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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2023年4月28日金曜日

リヨン旧市街


一度ホテルに戻り、皆さんと一緒に現地ガイドさんの説明を聞きながら旧市街へ。
旧市街値地図
リヨン中心部地図 LYON TOURISME ET CONGRÈS より


レピュブリック広場は噴水になっていた。

レピュブリック通りを南へ行くと、ハンドルと前輪の間に大きな籠のある自転車があった。子供を乗せるためのものだうか。


その先にはベルクール広場。写真を見て感じるほど大きくはない。
広場が土のままというのは珍しい。

南西隅の外側にはサンテグジュペリと星の王子さまの銅像がある。何故こんなに高いところに・・・

上だけ写していたらこんなに高かったとこを忘れてしまっただろう。


広場からは朝にも通ったボナパルト橋を渡って直進。途中で右手を見ると、サンジャン司教座聖堂の四角い塔と後陣が見えた。
右と奥の建物は朝散歩で反対側を見た公立図書館。両隅に斜めに門がある。

川を渡ると通りはアドルフ・マクス通りと名を変え、広い中央分離帯のある通りになった。
突き当たりにフニクレールとメトロのヴィユー・リヨン(Vieux-Lyon 古いリヨン)駅がある。

ローマ時代の遺跡のパネル。リヨンの最初の街はローマ時代。実は若い頃にリヨンには来たことがあり、この遺跡は外から眺めた。現在ではガロ・ロ-マン博物館があって、そこから眺められるようだ。
遺跡に行くにはサンジュスト St-Just 行きの線、カテドラルに行くには フルヴィエール Fourvière 行きの線と分かれている。

我々は別の路線でフルヴィエールの丘へ。


晴れたら雪のアルプスが見えるはずだが、あいにくの曇り。

光を反射するソーヌ川、少し向こうにはローヌ川も少しだけ見える。


カテドラル・サンジャンも見えている。


新緑はまだ

フルヴィエールのノートルダム・バジリク聖堂
19世紀に建てられたので、

ロマネスク様式の教会が好きな者が中に入ると驚く。昔来た時の記憶はないが、ロマネスク様式の教会などという知識もなかった当時でも、好きにはなれなかった。

モザイクの壁画が両側壁の柱間にあり、


ステンドグラスが煌びやか。

外に出ると、あちらにもこちらにも子供たち。木曜日は課外学習の日で、教室の外に出て見学している。


またフニクレールで旧市街に下りて、リヨンの伝統工芸である織物の様子を見に行った。
まずフニクレールの駅を出て右方向へ。最初の交差点の角には聖人の彫像が。

ここで狭いムールゲ通り Rue Mourguet に右折で入る。日本人のシェフのいるミシュランに認定されたレストラン La Sommelière (女性のソムリエという意味)は全てが臙脂色の木製の扉で覆われていた。近すぎて全部が撮せない。


通りの左端の店で、左折したところに入口があるサンジョルジュ絹織物店 Soierie Saint Georges へ。

作業室には糸を紡ぐ機械や

色糸をボビンに巻く機械の他に


1930年代の機械でビロードを織るところを少し見せてもらった(静止画なし)。
金糸・銀糸を使ったりするらしい。8000本の経糸をパンチカードに従って上下させながら織っていく。このような織物はお城などのの内装に使われる特殊なものという。
あまりにも短時間のため、どんな文様かは分からなかった。


お店を出て、トラマサック通り Rue Tramassac で運良くサンジュスト線のフニクレールが通っていた。その下には中学生か高校生たちの群れ。小学生だけでなく、もっと大きくなっても課外学習の日はあるらしい。


二つの通りに挟まれた建物はリヨン旧市街の薬局 Farmacie du Vieux-Lyon のペパーミントグリーンが目を惹いたが、ガイドさんは薬局の前にある胸像の話をする。

その人はフランスの人形劇を始めたギニョール Guignol 氏だった。

その後フニクレールの駅を通り過ぎて、広場の朝市に目もくれず、

カテドラル・サンジャン方面へ。朝市の搬送車が邪魔だが、カテドラル手前に立つ小さな建物の側壁面が気になったが、

この建物については後日忘れへんうちににて。


カテドラル・サンジャンは
近すぎて全体が入らない。
裏には古い遺構が残っていても、西ファサードはすっかりゴシック。

聖人などの像が嵌まっていた出っ張り。シャルトルの建立開始はロマネスク様式、完成時にはゴシック様式になっていたカテドラルにはあったけれど、ロマネスク様式の教会にはないもの。

ガーグイユ(garguille 樋嘴、辞書には「水がゴボゴボ音を立てて落ちる」とある。擬音からできた言葉だろうか。英語ではガーゴイル)もロマネスク様式の教会にはなかったもの。

サンジャン広場は噴水があったのに視界に入ってもカメラには入っていなかった。


狭いサンジャン通り Rue Saint-Jean へ。狭い通りには中央に溝がある。


次の Rue de la Bombarde ボンバルド(砲撃)通りを左へ折れると北側にバゾシュ広場 Place de la Basoche

説明パネルは、この広場は、1968年に、不衛生な状況によるボンバルド通り6番地の建物の取り壊しに続いて誕生した。 このブロックは、中庭と天窓で換気されていた。 この複合施設の建築上の特徴の1つは、窓のあるらせん階段です。
正方形の現在の枠 (黒い線で区切られている) は、取り壊された建物によって残された空間です。これは、ナポレオン時代の地籍の古い区画区分 (赤い線で区切られている) を含めたものという。
らせん階段は写っていない。


サンジャン通りに戻って右側に裁判所の建物、左に居住区となった。その一つには赤レンガ色のミニアチュールとシネマの博物館があったが、改装中だった。


トラブール Traboule と呼ばれる、リヨン特産の織物を雨に濡れずに運べる通路がある。建物の地上階を縫うように通れる。
その建物は現在でも居住者たちがいるので、公開されているところをガイドさんに案内してもらった。
トラブールについて詳しくは後日忘れへんうちににて。
  

サンジャン通りのドアから入ったのに、出てきたのは牛肉通り Rue de Boeuf だった。
ちょっと広い通りに思えるヌーヴ・サンジャン(新しい聖ヨハネ)広場 Place Neuve St-Jean とのT字路にある牛の浮彫

絹織物の博物館の案内があった。

ヌーヴ・サンジャン広場はブション bouchon と呼ばれる、リヨンの伝統料理のレストランが並んでいた。向こうはサンジャン通りの建物。


サンジャン通りに戻ると、古本屋、

店の前に並んだ中から早々と2冊購入。

チョコレート屋、
何故こういうお店でしかないチョコレートを買わないのか、自分でも不思議。

ここでプラリーヌ praline というアーモンドに赤い色の砂糖を厚くかけたお菓子の説明を聞いた。


後日クレルモンフェランのカルフールで買ったもの。ものすごく硬い。

サンジャン通りをもう少し北に向かった右手にはバレーヌ(鯨)広場 Place de la Baleine 。

広場を過ぎて左手には18番地の水色の扉が開いていた。上のグリルが可愛い。


もう少し北にあるグヴェルヌマン広場 Pl. du Gouvernement を過ぎた左手にギニョールの人形劇の博物館があった。

サンジャン通りを引き返した。

別のトラブールでトロワ・マリー(3人のマリア)通り Rue des Trois-Marie に出て、

南の突き当たりのパレドュジュスティス(裁判所)通り Rue du Palais de Justice へ。

再びサンジャン通りに戻ると、重機がやってきた。

というところで本日の見学は終了。サンジャン通りを南下、サンジャン司教座聖堂を過ぎてエドワール・コメット広場のマルシェの中を通る。

保冷車の肉屋。有機で育てた牛肉が並ぶ。

チーズやヨーグルトも売っている。チーズは買って帰りたいが、初日には買えない。

ソーヌ川に出て、ボナパルト橋 Pont Bonaparte を渡り、

アントナン・グルジュ広場 Pl. Antonin Gourju に面した
建物の角にマリア像や人の像が祀られていることはあるが、こんな奥まったところに両手を広げたマリア像があった。
 
セレスタン河岸 Quai Célestins に面したレストラン、ラ・メール・レア(レア母さん) La Mère Léa  で昼食。
第一次大戦で男性の数が激減したため、リヨンの母さんたちが伝統料理を受け継いで、食堂を維持してきたのだそう。

前菜 サーモンのリエット
これだけでメインといってもいいくらいボリュームがある。白アスパラがリエットを巻いている

アプコットのネクター
南西部を周遊した6月はアプコットの収穫期だったので、ジュースだったが、春にはない。

メインのポトフは巨大以上! 
根菜類の下には巨大な肉塊が。いろんなものが混ざったソースを付けて。

デザートはタルト・オー・シトロン レモンタルト
これも大きい。日本のデザートの3倍くらいある。

全てを間食して、最後は濃いカフェで締める。

レストランのトイレで待っていたとき、高齢のマダムが声をかけてきた。
それはいい習慣ね。この国にはその習慣がないから、コロナに感染して大変だった
花粉症なのでマスクを付けているんですよ
まだ花粉症という名称も一般的ではなかった頃から花粉症だったので、旅行していてマスクをとがめられたときのために覚えてきた文をこんなところで言う機会があろうとは。
今回の旅行では、マスクをしていたからといって非難されることもなかったし、昔日本で防塵マスクを付けていたら好奇の目で見られたことがあるが、そんなこともなかった。さすが個人主義のお国柄。


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参考にしたもの
「LYON TOURISME ET CONGTRÉS」の地図