とりあえず昼食。
今回はミマールスィナン設計のモスクやメドレセ、そしてビザンティン時代の聖堂を見ることが主な目的だったが、これまで食べたことのないトルコ料理に挑戦することも大切な事項だった。それで、ピデが美味しいとガイドブック『エキゾチックが素敵 トルコ・イスタンブールへ』にあったホジャパシャピデジシ Hocapaşa Pidecisi に行く予定にしていた。
スルタンアフメット駅からT1のトラムヴァイでシルケジ下車。甘い物土産物屋が並ぶ通りをしばらく歩くと左手に庶民的なアーケード街があった。その中は小さなレストランとその前にテーブル席がずらりと並んでいて、左手奥にその店はあつた。
私もそのテーブル席に坐ろうとすると、身振りで店の中に入るように言われた。
奥がピデを焼く窯。今でも青いタイルで壁面を覆うということをするのだなあと感心。
二階には小さなテーブル席が幾つかある程度なので広くないが、どうも外国人客は二階に通すことにしているらしく、私の向かいにはスペイン語圏の女の子たちがワイワイ食べていた。
二階には小さなテーブル席が幾つかある程度なので広くないが、どうも外国人客は二階に通すことにしているらしく、私の向かいにはスペイン語圏の女の子たちがワイワイ食べていた。
同書は、この店に来たら名物のギュナフカールピデGünahkar Pide、その名も罪深きピデ。薄い生地にチーズ、ひき肉、牛肉のパストラミ(ベーコン)やスジュック(ソーセージ)、最後に卵を落とした全部盛りの濃厚な味とアツアツのおいしさ!カロリーの高さはおそろしくて想像もしたくないけれど、私がイスタンブールでいちばんおいしいと思うピデという。
これから毎日歩き続けるので、カロリーは考えないことにして、その全部盛りとアイラン(薄い塩味のヨーグルトドリンク)を注文。ピクルスはついてきた。
アイランは日本のガラスコップよりも大きめなので、このピデがとんなに大きいかが分かる。切れ目があっても大きすぎて、切れないナイフで格闘しながら食べまくる。
途中で女の子たちは残りを袋に入れてもらってお持ち帰り。若い人でも完食できないほどのボリュームだったが、それでも八割くらいは食べたかな。私は持ち帰っても夕食にさわるのでやめておいたが。
ユスキュダルのミフリマースルタンジャーミイはマルマライで行くと早いですよと、ガイドのアイシャさんに教えてもらっていたが、雨が止みそうもないので後日行くことにして、予定していたソコルルメフメトパシャジャーミイへ行くことにした。
T1のトラムヴァイと言ってもこの辺りは1号線しか走ってない上に観光スポット満載、その上繁華街もあるので、観光客と住民でトラムはいつも満員。坐れるだろうかなどと期待するよりも、次に来るトラムに乗れるかどうかの心配が先。また来たというくらいどんどん来るが、たまに長く待つこともある。
何とか乗り込んでバッグにしっかりと手を掛ける。トラム内も掏摸はいますよとアイシャさんに聞いていたので。
そしてチェンベルリタシュ Çemberlıtaş で下車すると、目の前にコンスタンティヌスの柱と呼ばれているチェンベルリタシュの柱 Çemberlitaş Sütunu がそびえていた。
『望遠郷』は、ディワン大通りの北はずれにチェンベルリタシ(輪のある柱)がある。この柱は1779年に火災にあい、焦げた柱とも呼ばれる。
コンスタンティヌス1世はコンスタンティノープル開都の330年5月11日にこの柱の除幕式を行った。当初この柱の下には斑岩の台座が、さらにその下には5段の柱脚が置かれており、この柱は合計7つの斑岩の柱身から成る柱であった。
この柱は416年に破損し鉄の輪で補強され、近年鋼鉄の輪に替えられた。頂上にはコンスタンティヌスの像をつけた柱頭が据えられ、その後巨大な十字架が取りつけられたが、それも失われた。現在この柱には6つの柱身が残されるのみであるという。
金属で補強された円柱よりも、基壇の方が立派。
『望遠郷』は、この共同浴場はムラト3世の母后ヌルバヌが亡くなる少し前の1583年につくらせたという。
これもミマールスィナンが設計したという。
その向かいのキョプルルメフメトパシャジャーミイ Koprulu Mehmet Paşa Camii には珍しく木造の小さなミナーレがあった。
ここからはペイハネ通り Peykhane Cd.の狭い商店街が続いたが、下り坂の上に大雨と、樋のない建物の上から滝のように落ちてくる雨水と車に気を取られて、狭い歩道をあっちへ渡ったり、こっちへ戻ったりしながらどんどんと歩き続けてしまった。後で見直すと、この取壊し中の建物(風情があると私の目には映るが)とその向こうの新しい建物の間のディズダリエ小路 Dizdariye Ykş.に入るつもりだったのを見逃してしまった。
この辺りは、角かどにおじさんが二人ずつ玄関に坐っておしゃべりをしているので、入口を尋ねてみた。すると、正門ではなく一番近い東側の入口を教えてくれるのだった。それでも正門に回ろうとすると、向こうにいる人に「教えてやれ」と言う。すると言われた人は「こちだ」と指さした。人通りは少ないが、こんな風にそこここに地元のおっちゃんたちが人を見ているので、治安は良いのだろうな。
せっかく教えてくれたので、とりあえずそこから入ってみた。
もう少し進むと中庭に出た。左の柱廊の真ん中が礼拝室への行くなのだが、
正門から入りたかった私は、一度正門の階段を下りた。
正門側を見ても、このモスクが斜面に立っていることが分かる。
『トルコ・イスラム建築紀行』は、カドゥルガの斜面に建設されたキュッリエのモスク。中庭の周囲にメドレセを配置している。近隣の通りとのつながりがよく考えられている。
中庭の入口に向かう小学校の下の通路は、特に興味深い配置。マドラサとモスクは同じ中庭を囲んでいるという。
カドゥルガはこの一帯の地名。
石積みの一階に、アルマシュクという異なる種類の建材を交互に積み上げて壁を築いている。ビザンティン時代にもあった玉座でレンガ層と石材を細い横縞に積んでいる。
見たかったのは、『トルコ・イスラム建築』が、正面入口からは、
『オスマン帝国外伝』という4シーズンもの長々と続いたテレビドラマは、ミマールスィナンが登場するかなと思って見始めた。ところどころでちょっとだけ老人のシナンは登場したが、ソコルルメフメトパシャは最後の方に出てきて、でっぷりとした俳優だった。
『トルコ・イスラム建築紀行』は、このモスクの複合施設を奉献したソコルルメフメトパシャについて、スレイマン、セリム2世、ムラト3世の3人のスルタンの下で大宰相(サドラザム)を務めた、その妻エスマハンスルタンはセリム2世の娘という。
エスマハンは不明だが、これら全ての人はシナンよりも後に生まれたが、シナンよりも先に死亡している。シナンがかなりの長寿だったこともある。
立面図・平面図 主ドームの直径は 12.4m、高さ約23m 1571年建造
同書は、支柱が6本の集中プランの建物で、6本の支柱すべてを壁と一体にして、礼拝室空間の一体化を完璧に実現しているという。
シャドルヴァン(清めの泉亭)と正面玄関
靴を脱いで入る時に、柱廊の上方に並ぶタイルを写そうと思って入口上を撮影したら、スマートフォンは良いがカメラ撮影はだめと、管理人(公務員だそう)に言われたので、ここからはスマホで撮影。
これは入口上部のタイル装飾
最上段は補修材かも知れないが、タイルは最盛期のイズニーク製。トマトの赤と呼ばれる色が鮮やか。赤の発色のために釉薬は盛り上げて塗らないと発色しないとか。そのため、トマトの赤と呼ばれるこの時期の赤い釉薬は100年ほどで枯渇したと何かで読んだことがある。
『望遠郷』は、長方形の建物の中に六角形の礼拝場があり、半ドームを四つ伴ったドームに覆われている。礼拝場には菱形の柱頭を戴く大理石の柱で支えられた回廊がある。アーチの迫り石部分はこの時代特有の赤と緑の大理石を交互に組み合わせたものであるという。
撮影した箇所がわからないがフレスコ画もあった。
『トルコ・イスラム建築』は、ここでは、すべての支柱は壁と一体となっていて円柱ではない。キブラ壁と入口側の支柱を含む壁は厚く強固に造られ、両脇の支柱は力のかかる横方向に長くして強くし、支えのバットレスはない。約19m×16mの礼拝室内に壁から離れた支柱がないので、空間の一体化はほぼ完璧になっている。
礼拝室は、タイル板による装飾が美しい。特にミフラーブを含む区画では、主ドームを支えているアーチの高さまで全面を覆っていて見事であるという。
『望遠郷』は、ミフラーブの上には美しいステンドグラスがはめられているという。
実は、同書がさまざまなモスクのステンドグラスについての記述があるので、今回はステンドグラスにも注目した。
金色の台の上にメッカのカーバ神殿の黒い石の一片が飾られている。そのほかの聖なる石はミンバルとミフラーブにはめ込まれているという。
ミフラーブ壁は一面タイル貼りなのに対して隣の壁はタイルで飾らない。
柵の外からは絶対に見えないもの、それは説教壇の装飾である。大理石の透彫がみごと。
現地ガイドのアイシャさんは、スルタンアフメットジャーミィを見学していた時、窓は二重になっています。外側は丸くて、内側はステンドグラスですと言っていたが、この写真でそれがよく分かった。
ステンドグラスが鉛の線で色ガラスの小片を繋いだものだとすると、これはステンドグラスではないが、英語の stained は汚れたという意味なので、鉛とは限定されていないし、フランス語のヴィトライユ vitrail は窓ガラス vitre から派生した言葉なので、このような漆喰で極小の枠まで作ったものもステンドグラスで良いだろう。
礼拝室内の両側壁や入口側を写すことができなかったことは残念だったが、得たものも多かった。
西入口から出るとここに至る。
角から東囲壁を撮影。更に上り坂だった。
『トルコ・イスラム建築紀行』は、ミフラーブの壁の後ろには修道院とセマハネ(儀式の踊りに使用されるホール)があり、独自の構成を形成しているという。
奥のミナーレは別の小さなモスク。その手前の尖り屋根の辺りに入口があるので、修道院やセマハネ用のものだろう。
セマハネとはスーフィーと呼ばれるイスラーム神秘主義の人たちがくるくる回る旋舞(セマー)をする場所。ソコルルはスーフィーと関係があったのだろうか。
次に向かったのはキュチュックアヤソフィア、元はギリシア正教のセルギオスケバッコス聖堂。
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参考文献
旅ヒントBOOK「エキゾチックが素敵 トルコ・イスタンブールへ」 クラリチェ洋子 2020年 イカロス出版
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士書房インターナショナル
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社
「THE ARCHITECT AND HIS WORKS SINAN」 REHA GÜNAY 1998年 YEM Publication