お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2021年2月16日火曜日

固原に残る戦国秦の長城


今朝もよく晴れている。
固原のホテルの高い階から眺めると、周囲は開発中の地区だった。

固原は彬県、慶陽、涇川などと比べると大きな町だったが、市街地を人が荷台に乗ったトラックなど珍しくなかった。20年近く前のことだが、西安の大通りを自転車で牽いたリヤカーの半分の幅の荷台に寝そべっている人や、半身の豚などが積まれていたことが
思い出される🤗
早朝にダンスをしている人たちも😊

角を曲がって東西の道路へ。すると城壁か長城のようなものが表れた。明代(1368-1644)の長城なのだそうで、かなりの規模だった。

出っ張っているところは監視塔だったかな。
この辺りは修復されていて、当時はこんなに壁が高かったことを実感。

『万里の長城』は、長城の一条は、秦の昭王(?-前251)が西北境に建設した長城である。この昭王は三晋、斉、楚、魏、蜀、趙とことごとく戦い、以後6国は衰退し、秦の統一の基礎を築いた王である。
秦国の西北部と義渠は隣りあう。義渠は中国古代の西戎族の一支族で、岐山、梁山、涇水、漆水の北(今の甘粛省慶陽及び涇川一帯)に分布していた。春秋時代に勢力を強めて王を自称し、秦と時に戦い時に和解した。秦の恵文王のは后元初年(前324)北部辺境に防御工事の築造を行った。しかし義渠の侵犯は止まらず、前318年6カ国連合軍が秦討伐を行った際に再び秦を攻めて勝利している。
秦の昭王の代になって義渠に対抗して長城を築く。後、内乱がありそれに乗じ義渠が謀反するが、昭王の母宣太后が義渠王と通じ一時和睦するも、義渠王が宣太后に殺害され、義渠は黄河以南に駆逐され滅びた。その地に隴西、北地、上郡の3郡を置き、辺境での長城建設を始めたという。
昭王は昭襄王(在位、前307-251)とも呼ばれる(『中国古代文明史3』より)

固原に残る昭王の築いた長城。
寧夏回族自治区固原に残る戦国秦の長城 『万里の長城』より

『万里の長城』は、秦の昭王の長城建設は昭王の35年ころ(前272)もしくはもう少し後に始まったと思われる。このときの長城の場所は『史記』にいう、隴西、北地、上郡など3郡の外周。西は今の甘粛省岷県から始まり、洮河東岸に沿い北へ今の洮県に至り、東南へ渭源の境界に至る。それから東北へ通渭を経て、静寧などの県に入り、寧夏の南境に至り、葫芦河、六盤山を越え、固原県の境に入る。さらに固原県境から東北に折れ、甘粛省環県に入り、陝西省吴起、靖辺、志丹、安塞などの県の横山山脈を東北へ靖辺県天賜湾と安塞県鎌刀湾の間で二条に分かれるという。

地図の朝那が今の固原らしい。
戦国秦の長城略図 『歴史アルバム 万里の長城』より

戦国秦の長城にはバスではあまりにも簡単に到着したが、それを地図から探し出すのは大変だった。
万里の長城 【 Google Earth 接続 】の《固原長城 ツアー》をクリックすると、Google Earthの固原近辺にGuyuan1からGuyuan7までの位置が黄色いピンで示される。S101号線とGuyuan4とGuyuan5の間の線の交差するところに、道の左右に小さな四角形が2つある。それが戦国秦の長城址の監視台(その時代にあったかどうかは不明)で、目印となった。

S101号線の両側に監視台のような焼成レンガ造のものがあるが、もちろん当時のものではない。

見学できる戦国秦の長城は、固原の原州区というところらしい。

元は版築だったと思われる長城に足を踏み入れ、まずは道路脇の監視台へ。
反対側の監視台の向こうにも版築の長城が少し見える。

さて、版築とはいえ、念願の戦国秦の長城来たのだから、時間の許す限り歩いて見たい。
北東方面に続く長城の上には踏み跡があるので、そこそこの人たちが訪れているようだ。

登りがあれば下りもある。なんとなくフタコブラクダの瘤を越えていくみたい。
電信柱や電線などは気にしない😂

放牧している羊さんなどが入り込まないように金網が張り巡らされているのを見ていて思い出した。
騎馬遊牧民たちが移動する時は、自分たちの食料として羊を連れていくので、長城は羊が越えられない高さで良いのだと。ということは、戦国秦の長城は当時よりも崩れて低くなっているだろうが、元々そんなに高くなかったのでは😎

少し高い所から振り返ると、監視台の向こうにも同じようなこぶこぶの長城が続いているのが見えてきた。


どこまで続いているのかは分からないけど・・・

長城の土が飛ばされないように、両側に木が植えられているのかな。

前方の2人のうち後方を歩いているのが若い添乗員氏(2019年現在)
。海外での登山などもする本格的なクライマーで、夏は富士山のガイドをしているというような話を聞いたが、今はどうされているのだろう😶

前方に段々畑が見えてきた😃


横を向くと倉庫のような建物がたくさん並んでいる。物流の拠点があるのかな。高速道路のインターに近いので、仕方のないことだけれど・・・😑


収穫の終わった段々畑にぽつぽつと積まれた藁、或いはトウモロコシの茎など。
そういえば、「天高く馬肥ゆる秋」とは、秋晴れが続いてよく育った草を食べて馬が肥え太った頃、騎馬遊牧民たちが自分たちが収穫したものを狙って今年もやって来るだろうなあと嘆くものだと何かで読んだことがある。

あ、長城が途切れている😮


こんなふうに一つめの長城?をおりて、


次の長城へよじ登ったが、こんなことしていると、長城はどんどん崩れていくのでは😯

段々畑に霜が降りている👀

この山?も越え、


その先にも長城と段々畑が一体となって続いているみたい。なだらかながら、この付近では一番高いところに長城が築かれていたのだ。


霜と思っていたものはマルチングでした😅


車の通る道でいいからもう少し続きを見たいけれど、

長城見学はここまで。長城から下りて、土の道を歩いて道路まで戻った。


飛行機が通過すると写したくなってしまう😉


その後元の道を引き返していると、三輪車を追い越した。このタイプの三輪車はよく見かけた。

近くのインターから高速道路に入り、固原から六盤山に沿って天水へ向かった。

天水までは西安方面も蘭州方面もこの高速道を通るらしい。

高いとは言えない建物だが、建設ラッシュである。

でもすぐに鄙びた風景に😊

寧夏回族自治区とはいいながら、やっと見た清真寺(モスク)👀

うっすらと雪のかかった山々は六盤山。

旅の楽しみの一つは車窓の景色。居眠りなんかしていられまへん😄

やがて六盤山トンネルへ。標高は1900m級で、長さは9480mもある😃

トンネルを抜けると下り坂となり、開けた所には六盤山鎮という町だった。5年前に高速道路が開通して、急速に発展したという。
中国では町中で川を堰き止めて水を溜めているのを時々見かける。

河床には水のない谷

東峡水庫だろうか

やがて静寧という小さな町に到着。静寧駅前

昨日王母宮石窟の薬師如来立像付近から見えた道路がこの町に繋がっていると丁さんが言っていたのを思い出した。

町の名物は鶏の丸焼きと
大餅という名の硬いパン
そしてリンゴ。丁さんによると、フジリンゴとのこと。

それを買って餐庁(さんちん、食堂)へ。

小さく柔らかなキクラゲがたくさん入った料理
どこに行ってもキクラゲが出てきた。美味しかったので、後日超市(スーパーマーケット)で購入😁
麻婆豆腐もよく出た
そして大餅はこんな風に切られて出た。味はなく、お腹に重い
鶏の丸焼きも冷たいまま解体されて出た。
他にもテーブルから溢れるほど皿が並んだが、撮り忘れた。というのも、若い店員たちがやってきたから。
日本人を初めて見ました。お爺さんに日本人は人を見たら殺すと聞いていましたが、皆さんはそんな感じが全然しません
皆さんその言葉にびっくりして、笑うしかなかったです😅

餐庁を出るとまた三輪車が走っていた。寒いのにドアがない😬

関連項目

参考文献
「歴史アルバム 万里の長城 巨龍の謎を追う」 長城小站編・馮暁佳訳 2008年 恒文社 
「中国古代文明史3 春秋戦国 争覇する文明」 稲畑耕一郎監修・劉煒・何洪著 2007年 創元社