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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2020年11月10日火曜日

彬県大仏寺 千仏洞


彬県大仏寺絵図(部分、『彬県大佛寺』より)
佐藤悦成氏の寺院遺蹟についての調査報告「中国仏教と破仏」は、大仏寺は貞観2年(628)に尉遅敬徳により創建され、石窟は760年頃に開窟されたといわれるから、当初は本尊としての大仏窟と殿楼のみであり、千仏・羅漢の両洞はなかったことになる。寺前の道路下は涇河の河川敷であり、河岸の岩山を穿って大仏殿は建立されている。道路脇の大仏寺文物管理所から殿楼へ昇れば、正面右に羅漢洞、左に千仏洞が位置し、両窟内とも多数の仏・菩薩・神将・天人が雕られている。羅漢洞は四窟構成であり、千仏洞は三窟により成立している。両窟の諸像とも破仏の影響を受けて、頭部ほかいずれかの部位を欠いているという。 
「破仏」よりも「廃仏」の方がなじみがある言葉だけど😑
大仏窟は初唐期(608-712)、千仏洞・羅漢洞は盛唐期(712-765)も終わりに近い頃に開鑿された。

石段を登ったところにある千仏洞は中心柱窟だった。
『彬県大佛寺』は、696尊の像がある。仏教美術最盛期の典型的な特徴を示している。大きな胸部と腰、そして細い胴部。三曲法によって、像は歌ったり、踊ったりして見え、唐時代の自由で開放的な仏教美術となっているという。
三曲法についてはこちら

右(西)の入口から入ると下の方に電球色の照明がある程度なので、上の方は暗い。壁面には供養者の寄進した仏龕がびっしりと並ぶが、大きなものは高く暗いところにあって、それが見たいのに暗いとは😥
でも撮影が許されているだけでも有り難い。後に訪れた石窟では、撮影はだめ、本もないというところもあったので😂

さて、右が側壁、左が大きな中心柱側となっていて、

まずは左手の北廊に向かい、中心柱の北面にある主龕を見る。
仏七尊像で、後世の補色で妙に鮮やか。現地ガイドの丁さんによると、両端の金剛力士像は、清時代に道教の門神に変えられたのだとか。
釈迦如来は踏割蓮華の上に各足をのせ、椅子に座ったような倚像で、頭部は欠けているが、おそらく右肩後ろは老人の迦葉、左肩には若い阿難が控え、二人の外側にはそれぞれ脇侍、そして、前面に金剛力士が各1体

その下には独尊像や如来と三菩薩像など

右隣の龕には2段の蓮華の蓮台に結跏趺坐する如来とその両側に立つ脇侍。如来は左隣のものよりも細身。
蓮弁の一つ一つがバラバラ。完璧なものよりも、古拙なものや素朴なものを好む私は気に入った😊

左隣の仏龕
主尊は須弥座にのる2段の蓮華座に結跏趺坐し、右の像は渦巻く波のような岩座の上に左足を立てた遊戯座という座り方だ。左の像はまた異なった台座に半跏して、左足を小さな蓮華に置く。
これは未来仏の弥勒、現在仏の釈迦、過去仏の阿弥陀という三世仏だろうか。半跏の阿弥陀如来というのは他に知らないけど🧐
仏龕の左右や上下には銘文が彫り込まれているので、丁寧に見ていけば、造られた年や供養者の名前も分かるかも。

その下の仏三尊像
通肩の如来は結跏趺坐し、両脇侍はかなり大げさな三曲法で身をよじらせている。
佐藤悦成氏の寺院遺蹟についての調査報告の「中国仏教と破仏」で、唐朝武帝による「会昌の破仏」が会昌2年(842)から開始され、同5年に頂点に達した述べられている。
仏・菩薩の頭部などが破壊されたからといって、穴までは開けられなかっただろう。頭部は塑造で穴に射し込まれていたのだろう。

東廊へ

ところどころに単独の如来立像がある。
159龕頂 盛唐(712-765) 龕の高さ2.15幅0.81m
説明パネルは、左腕は垂下して着衣の裾を持ち、右手は施無畏印を結ぶ。広い肩と細い胴部の細身の体である。着衣は体に密着し、衣文は写実的であるという。

二仏並坐像かな?倚像だけれど。
これについてはこちら

下の段には半跏像
着衣から菩薩ではなく如来と判断、蓮台に置く足が通常の反対。

天井や天井に近い仏龕群
仏三尊像の龕が多い。
天井は彫ったままだろうか、ペトラ遺跡にも似た色の異なる地層の重なり。
丁さんによると紅色砂岩。

かさの高い蓮台に立つ体が反っている菩薩とその間に須弥座に結跏趺坐する如来。台座に線刻された3文字は「木金自」と読める。この龕の寄進者だろう。

南廊へ

中心柱側

二仏並立像 27窟 盛唐(712-765) 高さ2.3幅1.5mの龕 
説明パネルは、二如来立像は、丸い蓮台の上に立っている。同じ大きさでふっくらしている。美しい女性の容姿で表されているという。
二仏並倚像があるかと思えば二仏並立像もある。これについてはこちら
頭部は暗くて見えないが、蓮台と共に。
会昌の破仏でも頭部は壊されていないのに、こんなに風化してしまったものも。涇河の氾濫ではなく、雨水がしみこんだものによるという。

南廊から西廊へ

仏三尊像 武周期(690-705) 武氏造像龕
向かって左の菩薩は浄瓶を持っているので観音菩薩かな
主尊は大仏と同じ阿弥陀如来になるのだが、胸前の両手は何かを持っているのだろうか
則天武后の時期(初唐期)の仏像は、三曲していても、反り返ることなく優美🤗

西廊中心柱側
六体の菩薩立像は、やはり一本の蓮から分岐した蓮台に乗る。六観音なのかな?

上には三尊像が2組

下には仏三尊像か三世仏があったよう。
この石窟の特徴として、蓮の茎で違いに結ばれているといえる。

ゆとりのない寄進者用の小さな龕。塑像を貼り付けていたのだろうか。

独尊の仏立像
千仏洞には大腿部に張りのある像が多いのは盛唐期(712-765)の特徴で、日本にも伝えられた。
それについては別記

大腿部は張っているが。胴部は細い。
密着した着衣の衣文が脚部を覆う像が多いなか、本像にはその衣褶が表されず、すっきりとしている。

小龕は出入口まで続いている。

西廊中心柱側最後の龕には仏三尊像


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参考サイト

参考文献
「彬縣大佛寺」 発行年不明 彬县大佛寺石窟博物館