装飾されている。蓋が小鉢の場合は、女が実権を握っている家事全体を表すという。
金属製の兜は、戦いにおける典型的な男の価値を象徴しているという。
こういう状態で出土するが、どんな風に埋葬されていたかについてはこちら

家型納骨容器 前8世紀 モンテロッツィ墓地遺跡出土 
同書は、楕円形や長方形の典型的なヴィッラノーヴァ文化期の住居の集落が出土した。
エトルリア南部では珍しい納骨容器が見つかっている。それは家型納骨容器で、とりわけ考古学者の関心を引いた。こうした容器のおかげで、屋根、出入口、窓など、ヴィッラノーヴァ期の人々が実際に住んでいた家についての大まかなイメージをつかむことができるという。
灯明器? テラコッタ
枝分かれした木か鹿の角のようなものの先が皿状のものになっている。
中国戦国時代の多枝灯を思わせる。

金箔を貼り付けて貴重な何かを装飾していたのだろう。

東方化様式の陶器 前8-7世紀 ギリシア(コリントス)からの将来品
実在する動物や、スフィンクスなど架空の動物などが描かれている。
ブッケロ式陶器
『エトルリア文明』は、表面が黒色の陶器である。紀元前670年代にカエレで出現した。そして間もなく、エトルリア南部やラツィオ地方ばかりか、シチリアやカルタゴまで輸出されたのである。容器は極めて薄手で、刻線の幾何学文様で装飾がほどこされている場合が多いという。
ブッケロ式陶器 前7世紀末?
高坏を四脚で支えている。しかも、四脚のうち2本、あるいは4本とも人物が上の器を支えている。
紀元前7世紀以降、エトルリアのブッケロ式陶器の質は低下しているという。
肉厚になり、「ブッケロ・ペザンテ(厚手の黒陶)」と言われたという。
ブッケロは紀元前5世紀には姿を消し、アッティカ式をまねた彩色容器に代わったと考えられるという。
スキュフォス 赤絵式陶器 ギリシア将来
フクロウが描かれているものは、把手の片側は太くて上向きに、もう一方は薄くて縦に付いている。

通りに面した建物の一室。太い梁が通って重厚な雰囲気。奥の部屋とは平たいアーチで分かれている。
15世紀に建てられた当時のフレスコ画だろうか。
ここでは金貨に
銅貨など。

そして金の装身具類
首飾り 金
よくあるが、壺形(中空)を繋いで首に飾るとは・・・でも、マケドニアでは、壺などの容器を中空につくり、その表面に粒金をちりばめている。それは前5世紀第2四半期の頃。大壺はクレタのミノア時代の宮殿クノッソスからも多数出土している。大甕が沢山あるのは、日本で言えば蔵に相当して、富の象徴だったのかも。
それについてはこちら
首飾り 金・粒金
エトルリアといえば粒金、やっと見つけたが、その使い方が控えめ。
首飾り 金
細かな斜格子の玉とゴルコンの首との組み合わせ。宝飾品というよりもお守りの意味合いがふったのかも。
バックル 金
金製のバネ?それとも指輪?
耳飾り 金、粒金・金線細工 一対
やっとエトルリアらしい粒金や金線細工の作品が出てきたが、高いところに展示されていて、しかも棚になっているので、全体が見えへんやん🙄
耳飾り 金、粒金・金線細工
耳飾り 金
耳飾りは婦人が持ち歩く小さなバッグの形かな?
古代世界におけるジュエリーの発展史:本論』によると、鞄を模したバウレ型(バウレット)とか。エトルリアの護符の形かな?
衣服に縫い付けた飾り? 金

下に金製品、奥に青銅製の鏡
鏡 前6-前2世紀 青銅製
『エトルリア文明』は、毛彫り装飾のある青銅製の鏡は、エトルリアの職人が得意とする工芸品のひとつであった。こうした化粧道具は女性用のものなので、彼女たちの好みが装飾の題材に影響を与えている。よく取り上げられたのは女神の像であったという。

香油瓶 ガラス
刃物で上方向と下方向に交互に押さえてできるジグザグ状の文様と、下方向にだけ引っ張ってできる文様とがある。
当時、自立できない形のものはどんな風に置いて使っていたのだろう。
小瓶 アラバスター製も

上階へ
角の鏡に映ったこちら側の梁の並ぶ天井と、剥き出しになった角部の交差尖頭天井
ルネサンス期というよりも、ゴシック期の修道院にいるような建物だが、ゴシック様式教会には二階建ての列柱廊はなかったような。
2階の通路に並んだ棺は3つどころではなかった😮
3階の通路には傾斜のある屋根
3階の回廊からは海へと続く丘と海が二色に見えた。
印の枠の扉口から新たな展示室へ。
入ったところは暖炉のある部屋だった。

ある墓室の副葬品
Giovinettiの墓室(6337号墓)
多数の壺類の奥に人骨?

豹の墓の副葬品 前470年頃
天井中央に平たい梁が通り、その両側に傾斜がある。天井、ペディメント(三角破風)、壁面が絵画によって装飾されている。

モンテロッツィ墓地で発掘された墓室が博物館内で展示されていたが、実際の墓と同様に、外から覗き込むだけ。

船の墓 前5世紀半ば頃
『GUIDE TARQUINIA』は、墓の名称は大きな船に由来する。
左壁奥に描かれているのは、船乗りたちへの給料の支払い。手前には船が描かれ、船での交易で栄えたことを表すという。
右壁
葬儀を厳粛におこなっているという。
奥壁は饗宴図
その続き
饗宴の場面は、寝椅子には必ず二人ずつ3組と、給仕する人物が描かれる。

オリンピアードの墓 前520年頃
同書は、オリンピアードの墓の壁画は最も古いという。
奥壁の中央に扉が描かれるタイプ。その上のペディメントに太い支柱が描かれるのはモンテロッツィ墓地では一般的。
ペディメントにライオンやヒョウといった墓を護る動物ではなく、格闘技の様子が描かれるのは特別である。
下の主画面には、大きな偽扉と墓の番人。
奥壁右端と右側壁
マラソン競技?
その続きは、向きが反対になり、円盤投げなどが描かれているが、右端の帽子を被った人物の前には、頭部に袋を被った人物が描かれている。
左壁
戦車競走が行われている。

Bigheの墓 前5世紀最初の10年
奥壁
主画面は饗宴の場面だが、ペディメントとの間の狭い段にも人物が描かれている。
ペディメントには寝そべった2人の男性
その下には葬祭競技の場面が描かれていた。
左より
武器を持って戦う競技?それをジャッジする馬上の人物。
続いてレスリングなどの格闘技の場面。右端が墓主だろうか。
右壁には踊り子と楽士?

トリクリニウム(ダイニングルーム)の墓 前5世紀第1四半期
奥壁の主画面は、右端が消失しているが、三客の寝椅子に2人ずつ寝そべる饗宴の場面が描かれる。タイトルにもなっているように、これは部屋の三方に寝椅子を置き部屋の入口側は給仕する人が出入りするため、何も置かれない。その部屋の様子を平面的に描いているので、寝椅子が3台横に並んでいるように見える。
拡大
その下の饗宴の場面。テーブルの下にウズラがいて、落ちた食べ物を探して歩いているよう。
その後方にはウズラを狙っているネコ。
ペディメント
支柱に実がたわわに実る葡萄が蔓巻き、それを採ろうと身をねじらせる人物。
天井は、傾斜のある部分は多色の石畳文、梁は支柱と同じ葡萄の蔓
左壁も
右壁も踊り手や楽士が大きく表され、それぞれの間の細い木々には鳥が留まっている。

   タルクィニア 国立考古学博物館1←    →ローマで朝散歩1

関連項目
タルクイニア国立考古学博物館 骨壺葬
古代マケドニア6 粒金細工・金線細工

参考文献
「ETRUSCAN PLACES」 Maurizzio Martinelli Giulio Paolucci  2006年 SCALA
「エトルリア文明 古代イタリアの支配者たち」 知の発見双書37 ジャンポール・テュルリエ 1994年 創元社
古代世界におけるジュエリーの発展史:本論
「GUIDE TARQUINIA」 Giovanni Di Capua 2009年 La cassandra-Pineto